2章
「うわあ、豪華〜! 香織里さんってやっぱりお料理得意なんですね」
スマホで撮ったフレンチの写真をみのりに見せた。
僧侶に渡す仕出し弁当を佐藤家まで届けた後、みのりはあいメモリーの事務所まで請求書と納品書を持ってきた。受け取ったのが香織里だったので、そのままみのりと連絡先を交換した。そのついでに、このあと幸恵に出す料理をみのりに見てもらったのだ。
不安だったというのもあるし、みのりの評価も聞きたかったというのもある。
見つけたレシピを自分なりにアレンジしてみたが、それも不安の要素の一つだった。
みのりからここまで高評価を得られるとは思っておらず、香織里は恥ずかしくなってスマホをエプロンのポケットの中にしまった。
「良かったです。みのりさんに褒められると嬉しいですね」
「一歩さんからゴーサイン出てる時点で褒められてるんじゃないですか? あの一歩さんですよ。容赦ない注文してくる一歩さんなのに」
その話は初めて聞いた。完璧なお見送りを目指す一歩なら、それもありえる話かと思ってしまう。
みのりの話だと、虎鶴側でメニューは決めているが、メニューの変更を依頼してくることがあったのだという。香織里は虎鶴は融通が利きやすい店だと思っていたが、融通が利きやすくなっていたのは、一歩がメニューの変更を今まで何度か依頼した結果だったのだ。
いつもメニューの変更を快く引き受けてくれる虎鶴にはありがたさを感じていた。
「きっと美味しいんだろうなあ。あ、そろそろ忙しくなりますよね。また連絡します。今度どこかお食事にでも行きましょう」
「はい。ありがとうございました」
みのりが軽く手を振ったので、香織里も手を振り返す。
これから作る料理も写真を撮っておいて、またみのりに報告しよう。そう決めて、香織里はアミューズの準備から始めた。
香織里は今日も休憩室で料理をするため、幸恵の元に向かうことはできない。料理を運ぶ役割は一歩に振っていた。ホールと営業所が近くて良かったと心底思う。
時間のかかる仕込みは終わらせている。ヴァン・ブランソースも、もう一度レシピ通り作った。
アミューズは人参のムースだ。小さなグラスに入れて、冷蔵庫で冷やしていた。
トッピングに林檎を小さく刻んだものと、ミントをのせる。冷たくて、舌触りのよいアミューズである。
そろそろ一歩が取りにくる時間だった。次の前菜の用意をしながら待っていると、平次が休憩室に顔を出した。
テーブルの上にあるアミューズを見て、笑みを浮かべていた。
「あ、社長……、すみません、休憩室、自分のように使ってしまって」
「いや、いいんだよ。一歩君に見ていてくれって言われたから、様子を見に来たんだ。彼、今、何か考えているでしょ。香織里さんも知っているかな?」
平次は何か勘付いているようだった。自分でも勘がいいと言っていたが、察しのいい人であることをここでも実感した。
香織里が話そうとすると、平次はさっと手の平を香織里に向けた。
「別に言わなくていいよ。彼の口から出てくるまで、僕は待つことにしているから。きっと、面白い話を聞かせてくれるんだろう。楽しみにさせてほしい。さて、これを運べばいいんだね?」
「あっ、はい……でも……」
「佐藤さん親子だけにすると寂しいでしょ。ましてや幸恵さんは視えない人だから、一人だと思っている。だから一歩君は向こうに残しているんだ。僕が運ぶよ。なんて言って出したらいい?」
そこで初めて、健史も会食場にいることを知った。
式では旅立てなかったのだ。一歩がどういう気持ちで会食場にいるのか、想像できた。この食事が最後のチャンスだと思って、きっと緊張している。
平次が声をかけてくれただけ、良かったのかもしれない。
「人参を使ったアミューズです。説明は福原さんができます。すみません、よろしくお願いします」
「うん、分かった」
平次の笑みが、香織里自身の緊張もほぐしてくれる気がした。
次に出す前菜は、サーモン、海老、アボカドを使い、レモンソースでさっぱりと仕上げる。
それが終われば、次はスープだ。今回はかぼちゃのポタージュにした。使ったかぼちゃがとても甘かったので、美味しく出来上がっている。
ここまでは一般的なコースの順番で出してきたが、ここから先は、香織里が順番を入れ替えた。魚料理を出す前に、肉料理を出す。
鶏肉のポワレに、ハニーマスタードソースをかける。茹でたブロッコリーやパプリカなどを添えた。
順番を入れ替えたことについて、一歩からは何の説明もしないように打ち合わせをしている。
お口直しのシャーベットを用意し、今日のメインディッシュを用意している時だった。
「これは香織里さんが持っていって」
そんなことを平次が言い出したのだ。
香織里は最初から最後まで、ここで調理して終わるつもりだった。幸恵の前に顔を出すつもりは一歳なかった。
「でも、このあとのデザートが」
「一歩君からの指示だよ。コーディネーターがそうしろって言っているんだ。ほら」
コーディネーターの指示ならば、そうするしかない。香織里はエプロンを取って、平次と一緒にホールへと向かった。
ロビーでふよふよと漂っていたおてんとちゃんが自分の横について、会食場に入ろうとする。
入り口の前に一歩が立っていた。
「香織里さんから説明したほうがいいだろ。その料理に関しては。作った人のほうが、料理について詳しい。健史さんの気持ちも、香織里さんのほうがよく分かっていると思うんだ。僕が言うより、香織里さんが言ったほうがいい」
「でも」
「冷めるよ。早く」
一歩に背中を押され、香織里は部屋に入った。おてんとちゃんも一緒だった。
おてんとちゃんはテーブルの上に座る。健史はテーブルの上に浮いていて、幸恵の顔をじっと見ていた。顔に深く刻み込まれた皺と、垂れ下がった瞼。老いている姿にも関わらず、視線は力強かった。
香織里は幸恵の前にプレートを置き、説明を始めた。
「お待たせしました、鯛のポワレです。健史さんがエンディングノートに遺していたレシピを使ったヴァン・ブランソースをかけています。勝手に見て、レシピを使ってしまってすみません。でも、幸恵さんに、食べてほしいって思ったんです」
幸恵はフォークを手にする前に、香織里の顔を見た。
怒っているような表情に、香織里は一歩下がりたくなった。
怒られても仕方ない。父の店が嫌いだと言っていたのだから。
「これまでの料理もあなたが作ったんですか? だから料金がかからなかったんですか?」
「はい。私が作りました。美味しくなかったらすみません。でも、幸恵さんに、これだけは食べてほしかったんです。健史さんも、そう思って、ソースのレシピを遺したんだと思うんです。出しゃばったことをしてすみません。でも、食べてください。これは健史さんが、幸恵さんのために作った料理だと思って食べてください」
「勝手なことを……」
幸恵は溜息をついて、フォークとナイフを持った。
「父は、一度も、私のために料理を作ってくれたことなんてなかった。お客さんのために料理をしていて、家族のためには料理なんてしてくれなかった。私はずっとそれが嫌だったんです。私のことより、店のほうが大切なんでしょって子供の頃から喧嘩してました」
ふわふわの鯛の身を切り、たっぷりとソースにからめて口に運ぶ。
その様子を健史とおてんとちゃんはじっと見ていた。
一度口にすると、それから幸恵はポワレの半分を一気に食べた。
「私のために、美味しいフレンチを作ってほしいっていう思いは心の奥底にずっとあったんです。でも、忙しい父にそんなこと言えなくて。いつしか、店が嫌いになって、父が嫌いになって」
咀嚼しながら、幸恵は目頭を押さえた。
テーブルの上に置いてあったナプキンで顔を隠す。
「……、本当は、お父さんのフレンチが食べたかった……、お父さんが生きていた頃に言えばよかった……でも、美味しい、私のためにありがとう」
その言葉は、香織里に向けられたものではない。
健史に向けられたものだ。
香織里は黙って一歩の隣に立った。
健史と幸恵の会話を邪魔したくなかったからだ。健史からの言葉はないし、幸恵は健史が目の前にいることも知らない。しかし、幸恵は父に対して胸中を打ち明けた。
平次も香織里の隣で親子の様子を見ている。
おてんとちゃんが健史の手を取り、幸恵の頭に置いた。健史は幸恵の頭を優しく撫でた。
健史の固い表情がふっと和らぎ、幸恵の完食と同時に次の世へと旅立った。
スマホで撮ったフレンチの写真をみのりに見せた。
僧侶に渡す仕出し弁当を佐藤家まで届けた後、みのりはあいメモリーの事務所まで請求書と納品書を持ってきた。受け取ったのが香織里だったので、そのままみのりと連絡先を交換した。そのついでに、このあと幸恵に出す料理をみのりに見てもらったのだ。
不安だったというのもあるし、みのりの評価も聞きたかったというのもある。
見つけたレシピを自分なりにアレンジしてみたが、それも不安の要素の一つだった。
みのりからここまで高評価を得られるとは思っておらず、香織里は恥ずかしくなってスマホをエプロンのポケットの中にしまった。
「良かったです。みのりさんに褒められると嬉しいですね」
「一歩さんからゴーサイン出てる時点で褒められてるんじゃないですか? あの一歩さんですよ。容赦ない注文してくる一歩さんなのに」
その話は初めて聞いた。完璧なお見送りを目指す一歩なら、それもありえる話かと思ってしまう。
みのりの話だと、虎鶴側でメニューは決めているが、メニューの変更を依頼してくることがあったのだという。香織里は虎鶴は融通が利きやすい店だと思っていたが、融通が利きやすくなっていたのは、一歩がメニューの変更を今まで何度か依頼した結果だったのだ。
いつもメニューの変更を快く引き受けてくれる虎鶴にはありがたさを感じていた。
「きっと美味しいんだろうなあ。あ、そろそろ忙しくなりますよね。また連絡します。今度どこかお食事にでも行きましょう」
「はい。ありがとうございました」
みのりが軽く手を振ったので、香織里も手を振り返す。
これから作る料理も写真を撮っておいて、またみのりに報告しよう。そう決めて、香織里はアミューズの準備から始めた。
香織里は今日も休憩室で料理をするため、幸恵の元に向かうことはできない。料理を運ぶ役割は一歩に振っていた。ホールと営業所が近くて良かったと心底思う。
時間のかかる仕込みは終わらせている。ヴァン・ブランソースも、もう一度レシピ通り作った。
アミューズは人参のムースだ。小さなグラスに入れて、冷蔵庫で冷やしていた。
トッピングに林檎を小さく刻んだものと、ミントをのせる。冷たくて、舌触りのよいアミューズである。
そろそろ一歩が取りにくる時間だった。次の前菜の用意をしながら待っていると、平次が休憩室に顔を出した。
テーブルの上にあるアミューズを見て、笑みを浮かべていた。
「あ、社長……、すみません、休憩室、自分のように使ってしまって」
「いや、いいんだよ。一歩君に見ていてくれって言われたから、様子を見に来たんだ。彼、今、何か考えているでしょ。香織里さんも知っているかな?」
平次は何か勘付いているようだった。自分でも勘がいいと言っていたが、察しのいい人であることをここでも実感した。
香織里が話そうとすると、平次はさっと手の平を香織里に向けた。
「別に言わなくていいよ。彼の口から出てくるまで、僕は待つことにしているから。きっと、面白い話を聞かせてくれるんだろう。楽しみにさせてほしい。さて、これを運べばいいんだね?」
「あっ、はい……でも……」
「佐藤さん親子だけにすると寂しいでしょ。ましてや幸恵さんは視えない人だから、一人だと思っている。だから一歩君は向こうに残しているんだ。僕が運ぶよ。なんて言って出したらいい?」
そこで初めて、健史も会食場にいることを知った。
式では旅立てなかったのだ。一歩がどういう気持ちで会食場にいるのか、想像できた。この食事が最後のチャンスだと思って、きっと緊張している。
平次が声をかけてくれただけ、良かったのかもしれない。
「人参を使ったアミューズです。説明は福原さんができます。すみません、よろしくお願いします」
「うん、分かった」
平次の笑みが、香織里自身の緊張もほぐしてくれる気がした。
次に出す前菜は、サーモン、海老、アボカドを使い、レモンソースでさっぱりと仕上げる。
それが終われば、次はスープだ。今回はかぼちゃのポタージュにした。使ったかぼちゃがとても甘かったので、美味しく出来上がっている。
ここまでは一般的なコースの順番で出してきたが、ここから先は、香織里が順番を入れ替えた。魚料理を出す前に、肉料理を出す。
鶏肉のポワレに、ハニーマスタードソースをかける。茹でたブロッコリーやパプリカなどを添えた。
順番を入れ替えたことについて、一歩からは何の説明もしないように打ち合わせをしている。
お口直しのシャーベットを用意し、今日のメインディッシュを用意している時だった。
「これは香織里さんが持っていって」
そんなことを平次が言い出したのだ。
香織里は最初から最後まで、ここで調理して終わるつもりだった。幸恵の前に顔を出すつもりは一歳なかった。
「でも、このあとのデザートが」
「一歩君からの指示だよ。コーディネーターがそうしろって言っているんだ。ほら」
コーディネーターの指示ならば、そうするしかない。香織里はエプロンを取って、平次と一緒にホールへと向かった。
ロビーでふよふよと漂っていたおてんとちゃんが自分の横について、会食場に入ろうとする。
入り口の前に一歩が立っていた。
「香織里さんから説明したほうがいいだろ。その料理に関しては。作った人のほうが、料理について詳しい。健史さんの気持ちも、香織里さんのほうがよく分かっていると思うんだ。僕が言うより、香織里さんが言ったほうがいい」
「でも」
「冷めるよ。早く」
一歩に背中を押され、香織里は部屋に入った。おてんとちゃんも一緒だった。
おてんとちゃんはテーブルの上に座る。健史はテーブルの上に浮いていて、幸恵の顔をじっと見ていた。顔に深く刻み込まれた皺と、垂れ下がった瞼。老いている姿にも関わらず、視線は力強かった。
香織里は幸恵の前にプレートを置き、説明を始めた。
「お待たせしました、鯛のポワレです。健史さんがエンディングノートに遺していたレシピを使ったヴァン・ブランソースをかけています。勝手に見て、レシピを使ってしまってすみません。でも、幸恵さんに、食べてほしいって思ったんです」
幸恵はフォークを手にする前に、香織里の顔を見た。
怒っているような表情に、香織里は一歩下がりたくなった。
怒られても仕方ない。父の店が嫌いだと言っていたのだから。
「これまでの料理もあなたが作ったんですか? だから料金がかからなかったんですか?」
「はい。私が作りました。美味しくなかったらすみません。でも、幸恵さんに、これだけは食べてほしかったんです。健史さんも、そう思って、ソースのレシピを遺したんだと思うんです。出しゃばったことをしてすみません。でも、食べてください。これは健史さんが、幸恵さんのために作った料理だと思って食べてください」
「勝手なことを……」
幸恵は溜息をついて、フォークとナイフを持った。
「父は、一度も、私のために料理を作ってくれたことなんてなかった。お客さんのために料理をしていて、家族のためには料理なんてしてくれなかった。私はずっとそれが嫌だったんです。私のことより、店のほうが大切なんでしょって子供の頃から喧嘩してました」
ふわふわの鯛の身を切り、たっぷりとソースにからめて口に運ぶ。
その様子を健史とおてんとちゃんはじっと見ていた。
一度口にすると、それから幸恵はポワレの半分を一気に食べた。
「私のために、美味しいフレンチを作ってほしいっていう思いは心の奥底にずっとあったんです。でも、忙しい父にそんなこと言えなくて。いつしか、店が嫌いになって、父が嫌いになって」
咀嚼しながら、幸恵は目頭を押さえた。
テーブルの上に置いてあったナプキンで顔を隠す。
「……、本当は、お父さんのフレンチが食べたかった……、お父さんが生きていた頃に言えばよかった……でも、美味しい、私のためにありがとう」
その言葉は、香織里に向けられたものではない。
健史に向けられたものだ。
香織里は黙って一歩の隣に立った。
健史と幸恵の会話を邪魔したくなかったからだ。健史からの言葉はないし、幸恵は健史が目の前にいることも知らない。しかし、幸恵は父に対して胸中を打ち明けた。
平次も香織里の隣で親子の様子を見ている。
おてんとちゃんが健史の手を取り、幸恵の頭に置いた。健史は幸恵の頭を優しく撫でた。
健史の固い表情がふっと和らぎ、幸恵の完食と同時に次の世へと旅立った。