2章
「疲れた……、腹減った」
「あら、かずちゃんがどろどろに溶けているところ、久しぶりに見たわ」
机に突っ伏してお腹を押さえている一歩を見た園子が笑っていた。午後五時、空腹を感じてもおかしくない時間だ。
香織里は人参のムースが入った器を二つ一歩の机の上に並べた。
「お疲れ様です。あの、残り物なんですけど、よかったら食べてください。園子さんもぜひ。サラダとお肉も少し残っていて」
「えっ、いいの? やった〜、凄い、フレンチ? 香織里ちゃんって本当にお料理が上手なのね」
いただきます、と園子は挨拶をしてムースを口に運んだ。一口食べただけで、園子は美味しいと笑顔になった。
一歩は疲れているのか、人参が嫌いなのか、むっつりとしながら黙って食べている。
前菜で使った材料を使って簡単なサラダにして出したが、それでも一歩は不貞腐れたような顔をしていた。皿を出すとすぐに食べていたので、嫌いというわけではなさそうだ。
「どうしたの、今日の葬儀、成功したんでしょ? 何か気になることでもある?」
「いや、葬儀は良かった。今までで一番良かった。園子さんの祭壇も気に入ってもらえたし、スケジュールも良かった。スタッフの動きも問題なかった。香織里さんの料理も喜んでもらえた。悪かったところはどこもない」
「じゃあどうして……あっ、はいはい、はいはいはい」
園子は何か分かったのか、ニヤニヤしながら一人で納得していた。
「かずちゃんも、香織里ちゃんも、早く帰りなさいよ〜ごちそうさま〜」
デザートの残りまで食べきった園子は、休憩室まで皿を運んだ。
香織里も休憩室まで行って、片付けを始めようとしたが、スポンジを園子に奪われてしまった。
「美味しいのを食べさせてもらったお礼。おばちゃんにやらせて」
「え、でも」
「い、い、か、ら」
強めに言われてしまい、それ以上香織里は何も言えなかった。ハミングしながら洗い物を始めた園子に、もう自分がするなど言えない。
香織里は渋々休憩室から出て、退勤の準備を始めた。
一歩も今日は残業はせず、帰るようだ。また二人一緒のタイミングで退勤となる。
駐車場まで何も話さなかった。話すことはあるのはあるが、声をかけにくい。
先程まで一歩が不機嫌だったのも理由だが、一番の理由は、香織里に自信がないところにある。
迷惑だと思われたらどうしよう。自分が一人で嬉しくなっているだけかもしれない。
根拠のない不安が、口を重くしていた。
自分の隣を歩く一歩は、マフラーで顔の半分を覆っていた。下を向いていて歩いているので、なおさら話しかけにくい。
一歩が車のロックを解除して、ようやく香織里は一歩を呼んだ。
「あの、福原さん」
「何?」
香織里は鞄の中から、一つの包みを出した。中には綺麗に焼き上がったマドレーヌが入っている。
「お疲れ様でした。よかったら、これ」
手渡すと、一歩は驚いた顔をしていた。そしてすぐにさっきの不機嫌な顔に戻る。
「これも余り物? また家で作りすぎたの? 何か不安だったの?」
「や、ちが……、そうじゃなくて。そうじゃなくて、いつも福原さんには助けられているので、福原さんに食べてほしいなって……思って……」
一歩のために作った、とは言えなかった。
「帰ってから食べてください。それじゃ、お疲れ様でした」
恥ずかしくなって、香織里はすぐに自分の車に乗り込もうとしたが、一歩から待ってと引き止められた。
「今食べる。じゃないと、美味しいって香織里さんに直接言えないだろ。明日は休みなのに」
そう言って一歩は入っていたマドレーヌ三個を目の前で一気に食べてしまった。
「美味しい。やっぱり、香織里さんの作った料理は、美味しいと思う」
「あ、えっと、良かったです……じゃ、えっと」
「待ってよ。ごめん香織里さん。さっき、ごちそうさまって言えなかった。どうせ僕は香織里さんの作った余りしか食べられないんだって思ってしまって」
「あ、だからさっき不機嫌そうな顔になってたんですか?」
「あと、僕に対して敬語なのもだよ」
あっと香織里が声を上げると、一歩はコートのポケットに手を突っ込んで、マフラーで口を隠した。
「僕は香織里さんの――が好きだから」
「え?」
マフラーの中でもぞもぞと喋ったせいで、何を言ったのか聞き取れなかった。
香織里が聞き返すと、一歩はマフラーを鼻の上まで持ち上げて車のドアを開けた。
「なんでもない。じゃ、お疲れ様」
一歩の車が駐車場から出て、香織里も車に乗り込むが、しばらくぼうっとしていた。
帰宅して、夕飯の時間になると、今度は愛翔からもニヤニヤされる。山盛りの唐揚げを見て、香織里はまた作りすぎてしまったとうなだれた。脂っこいものが苦手な父には申し訳なくて、別で湯豆腐とさばの塩焼きを用意した。
あの時、一歩は何が好きと言ったのだろう。お菓子のことを言ったのだろうか。
寝る前にSNSで一歩のアイコンを見た。相変わらずパフェだが、今度は黒蜜きなこのパフェに変わっていた。
きっと自分の作るお菓子が好きなのだろう。自分のことが好きなのではない。
だが、一歩には自分の作ったものを食べてほしいという気持ちはある。
食べてほしい人に美味しく食べてもらえることほど、嬉しいものはなかった。
「あら、かずちゃんがどろどろに溶けているところ、久しぶりに見たわ」
机に突っ伏してお腹を押さえている一歩を見た園子が笑っていた。午後五時、空腹を感じてもおかしくない時間だ。
香織里は人参のムースが入った器を二つ一歩の机の上に並べた。
「お疲れ様です。あの、残り物なんですけど、よかったら食べてください。園子さんもぜひ。サラダとお肉も少し残っていて」
「えっ、いいの? やった〜、凄い、フレンチ? 香織里ちゃんって本当にお料理が上手なのね」
いただきます、と園子は挨拶をしてムースを口に運んだ。一口食べただけで、園子は美味しいと笑顔になった。
一歩は疲れているのか、人参が嫌いなのか、むっつりとしながら黙って食べている。
前菜で使った材料を使って簡単なサラダにして出したが、それでも一歩は不貞腐れたような顔をしていた。皿を出すとすぐに食べていたので、嫌いというわけではなさそうだ。
「どうしたの、今日の葬儀、成功したんでしょ? 何か気になることでもある?」
「いや、葬儀は良かった。今までで一番良かった。園子さんの祭壇も気に入ってもらえたし、スケジュールも良かった。スタッフの動きも問題なかった。香織里さんの料理も喜んでもらえた。悪かったところはどこもない」
「じゃあどうして……あっ、はいはい、はいはいはい」
園子は何か分かったのか、ニヤニヤしながら一人で納得していた。
「かずちゃんも、香織里ちゃんも、早く帰りなさいよ〜ごちそうさま〜」
デザートの残りまで食べきった園子は、休憩室まで皿を運んだ。
香織里も休憩室まで行って、片付けを始めようとしたが、スポンジを園子に奪われてしまった。
「美味しいのを食べさせてもらったお礼。おばちゃんにやらせて」
「え、でも」
「い、い、か、ら」
強めに言われてしまい、それ以上香織里は何も言えなかった。ハミングしながら洗い物を始めた園子に、もう自分がするなど言えない。
香織里は渋々休憩室から出て、退勤の準備を始めた。
一歩も今日は残業はせず、帰るようだ。また二人一緒のタイミングで退勤となる。
駐車場まで何も話さなかった。話すことはあるのはあるが、声をかけにくい。
先程まで一歩が不機嫌だったのも理由だが、一番の理由は、香織里に自信がないところにある。
迷惑だと思われたらどうしよう。自分が一人で嬉しくなっているだけかもしれない。
根拠のない不安が、口を重くしていた。
自分の隣を歩く一歩は、マフラーで顔の半分を覆っていた。下を向いていて歩いているので、なおさら話しかけにくい。
一歩が車のロックを解除して、ようやく香織里は一歩を呼んだ。
「あの、福原さん」
「何?」
香織里は鞄の中から、一つの包みを出した。中には綺麗に焼き上がったマドレーヌが入っている。
「お疲れ様でした。よかったら、これ」
手渡すと、一歩は驚いた顔をしていた。そしてすぐにさっきの不機嫌な顔に戻る。
「これも余り物? また家で作りすぎたの? 何か不安だったの?」
「や、ちが……、そうじゃなくて。そうじゃなくて、いつも福原さんには助けられているので、福原さんに食べてほしいなって……思って……」
一歩のために作った、とは言えなかった。
「帰ってから食べてください。それじゃ、お疲れ様でした」
恥ずかしくなって、香織里はすぐに自分の車に乗り込もうとしたが、一歩から待ってと引き止められた。
「今食べる。じゃないと、美味しいって香織里さんに直接言えないだろ。明日は休みなのに」
そう言って一歩は入っていたマドレーヌ三個を目の前で一気に食べてしまった。
「美味しい。やっぱり、香織里さんの作った料理は、美味しいと思う」
「あ、えっと、良かったです……じゃ、えっと」
「待ってよ。ごめん香織里さん。さっき、ごちそうさまって言えなかった。どうせ僕は香織里さんの作った余りしか食べられないんだって思ってしまって」
「あ、だからさっき不機嫌そうな顔になってたんですか?」
「あと、僕に対して敬語なのもだよ」
あっと香織里が声を上げると、一歩はコートのポケットに手を突っ込んで、マフラーで口を隠した。
「僕は香織里さんの――が好きだから」
「え?」
マフラーの中でもぞもぞと喋ったせいで、何を言ったのか聞き取れなかった。
香織里が聞き返すと、一歩はマフラーを鼻の上まで持ち上げて車のドアを開けた。
「なんでもない。じゃ、お疲れ様」
一歩の車が駐車場から出て、香織里も車に乗り込むが、しばらくぼうっとしていた。
帰宅して、夕飯の時間になると、今度は愛翔からもニヤニヤされる。山盛りの唐揚げを見て、香織里はまた作りすぎてしまったとうなだれた。脂っこいものが苦手な父には申し訳なくて、別で湯豆腐とさばの塩焼きを用意した。
あの時、一歩は何が好きと言ったのだろう。お菓子のことを言ったのだろうか。
寝る前にSNSで一歩のアイコンを見た。相変わらずパフェだが、今度は黒蜜きなこのパフェに変わっていた。
きっと自分の作るお菓子が好きなのだろう。自分のことが好きなのではない。
だが、一歩には自分の作ったものを食べてほしいという気持ちはある。
食べてほしい人に美味しく食べてもらえることほど、嬉しいものはなかった。