3章
美奈子はさっと顔を青ざめさせ、香織里を見つめた。唇が震えている。
長い前髪から覗く目が揺れていた。
「わ、私が何をしたか知っていて、話しかけているんですか……」
「ちょっとだけ知っています。ごめんなさい。勝手なことをして。でも、美奈子さん、何回もここに足を運んでいて、思ったんです。お見送りをしたくても、できないんだろうなって」
香織里の手を振り払った美奈子は、手首を擦った。
だが、逃げはしなかった。唇を噛んでいた。
「コーヒー、飲んでいきませんか。代金はいりませんから」
香織里は美奈子を打ち合わせ席に招いた。
梗花は美奈子からだいぶ距離を取っていた。何か思うことがあるのかもしれない。
香織里は早紀にコーヒーを持ってくるように頼み、美奈子の前に座った。
髪はぼさぼさだった。痩せこけていて、覇気がなかった。唇は乾燥していて、ひび割れていた。
「……出所したばかりなんです」
美奈子は背を丸め、小さい声で話し始めた。
早紀が持ってきたコーヒーに手をつけないので、香織里は先にコーヒーをどうぞ、と声をかける。
骨ばった手がカップを持ち上げ、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
「こんな私に、優しくしてくれて、すみません……」
「何か事情があったんだと思います。梗花ちゃんに手向ける花を探しに来ていたんですよね」
「葬儀はやっていません。墓もないです。火葬だけして、骨を家に置いたまま……。何度か、梗花の死を認めようとしたんです。でも……でも……、それをしてしまうと、もう……、まだ……本当は、梗花と一緒に過ごしたかったのに……」
これが、捕まった理由であり、葬儀をしていない理由だった。
事故当時、美奈子は気が動転してしまい、適切な処置をすることができなかった。その時は、夕飯の支度をしていたという。梗花は泣くこともできず、苦しみの中で息を引き取った。
そこですぐに救急車を呼べばよかったのに、美奈子はそれができなかった。
自分が殺してしまったのが知られてしまう。そういう思いもあった。
遺体が腐りはじめても、美奈子はどうすることもできなかった。結局、近所の住民に異臭がすると通報され、罪に問われてしまった。
もう少し一緒にいたかった。本当はもっと可愛がりたかった。それが梗花の旅立てない一つの理由であり、美奈子がお見送りできない理由だった。
死から先に進めないどころか、死を受け入れることもできないのだ。
「美奈子さん、ちょっと待っていてください。葬儀コーディネーターを呼んできますから」
「でも」
「大丈夫です。ご希望に沿ったお見送りを提案してくれるコーディネーターですから。美奈子さんはお見送りをすべきだと思いますよ」
早紀には、美奈子にシフォンケーキを出すように伝えた。あまり食べていないような気がしたからだ。
営業所に走り、一歩にある程度の説明をした。一歩は新しいプランシートを持ってカフェに来てくれた。
香織里は一歩の隣に座る。いつぶりだろう。こうやって一歩と打ち合わせをするのは。
「福原です。東条からだいたい話は聞きました」
名刺を美奈子に渡し、一歩はプランシートに『室町美奈子様、室町梗花様』と名前を記入した。
「あの、ごめんなさい、葬儀をしようとは思っていなくて」
「お見送りの形はいくつもありますから、大丈夫ですよ」
一歩は机の隅に置かれていたメニュー表を出した。
「お見送りランチというものがありまして。思い出の料理を食べてお弔いができるプランがあるんです。葬儀は、ご遺族の方がゆっくりと故人様の死を受け入れる場でもありますが、でも、別に葬儀という形じゃなくてもいいんです」
『お見送りランチ』と書かれた部分を一歩は指差した。
「代金も普通の食事と同じくらいです。本当に気楽に昼食を食べるつもりで来ていただければ十分です。骨壷とか遺影とかの準備もいりませんし、こちらもこれ以上の営業はしません」
どうですか、と一歩が提案をする。
香織里はその隣で、ドキドキしながら美奈子の返事を待っていた。一歩の言葉に熱が籠もっていたからだ。
「――あの時……、あの時、梗花に食べさせたかった夕飯……。何度か作ろうとしたんですけど、作ろうとすると手が震えてしまって……」
香織里は頷いた。
「教えてくれませんか」
一歩からプランシートが手渡される。
香織里は美奈子から事故当時作っていたものを詳しく聞いた。美奈子の記憶が曖昧なところがあったが、メインとなるものは分かった。
お見送りの日は明後日の夜となった。事故の時刻に合わせて、閉店後の午後七時半にした。お見送りランチというよりは、お見送りディナーだった。
香織里は早速、食材を買ってきて試作を始めた。香織里にとっては初めて作る離乳食だった。
できたものを育児経験のある人に食べてもらい、アドバイスをもらった。もう少し柔らかめがいい、と言われたので、分量の調整をした。
もう一回作ろうと思ったところで一歩から声がかかる。時計を見ると、閉店時間はとっくに過ぎていた。
翌日、美奈子から、当時使っていた皿を受け取った。クマの形をしたプレートだった。
耳の部分にはサラダを置くことにした。
離乳食を作っていると、思うことがあった。
「美奈子さん、梗花ちゃんのこと、とっても大切にしてたと思うよ」
梗花はずっとそわそわとしていた。香織里は閉店後、梗花に話しかけた。
「お母さんを悲しませたから、悪かったなって思ってる?」
いつもにこにことしている梗花にも、胸の中に罪悪感のようなものがあるのかもしれない。だから梗花は美奈子から距離を取っているのだろう。
「明日、梗花ちゃんも一緒に食べてね。お母さんの気持ち、分かると思うから」
施錠を終えて、裏口から外に出ると、今日も一歩が待ってくれていた。
「遅い」
「ごめん、初めてだし、中途半端なものは出せないと思って。でも、いいのができたと思う。ありがとう、お見送りランチの提案してくれて」
「いいんだって。園子さんに頼んで、花もちょっとだけ用意することにした。閉店後に園子さんが準備しに行くからよろしく」
「え、そこまでしてくれるの?」
「僕らにも仕事をさせてくれよ。園子さんも張り切ってたし。お見送りランチも葬儀のうちの一つなんだから。みんなでお見送りをする。それは変わらない」
そうだった。香織里は胸が温かくなるのを感じた。
一歩のプランに合わせ、香織里が料理を作り、園子が花を用意する。それは今までやってきた葬儀と同じだ。
形は違うが、これもまた一つの葬儀だ。
死を受け入れ、未来に一歩踏み出すための葬儀なのだ。
故人と遺族が繋がり、別れ、故人も遺族もそれぞれの未来に旅立つ。それがあいメモリーの理想とする葬儀、一歩の理想とする「いいお見送り」なのだ。
帰宅後、香織里は特大のオムライスを作ってしまった。
父からは「愛翔でもこんなに食べられないぞ」と笑われた。
「いいことあったのか」
「そうだね。明日が楽しみなんだ」
「デートか」
「違うよ。葬儀」
葬儀が楽しみだなんて言うのもおかしいが、本当に楽しみだった。
余ったオムライスを少しだけ別の皿に取り、仏壇に持っていった。
手を合わせ、母を想う。心の中の母は、香織里に笑顔を見せてくれていた。
長い前髪から覗く目が揺れていた。
「わ、私が何をしたか知っていて、話しかけているんですか……」
「ちょっとだけ知っています。ごめんなさい。勝手なことをして。でも、美奈子さん、何回もここに足を運んでいて、思ったんです。お見送りをしたくても、できないんだろうなって」
香織里の手を振り払った美奈子は、手首を擦った。
だが、逃げはしなかった。唇を噛んでいた。
「コーヒー、飲んでいきませんか。代金はいりませんから」
香織里は美奈子を打ち合わせ席に招いた。
梗花は美奈子からだいぶ距離を取っていた。何か思うことがあるのかもしれない。
香織里は早紀にコーヒーを持ってくるように頼み、美奈子の前に座った。
髪はぼさぼさだった。痩せこけていて、覇気がなかった。唇は乾燥していて、ひび割れていた。
「……出所したばかりなんです」
美奈子は背を丸め、小さい声で話し始めた。
早紀が持ってきたコーヒーに手をつけないので、香織里は先にコーヒーをどうぞ、と声をかける。
骨ばった手がカップを持ち上げ、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
「こんな私に、優しくしてくれて、すみません……」
「何か事情があったんだと思います。梗花ちゃんに手向ける花を探しに来ていたんですよね」
「葬儀はやっていません。墓もないです。火葬だけして、骨を家に置いたまま……。何度か、梗花の死を認めようとしたんです。でも……でも……、それをしてしまうと、もう……、まだ……本当は、梗花と一緒に過ごしたかったのに……」
これが、捕まった理由であり、葬儀をしていない理由だった。
事故当時、美奈子は気が動転してしまい、適切な処置をすることができなかった。その時は、夕飯の支度をしていたという。梗花は泣くこともできず、苦しみの中で息を引き取った。
そこですぐに救急車を呼べばよかったのに、美奈子はそれができなかった。
自分が殺してしまったのが知られてしまう。そういう思いもあった。
遺体が腐りはじめても、美奈子はどうすることもできなかった。結局、近所の住民に異臭がすると通報され、罪に問われてしまった。
もう少し一緒にいたかった。本当はもっと可愛がりたかった。それが梗花の旅立てない一つの理由であり、美奈子がお見送りできない理由だった。
死から先に進めないどころか、死を受け入れることもできないのだ。
「美奈子さん、ちょっと待っていてください。葬儀コーディネーターを呼んできますから」
「でも」
「大丈夫です。ご希望に沿ったお見送りを提案してくれるコーディネーターですから。美奈子さんはお見送りをすべきだと思いますよ」
早紀には、美奈子にシフォンケーキを出すように伝えた。あまり食べていないような気がしたからだ。
営業所に走り、一歩にある程度の説明をした。一歩は新しいプランシートを持ってカフェに来てくれた。
香織里は一歩の隣に座る。いつぶりだろう。こうやって一歩と打ち合わせをするのは。
「福原です。東条からだいたい話は聞きました」
名刺を美奈子に渡し、一歩はプランシートに『室町美奈子様、室町梗花様』と名前を記入した。
「あの、ごめんなさい、葬儀をしようとは思っていなくて」
「お見送りの形はいくつもありますから、大丈夫ですよ」
一歩は机の隅に置かれていたメニュー表を出した。
「お見送りランチというものがありまして。思い出の料理を食べてお弔いができるプランがあるんです。葬儀は、ご遺族の方がゆっくりと故人様の死を受け入れる場でもありますが、でも、別に葬儀という形じゃなくてもいいんです」
『お見送りランチ』と書かれた部分を一歩は指差した。
「代金も普通の食事と同じくらいです。本当に気楽に昼食を食べるつもりで来ていただければ十分です。骨壷とか遺影とかの準備もいりませんし、こちらもこれ以上の営業はしません」
どうですか、と一歩が提案をする。
香織里はその隣で、ドキドキしながら美奈子の返事を待っていた。一歩の言葉に熱が籠もっていたからだ。
「――あの時……、あの時、梗花に食べさせたかった夕飯……。何度か作ろうとしたんですけど、作ろうとすると手が震えてしまって……」
香織里は頷いた。
「教えてくれませんか」
一歩からプランシートが手渡される。
香織里は美奈子から事故当時作っていたものを詳しく聞いた。美奈子の記憶が曖昧なところがあったが、メインとなるものは分かった。
お見送りの日は明後日の夜となった。事故の時刻に合わせて、閉店後の午後七時半にした。お見送りランチというよりは、お見送りディナーだった。
香織里は早速、食材を買ってきて試作を始めた。香織里にとっては初めて作る離乳食だった。
できたものを育児経験のある人に食べてもらい、アドバイスをもらった。もう少し柔らかめがいい、と言われたので、分量の調整をした。
もう一回作ろうと思ったところで一歩から声がかかる。時計を見ると、閉店時間はとっくに過ぎていた。
翌日、美奈子から、当時使っていた皿を受け取った。クマの形をしたプレートだった。
耳の部分にはサラダを置くことにした。
離乳食を作っていると、思うことがあった。
「美奈子さん、梗花ちゃんのこと、とっても大切にしてたと思うよ」
梗花はずっとそわそわとしていた。香織里は閉店後、梗花に話しかけた。
「お母さんを悲しませたから、悪かったなって思ってる?」
いつもにこにことしている梗花にも、胸の中に罪悪感のようなものがあるのかもしれない。だから梗花は美奈子から距離を取っているのだろう。
「明日、梗花ちゃんも一緒に食べてね。お母さんの気持ち、分かると思うから」
施錠を終えて、裏口から外に出ると、今日も一歩が待ってくれていた。
「遅い」
「ごめん、初めてだし、中途半端なものは出せないと思って。でも、いいのができたと思う。ありがとう、お見送りランチの提案してくれて」
「いいんだって。園子さんに頼んで、花もちょっとだけ用意することにした。閉店後に園子さんが準備しに行くからよろしく」
「え、そこまでしてくれるの?」
「僕らにも仕事をさせてくれよ。園子さんも張り切ってたし。お見送りランチも葬儀のうちの一つなんだから。みんなでお見送りをする。それは変わらない」
そうだった。香織里は胸が温かくなるのを感じた。
一歩のプランに合わせ、香織里が料理を作り、園子が花を用意する。それは今までやってきた葬儀と同じだ。
形は違うが、これもまた一つの葬儀だ。
死を受け入れ、未来に一歩踏み出すための葬儀なのだ。
故人と遺族が繋がり、別れ、故人も遺族もそれぞれの未来に旅立つ。それがあいメモリーの理想とする葬儀、一歩の理想とする「いいお見送り」なのだ。
帰宅後、香織里は特大のオムライスを作ってしまった。
父からは「愛翔でもこんなに食べられないぞ」と笑われた。
「いいことあったのか」
「そうだね。明日が楽しみなんだ」
「デートか」
「違うよ。葬儀」
葬儀が楽しみだなんて言うのもおかしいが、本当に楽しみだった。
余ったオムライスを少しだけ別の皿に取り、仏壇に持っていった。
手を合わせ、母を想う。心の中の母は、香織里に笑顔を見せてくれていた。