3章

 約束の時間ギリギリになってようやく袋詰が終わった。
 朝になって作りたいものが決まって、それには材料を揃える必要があり、作り始めるのが遅くなってしまったのだ。欲しいものが売ってあるかどうかも怪しかったが、スーパーに奇跡的に置いてありほっとした。
 父にはお茶の時間になったら食べてと伝えておいた。
 愛翔がいなくなり、今日は香織里も外出で、父は一人だ。謝ると、心配しすぎだと言われてしまった。
「夕飯までには帰るから」
「別にいいよ。香織里が帰ってこなかったら、適当に作って何か食べるから」
 愛翔と似たようなことを言って、と、香織里はつい笑ってしまった。花柄のシフォンワンピースを着ているから、デートかと思っているのだろう。ワンピースなど普段着ないから。
 玄関に出る前に、仏壇の前に座った。できたてのお菓子もお供えをする。
 ふわりと立つ線香の香り、りんの音。香織里は手を合わせて目を閉じる。今朝からずっと胸の中にあったざわめきがすっと落ち着いていった。
 行ってきます、と母に挨拶をして、玄関に向かった。約束の時間より五分ほど早かったが、一歩も五分早く到着した。
「ごめん、早すぎたかな」
「ううん。ちょうどよかった。迷わなかった?」
「すぐ分かったよ。大丈夫」
 一歩は白のシャツに黒のチェスターコートを合わせていた。色合いがいつもの制服と似ていて、だから香織里は余計に意識しなくて済んだ。
 スタンドに置いてあるスマホの画面を見ると、ナビが起動していた。一歩はすぐに車を走らせた。
 香織里は行き先を聞かなかったし、どのくらいかかるのかも聞かなかった。聞かない方がいいかと思ったからだ。
「車、出してくれてありがとう」
「いいんだってば。僕の行きたいところにいつも付き合わせているし、それに、今の香織里さんに運転させたら事故しそうなんだよ」
「なんで、私、運転は好きな方だよ」
「店でぼうっとしてたからだろ」
 そう言われてしまうと、香織里も何も言い返せない。心配させてしまっていたのだろうか。このタイミングでお出かけに誘われたのは、一歩に気を利かせてしまったからだろうか。そう思うと、申し訳なくなってくる。
 信号が赤になり車が止まると、一歩がハンドルに添えた人差し指をトントンと鳴らしていた。イライラするタイプなのだろうかと思って、気付かれないように横を見るが、顔には出ていなかった。
 三十分ほどして、車は見知った店の駐車場に入った。
 『ベリーズ・ベリー』だった。
「良かった、間に合った」
 一歩はほっとして車から降りる。人差し指を動かしていたのは、予約時間にギリギリだったからなのかもしれない。香織里もなんとなくほっとして、一歩の後をついていく。
 店員に案内されて席につくと、一歩はすぐに期間限定メニューを指差した。
「これ。春限定の新作だって。香織里さんはこういうの食べられるかな」
 写真のパフェは、この店らしく大きないちごが載っていた。変わっていたのはホイップクリームの色だ。淡い桃色に色づいている。
「桜?」
「そ。クリームを桜風味にして、ちょっとだけ和風に寄せたんだって」
 いつもの通り一歩は一番大きいサイズを、香織里はその一つ下のサイズを頼んだ。
 膝の上に置きっぱなしにしていた鞄を机の下にあったかごに入れようとして、香織里ははっとした。鞄の中に入れているものを思い出した。
 やっぱりなかったことにしよう――そう決めて、鞄をかごに置いた。
「桜といちごって合うのかな」
 窓の外を見ると、満開に咲いている桜が見えた。
「どうだろう。調べたら桜といちごの組み合わせって結構あったんだけど。実際食べるのは僕も初めてだから」
 このパフェを待っている間、いつもなら一歩とはcafeおてんとの話をしていた。パフェのメニューを見て、cafeおてんとらしいパフェとは何かを考えたり、ランチのメニューはどうしたらいいかを考えていた。
 だが、今日はその話が出てこない。てっきり、おてんとちゃんのお見送りの話をするのかと思っていたが、ノートも出さないし、おてんとちゃんの名前も出さなかった。
 疑問に思っていると、店員がパフェとコーヒーを運んできてしまい、結局仕事の話は何もできなかった。
「桜風味ってなんか甘じょっぱいイメージがあったけど、あんまりしょっぱさは感じないな」
 一歩は相変わらずのスピードでカップを空にしていく。感想はその一言だけだった。
「蜜漬けも使ってるんじゃないかな。全体的にふんわりした甘さで美味しいと思う」
 クリームの甘さは控えめだが、いちごは想像以上に甘かった。真ん中の層はいちごのゼリーになっており、透き通った層は綺麗だった。
「……どうやったら、こんなの思いつくんだろう……」
 cafeおてんとの花と果物のパフェだって、負けていないと思う。皆の知恵をかき集めて完成したパフェだ。それなのに、今食べたパフェと比べると、劣っているような気がしてしまった。
 カップを横から眺め、どうやって作られたかを想像しながら味わう。食べすすめるごとに、自信がなくなってきてしまった。
 完食する頃には、黙り込んでしまっていた。
 そんな自分をじっと一歩が見ていることに気が付き、香織里は慌てて謝った。
「ご、ごめん、黙っちゃって」
「――いや、僕が選んだ場所が悪かった。今の香織里さんは来てはいけない場所だったかもしれない」
「どういうこと?」
 一歩は何も言わず立ち上がった。香織里も慌てて一歩についていく。会計は一歩が全部支払ってしまい、香織里が出すタイミングがなかった。
 車を駅前の駐車場に置き、それから徒歩での移動になった。一歩が一体どこに行こうとしているのか全く分からなかった。香織里は一歩の後ろを歩いて着いていくしかなかった。
 しばらく歩いていると、ある公園に着いた。桜が何本かあり、花見客もいた。
 だが一歩は歩みを止めなかった。細い道に入り、坂を登っていく。香織里はだんだん不安になって、どこに行くのかと聞こうとした時だった。
 目の前が開けたのだ。街中の桜が一望できる高台だった。風が吹けば、花びらが街の上を舞う。きらきらと輝いているようにも見えた。
 素晴らしい眺めなのにも関わらず、ここには誰一人としていなかった。先程通った道が細すぎて分からないのだろう。
 一歩は端にあるベンチに座った。香織里もその隣に座る。
「しんどい時、よくここに来てた。生きてるなって思いたかった。人が生活しているのを、ここから眺めてた。仕事を忘れることができる場所」
 それでようやく香織里は気がついた。
 一歩が仕事の話を全くしなかったのは、香織里に気晴らししてほしいと思っていたからなのだ。カフェから早く出たのは、食べながら仕事のことを考えていたからなのだ。
 香織里は鞄を抱きしめた。
 やっぱり、今日渡すのはやめよう。一歩に励まされるほど自分は落ち込んでいたのだ。今日作ったものも美味しくないかもしれない。そう思った時だった。一歩が香織里の鞄を見る。
「持ってきてるんでしょ? 食べさせてよ」
「で、でも。美味しくないかも。それに、さっき食べたものとかぶっちゃう」
 潰れても良かった。香織里はぎゅっと鞄を抱きしめ、一歩の手に渡らないようにした。
 涙が出そうだった。
 一歩の思いやりが、苦しい。
「やっぱり、私に、仕事で料理を作るなんて無理かもしれない。一歩くんに美味しいって言われないなら、作らないほうがいい。いいアイデアもないし、私なんて……」
 退職した時のこと、一歩に何度も仕事の注意を受けたこと、全部が蘇り、香織里は俯いた。やっぱり自分は、何も上手くできないのだ。そう思うと、喉が熱くなった。鞄に涙が落ちて、慌てて手で拭う。
「……でも、そういう香織里さんだから、僕は香織里さんの力になりたいって思うんだよ。香織里さんがいつも一生懸命になってるの、分かってるからさ。香織里さんがいつも美味しいものを作れるように、支えになりたいって思ってるから。園子さんだって、みのりさんだって、みんな同じ思いだよ。ごめん、泣かせるつもりじゃなかったんだ」
「それは分かってるよ……分かってる……」
 一歩が髪をぐしゃぐしゃとかき乱し、香織里の手を掴んだ。
 涙で酷くなっている顔を見られたくないのに、これでは丸見えだ。
「香織里さんは、一人でなんとかしたいって思っているかもしれない。けど、一人じゃどうにもならないこともあるんだよ。実際、僕には、香織里さんが必要だったんだ。それと同じだろ? 香織里さんもあいメモリーのみんなが必要なんだ。僕もその一人になりたいってずっと思ってる。あいメモリーは香織里さんを必要としている。それは確かだよ」
 そこまで言って、一歩は唇を噛んだ。ぼそぼそと何か言っている。違う、そうじゃない、という呟きが聞こえてきた。
「香織里さん、それ、食べさせてよ」
「潰れちゃってるよ、もう。きっと美味しくないよ」
「そんなの関係ない。だって今日作ってきたのは、僕のためだけのものだろ。今日も余り物なの?」
「ち、違う……よ、一歩くんに食べてほしくて……、一歩くんに、美味しいって言われたくて作った」
 香織里は涙を拭って、鞄の中から包みを取り出した。透明な袋の中に入っていたのは、桜の花びらが散ったシフォンケーキだった。
 目の前で一歩がケーキを食べる。食べ終わるのを、香織里は祈るように待っていた。
「……僕は幸せ者だと思う。好きな人に、こんなに美味しいものを作ってもらえるんだから」
 包みを丁寧に折りながら一歩ははにかんだ。
「ずっと香織里さんの作ったものを食べていたいし、本当はこの味を独り占めしたい。美味しい。僕のために作ってくれたものはどれも美味しい。美味しいし、嬉しい」
「わ、私も、好きな人に食べてもらえて、嬉しい。一歩くんに美味しいって言ってもらえるのが、一番嬉しい」
 一歩が好きなのは、料理だけかと思っていた。でも、作り手の自分も好きになってくれていた。嬉しさがこみ上げてきて、また香織里は大粒の涙をこぼす。
 一歩の手が頬に添えられて、香織里の口の中に桜の味が広がった。
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