3章
一歩の担当する式は無事終わった。香織里は今日もカフェから霊柩車の出発を見送り、式を終えた喪主にコーヒーを出すだけだった。
他の時間はレシピ開発に使っていた。早紀と一緒に試行錯誤するのはもちろん楽しいが、食べてほしいからやっていることであって、開発すること自体は目的ではなかった。
日が経つにつれ、焦燥感は膨らむ一方だった。
早紀には申し訳ないが、早めに退勤してもらった。退屈な時間を過ごさせてしまうことに対しても申し訳なさがあったからだ。早紀からは早いうちに退職の申し出があるかもしれない。
「――さん、香織里さん」
一歩に呼ばれて、香織里ははっとする。暮れゆく外の景色をぼんやりと眺めていたらしい。一歩はカウンター席にいた。目の前に座っている。それすら気が付かないほど、ぼんやりしていた。
「あ、ごめん、パフェ食べにきたの?」
「そうじゃなくて、試作のケーキのことなんだけど、今日の小豆のシフォンケーキ、僕は粒が大きい方がいいなって思った」
試作したシフォンケーキは、式を終えたスタッフたちにも試食してもらっていた。だが、感想はいつも美味しいだけだった。一歩はいつもの通り、香織里の作るものならなんでも美味しい、である。
「一歩くんが意見するの、珍しいね」
「違う、珍しいことをしているのは香織里さんの方だろ」
言われても、香織里はすぐにはその意味を理解することができなかった。自分はいつもどおり作っているからだ。特に変わったようなことはしていない。
「特別なことは何もしてないんだけど」
「香織里さんが僕の好みから外れるようなものを作るなんてこと今まで一度もなかった。香織里さんは僕にいつも意見を求めるけど、僕は本当に美味しいって思ってたよ。香織里さんが僕のために合わせて作ってくれているんじゃないかって疑うほどに」
言われた通り、一歩の口に合えばいいなと思って作ってきたものは色々とある。だが、それは私的なものに限ってであって、店に出すものはそんなつもりはなかった。
無意識に――いつも愛翔や父に指摘されるように、無意識に自分の気持ちが店の料理に反映されているとしたら恥ずかしい。そう思ったところで、香織里はようやく気付いた。
自分の焦燥感が今日の試作に出てしまっていたのだ。
「おてんとちゃん……」
「おてんとちゃん?」
「あ、呼びにくいから、私が勝手に名前をつけたんだ、あの子に」
店内の花を眺めているおてんとちゃん。一歩には伝え忘れていた。
「社長に、あの子のお見送りができたら満点だねって言われて。でも、あの子が求めていることはちっとも分からないし、方法も思い浮かばないし、お客様も全く来ないし……どうしたらいいかなって考えながら作ってたから、美味しくなかったのかも」
「なるほど、そういうことか」
一歩は椅子の下に置いていた鞄からノートを取り出した。カフェのアイデアを書き留めるのに使っていたノートだ。
新しいページを出して、見出しに『おてんと様』と記入する。その下には『故人、おてんと様』と書く。それはまるでプランシートそのものだった。
「誰が見送るのか分からない状態だ。それをはっきりさせないといけない」
「ここで葬儀をしていないから、関係する人が分からないよね。おてんとちゃんが何ヶ月もどこにも行かないのは、ここで誰かを待っているからかなって思ったんだけど。でもお店はこの様子だし。おてんとちゃんは話せないし」
「じゃあ、今一番にしないといけないことは、ここにおてんとちゃんと繋がりのある人を呼ばないといけないということか」
「でも、そんな都合よくいく? その人がここに来てくれるとは限らないよ」
一歩はボールペンを回しながらしばらく考えたが、特に目新しいアイデアは出てこなかった。ノートを閉じ、鞄の中に入れて立ち上がった。閉店時間から一時間ほど経っていた。香織里も帰る準備をする。
香織里が店の戸締まりをしている間、一歩は裏口で待ってくれていた。
駐車場に向かう中、香織里はぽつりと言った。
「なんかごめん。一歩くんの仕事増やしちゃって」
先を歩く一歩の背中に謝った。香織里が立ち止まると、一歩は首をかしげながら振り返る。
「いや、僕の仕事でもあるだろ、お見送りは。コーディネーターは僕で、香織里さんはアシスタントなんだから。当然のことをしているだけだけど?」
「もう一歩くんと一緒に誰かのお見送りをすることはないって思ってた」
「なんで? 香織里さんはずっと僕のアシスタントだろ?」
僕の、と言われて、香織里は泣きそうになった。
「でも、もう葬儀に出ることはないし。打ち合わせも頼まれたものを出すだけだし。カフェから霊柩車の出発だけを見てて、もう葬儀には関われないんだなってちょっと寂しく思ってた」
喉の奥が熱い。言葉にしてしまうと、自分が情けなく感じてしまう。
一歩は溜息をついて、香織里の元に歩み寄った。
「確かに、二人で打ち合わせをすることはなくなったし、香織里さんは葬儀に直接参加しなくなった。けどさ。僕はずっと、香織里さんと仕事してるつもり。だから僕は社長に、アシスタントはいらないって言ったんだ。香織里さんがお見送りしたい人がいるなら、僕もコーディネーターとして仕事をする。お見送りの場を整えるのは僕の仕事だから。おてんとちゃんの件については宿題にさせて」
一歩はそこまで言って、首を横に振った。違う、そうじゃない、と呟いているのが聞こえた。もうマフラーはしていない。一歩の口元を隠すものは何もなかった。
「香織里さん、明日、暇? 休みだよね」
「え、えっと……まあ、暇ではあるけど」
「分かった。あとで連絡する。お疲れ様」
この流れは、また一歩のパフェ巡りに付き合わされるやつだ。
翌日、暇かどうか聞いてきて、それから帰宅後に待ち合わせをするカフェを指定される。だいたい一歩が気になっている店だった。
入浴中、一歩の言葉が香織里の胸を何度もくすぐった。
自分が勝手に一歩から離れてしまっていただけなのかもしれない。一歩が新しいアシスタントと組まない理由に嬉しくなる。
入浴後、ベッドに入ってだらだらと動画を見ていると、一歩からの連絡を知らせる通知が入った。指定のカフェのサイトのアドレスが届いたのだろうと思って開いて、香織里は驚いた。
『香織里さんの家どこ? 迎え行くんだけど』
飛び起きて、ベッドの上で正座になる。
いつも別々で待ち合わせ場所に向かっていたのに、どうしてこのタイミングで迎えに行くなどと言ってくるのか分からなかった。
別にいいよ、自分で行くよ、と返信したが、一歩は引き下がらなかった。
『僕が付き合わせてるんだからこのくらいしてもいいだろ』
『今までそうしなかったのが悪かった。そのくらいさせて』
立て続けにメッセージが飛んでくる。香織里は折れ、家の住所を送った。
時間はいつも通り。いつも通り、食べながら仕事の話をする。きっといつも通り。特別なことはない。香織里はそう自分に言い聞かせて、スマホを投げて横になった。
それからしばらくして、うたた寝をしていると通知音が鳴った。
『明日こそ美味しい香織里さんのお菓子が食べたいんだけど。お店のやつじゃなくて。あ、でも大変だったらいいから。おやすみ』
それを見て、香織里は笑ってしまった。お菓子なのだ。一歩が好きなのは。
『分かった。何か作って持っていく。おやすみ』
何を作るかは明日になって考えよう。何を着ていくかも明日になって考えよう。香織里は送信ボタンを押して寝そべりを打った。仰向けになり、深く息を吐く。
お店のものじゃないものと言われて、気持ちが楽になった。
そういうところが、ずるくて、好きになってしまう――。
香織里は枕を胸の上に置いて、夢に落ちた。
他の時間はレシピ開発に使っていた。早紀と一緒に試行錯誤するのはもちろん楽しいが、食べてほしいからやっていることであって、開発すること自体は目的ではなかった。
日が経つにつれ、焦燥感は膨らむ一方だった。
早紀には申し訳ないが、早めに退勤してもらった。退屈な時間を過ごさせてしまうことに対しても申し訳なさがあったからだ。早紀からは早いうちに退職の申し出があるかもしれない。
「――さん、香織里さん」
一歩に呼ばれて、香織里ははっとする。暮れゆく外の景色をぼんやりと眺めていたらしい。一歩はカウンター席にいた。目の前に座っている。それすら気が付かないほど、ぼんやりしていた。
「あ、ごめん、パフェ食べにきたの?」
「そうじゃなくて、試作のケーキのことなんだけど、今日の小豆のシフォンケーキ、僕は粒が大きい方がいいなって思った」
試作したシフォンケーキは、式を終えたスタッフたちにも試食してもらっていた。だが、感想はいつも美味しいだけだった。一歩はいつもの通り、香織里の作るものならなんでも美味しい、である。
「一歩くんが意見するの、珍しいね」
「違う、珍しいことをしているのは香織里さんの方だろ」
言われても、香織里はすぐにはその意味を理解することができなかった。自分はいつもどおり作っているからだ。特に変わったようなことはしていない。
「特別なことは何もしてないんだけど」
「香織里さんが僕の好みから外れるようなものを作るなんてこと今まで一度もなかった。香織里さんは僕にいつも意見を求めるけど、僕は本当に美味しいって思ってたよ。香織里さんが僕のために合わせて作ってくれているんじゃないかって疑うほどに」
言われた通り、一歩の口に合えばいいなと思って作ってきたものは色々とある。だが、それは私的なものに限ってであって、店に出すものはそんなつもりはなかった。
無意識に――いつも愛翔や父に指摘されるように、無意識に自分の気持ちが店の料理に反映されているとしたら恥ずかしい。そう思ったところで、香織里はようやく気付いた。
自分の焦燥感が今日の試作に出てしまっていたのだ。
「おてんとちゃん……」
「おてんとちゃん?」
「あ、呼びにくいから、私が勝手に名前をつけたんだ、あの子に」
店内の花を眺めているおてんとちゃん。一歩には伝え忘れていた。
「社長に、あの子のお見送りができたら満点だねって言われて。でも、あの子が求めていることはちっとも分からないし、方法も思い浮かばないし、お客様も全く来ないし……どうしたらいいかなって考えながら作ってたから、美味しくなかったのかも」
「なるほど、そういうことか」
一歩は椅子の下に置いていた鞄からノートを取り出した。カフェのアイデアを書き留めるのに使っていたノートだ。
新しいページを出して、見出しに『おてんと様』と記入する。その下には『故人、おてんと様』と書く。それはまるでプランシートそのものだった。
「誰が見送るのか分からない状態だ。それをはっきりさせないといけない」
「ここで葬儀をしていないから、関係する人が分からないよね。おてんとちゃんが何ヶ月もどこにも行かないのは、ここで誰かを待っているからかなって思ったんだけど。でもお店はこの様子だし。おてんとちゃんは話せないし」
「じゃあ、今一番にしないといけないことは、ここにおてんとちゃんと繋がりのある人を呼ばないといけないということか」
「でも、そんな都合よくいく? その人がここに来てくれるとは限らないよ」
一歩はボールペンを回しながらしばらく考えたが、特に目新しいアイデアは出てこなかった。ノートを閉じ、鞄の中に入れて立ち上がった。閉店時間から一時間ほど経っていた。香織里も帰る準備をする。
香織里が店の戸締まりをしている間、一歩は裏口で待ってくれていた。
駐車場に向かう中、香織里はぽつりと言った。
「なんかごめん。一歩くんの仕事増やしちゃって」
先を歩く一歩の背中に謝った。香織里が立ち止まると、一歩は首をかしげながら振り返る。
「いや、僕の仕事でもあるだろ、お見送りは。コーディネーターは僕で、香織里さんはアシスタントなんだから。当然のことをしているだけだけど?」
「もう一歩くんと一緒に誰かのお見送りをすることはないって思ってた」
「なんで? 香織里さんはずっと僕のアシスタントだろ?」
僕の、と言われて、香織里は泣きそうになった。
「でも、もう葬儀に出ることはないし。打ち合わせも頼まれたものを出すだけだし。カフェから霊柩車の出発だけを見てて、もう葬儀には関われないんだなってちょっと寂しく思ってた」
喉の奥が熱い。言葉にしてしまうと、自分が情けなく感じてしまう。
一歩は溜息をついて、香織里の元に歩み寄った。
「確かに、二人で打ち合わせをすることはなくなったし、香織里さんは葬儀に直接参加しなくなった。けどさ。僕はずっと、香織里さんと仕事してるつもり。だから僕は社長に、アシスタントはいらないって言ったんだ。香織里さんがお見送りしたい人がいるなら、僕もコーディネーターとして仕事をする。お見送りの場を整えるのは僕の仕事だから。おてんとちゃんの件については宿題にさせて」
一歩はそこまで言って、首を横に振った。違う、そうじゃない、と呟いているのが聞こえた。もうマフラーはしていない。一歩の口元を隠すものは何もなかった。
「香織里さん、明日、暇? 休みだよね」
「え、えっと……まあ、暇ではあるけど」
「分かった。あとで連絡する。お疲れ様」
この流れは、また一歩のパフェ巡りに付き合わされるやつだ。
翌日、暇かどうか聞いてきて、それから帰宅後に待ち合わせをするカフェを指定される。だいたい一歩が気になっている店だった。
入浴中、一歩の言葉が香織里の胸を何度もくすぐった。
自分が勝手に一歩から離れてしまっていただけなのかもしれない。一歩が新しいアシスタントと組まない理由に嬉しくなる。
入浴後、ベッドに入ってだらだらと動画を見ていると、一歩からの連絡を知らせる通知が入った。指定のカフェのサイトのアドレスが届いたのだろうと思って開いて、香織里は驚いた。
『香織里さんの家どこ? 迎え行くんだけど』
飛び起きて、ベッドの上で正座になる。
いつも別々で待ち合わせ場所に向かっていたのに、どうしてこのタイミングで迎えに行くなどと言ってくるのか分からなかった。
別にいいよ、自分で行くよ、と返信したが、一歩は引き下がらなかった。
『僕が付き合わせてるんだからこのくらいしてもいいだろ』
『今までそうしなかったのが悪かった。そのくらいさせて』
立て続けにメッセージが飛んでくる。香織里は折れ、家の住所を送った。
時間はいつも通り。いつも通り、食べながら仕事の話をする。きっといつも通り。特別なことはない。香織里はそう自分に言い聞かせて、スマホを投げて横になった。
それからしばらくして、うたた寝をしていると通知音が鳴った。
『明日こそ美味しい香織里さんのお菓子が食べたいんだけど。お店のやつじゃなくて。あ、でも大変だったらいいから。おやすみ』
それを見て、香織里は笑ってしまった。お菓子なのだ。一歩が好きなのは。
『分かった。何か作って持っていく。おやすみ』
何を作るかは明日になって考えよう。何を着ていくかも明日になって考えよう。香織里は送信ボタンを押して寝そべりを打った。仰向けになり、深く息を吐く。
お店のものじゃないものと言われて、気持ちが楽になった。
そういうところが、ずるくて、好きになってしまう――。
香織里は枕を胸の上に置いて、夢に落ちた。