1章
日が沈みきり、町は夜を迎えた。
ホールのロビーで、香織里と一歩は四人を待った。シャンデリアの下に、白いもやが出てきて、徐々に形を成していく。
『なんか美味しそうな匂いがする。今日は通夜か?』
茂は視力がない分、嗅覚が優れている。すぐに匂いを嗅ぎつけた。
『いや、通夜はしてないぞ。あ、一歩さんと香織里さん』
二人に気付いた実が、ぱっと手を上げて挨拶をしてくる。一歩も香織里もこんばんはと挨拶をした。フミエは相変わらずぼうっとしている。茂の足元に子供がいた。
一歩がエスコートするように、手を会食場に向かって差し伸べた。
「今日はみなさんのお見送りの会をしようと思っているんです。料理を用意させてもらいました」
『わしらにか。ありがてえなあ』
手を擦り合わせ、拝むように感謝してきたのは茂だった。感謝されたことに、一つ手応えを感じる。
一歩の案内で会食場に移った四人を見届け、香織里はロビーでもう一人の出席者を待つ。
程なくして姿を見せたのは、平次だった。
「香織里さん。いやあ。僕もお呼ばれして良かったのかな」
「お忙しいところすみません。人数は多ければ多いほどいいと思って……」
「そうだね。ありがたく、参加させてもらうよ。一歩君が期待する香織里さんの料理、食べてみたかったんだよね」
会場に入る前、香織里は首に巻いていたスカーフを取ってポケットにしまった。
既に実たちは着席していた。既に固形燃料は着火され、ぐつぐつと煮立つ出汁が木蓋を動かしていた。
準備が終わり、実の隣に一歩、茂の隣に平次が座る。香織里の席は、フミエと子供の間だ。子供は目の前にある船に興味津々のようである。笑みが浮かんでいた。
「えっと……楽しい時間にしてほしいなって思って、今日はお鍋を用意させていただきました。たくさん喋って、たくさん食べてください。私たちあいメモリーの職員もご一緒させていただきます。お酒はありませんが、えっと、乾杯」
下手くそな挨拶だと思ったが、自分の思いはきちんと伝えられたはずだ。
老人ホームを利用していたとはいえ、その老人ホームで楽しく過ごせたかといえば、そうではなかったのかもしれない。寝たきりだった実は介助されながら、個室で寂しく食事をしていたのかもしれない。フミエははっきりと覚えている娘と一緒に過ごしたかったのかもしれない。茂は暗闇の中で、顔が分からない他人と寂しく食事をしていたのかもしれない。全部、香織里がプランシートのメモから想像したことだ。直接聞いたわけではない。ただ、三人の希望は、プランシートから自然と見えてきた。
誰かと一緒に楽しく食事をしたい。それが三人の願いなのではないかと香織里は考えたのだ。
木蓋を持ち上げると、白い湯気が出汁の香りを運んだ。目が見えていない茂でさえ、美味しそうだと言っている。
「茂さんは、戦争に行かれたんですよね」
平次がそう話題を出すと、茂は誇らしげに頷いた。
『そうよ。わしゃ、昔はちゃんと目が見えとったし、こっちの腕もあった。爆弾で吹き飛ばされてなあ。よく生きて帰れたと思う……ああ、この肉はいいな。老人ホームは柔らかいものばっかじゃったからなあ』
平次に運んでもらった鶏肉を咀嚼しながら、茂は顔をほころばせた。その鶏肉を平次も食べる。
「ああ、本当だ。美味しいね」
『これは店の料理かね。旅館に行ったみたいだよ』
自分で箸を持って食べていた実が聞くと、一歩が答えた。
「香織里さんです。うちにも料理ができる人がいるんですよ」
一歩の言葉に、どきっとしていると、隣からフミエに声をかけられる。
『恵子は食べないの?』
「あ、お母さん、食べるよ。一緒に食べよう」
『恵子が好きなお野菜をたくさん用意したのよ。美味しいでしょ?』
フミエはこの鍋は自分が用意したものだと思っているらしい。だが、香織里は否定せず、香織里は恵子を演じる。
茂は戦時中のことをよく平次に語って聞かせた。途中、その話に実も入ってくる。二人は歳が近く、共通の話題があった。
香織里の隣で、子供はフォークを握り、気になるものから食べていた。口の周りをクリームでベトベトにしていたので、おしぼりで拭いてやる。子供はキャッキャと喜んでいた。
フミエは香織里に何度も『たくさん食べてね』と声をかけてくる。母親としての優しさだ。香織里は自分の母を相手にしている気持ちになり、泣きそうになった。
自分の母も、フミエと同じように、このように、あれも食べろ、これも食べろとうるさいくらい言ってきた。冷蔵庫にものを貯め込む人だった。消費しなければならないから、あれもこれも食べろと言ってくるのだ。母が生きていたら、自分は今もまだ母が作るご飯を食べていたはずだ。
促されるまま食べると、鍋はあっという間に空になった。
「お母さん、ありがとう、もうお腹いっぱい」
『あら、そう? そうね、私もおなかいっぱい……薬、飲まなきゃ』
「もう飲む? はい、今日の分」
香織里は鍋の傍に置いていたラムネをフミエに渡した。フミエは何も疑うことなく受け取る。
『さて、お片付けしないとね。あとは私がするから、恵子はお風呂に入っておいで』
ラムネを飲んだフミエは、満足した顔をして、席から立ち、そのまま消えていった。
旅立ったのだ。
気がつけば、実と茂もいなかった。一歩と平次は香織里に視線を送る。
残されたのは子供のみだった。それでも、三人が無事旅立てたことに、香織里は安心した。
ホールのロビーで、香織里と一歩は四人を待った。シャンデリアの下に、白いもやが出てきて、徐々に形を成していく。
『なんか美味しそうな匂いがする。今日は通夜か?』
茂は視力がない分、嗅覚が優れている。すぐに匂いを嗅ぎつけた。
『いや、通夜はしてないぞ。あ、一歩さんと香織里さん』
二人に気付いた実が、ぱっと手を上げて挨拶をしてくる。一歩も香織里もこんばんはと挨拶をした。フミエは相変わらずぼうっとしている。茂の足元に子供がいた。
一歩がエスコートするように、手を会食場に向かって差し伸べた。
「今日はみなさんのお見送りの会をしようと思っているんです。料理を用意させてもらいました」
『わしらにか。ありがてえなあ』
手を擦り合わせ、拝むように感謝してきたのは茂だった。感謝されたことに、一つ手応えを感じる。
一歩の案内で会食場に移った四人を見届け、香織里はロビーでもう一人の出席者を待つ。
程なくして姿を見せたのは、平次だった。
「香織里さん。いやあ。僕もお呼ばれして良かったのかな」
「お忙しいところすみません。人数は多ければ多いほどいいと思って……」
「そうだね。ありがたく、参加させてもらうよ。一歩君が期待する香織里さんの料理、食べてみたかったんだよね」
会場に入る前、香織里は首に巻いていたスカーフを取ってポケットにしまった。
既に実たちは着席していた。既に固形燃料は着火され、ぐつぐつと煮立つ出汁が木蓋を動かしていた。
準備が終わり、実の隣に一歩、茂の隣に平次が座る。香織里の席は、フミエと子供の間だ。子供は目の前にある船に興味津々のようである。笑みが浮かんでいた。
「えっと……楽しい時間にしてほしいなって思って、今日はお鍋を用意させていただきました。たくさん喋って、たくさん食べてください。私たちあいメモリーの職員もご一緒させていただきます。お酒はありませんが、えっと、乾杯」
下手くそな挨拶だと思ったが、自分の思いはきちんと伝えられたはずだ。
老人ホームを利用していたとはいえ、その老人ホームで楽しく過ごせたかといえば、そうではなかったのかもしれない。寝たきりだった実は介助されながら、個室で寂しく食事をしていたのかもしれない。フミエははっきりと覚えている娘と一緒に過ごしたかったのかもしれない。茂は暗闇の中で、顔が分からない他人と寂しく食事をしていたのかもしれない。全部、香織里がプランシートのメモから想像したことだ。直接聞いたわけではない。ただ、三人の希望は、プランシートから自然と見えてきた。
誰かと一緒に楽しく食事をしたい。それが三人の願いなのではないかと香織里は考えたのだ。
木蓋を持ち上げると、白い湯気が出汁の香りを運んだ。目が見えていない茂でさえ、美味しそうだと言っている。
「茂さんは、戦争に行かれたんですよね」
平次がそう話題を出すと、茂は誇らしげに頷いた。
『そうよ。わしゃ、昔はちゃんと目が見えとったし、こっちの腕もあった。爆弾で吹き飛ばされてなあ。よく生きて帰れたと思う……ああ、この肉はいいな。老人ホームは柔らかいものばっかじゃったからなあ』
平次に運んでもらった鶏肉を咀嚼しながら、茂は顔をほころばせた。その鶏肉を平次も食べる。
「ああ、本当だ。美味しいね」
『これは店の料理かね。旅館に行ったみたいだよ』
自分で箸を持って食べていた実が聞くと、一歩が答えた。
「香織里さんです。うちにも料理ができる人がいるんですよ」
一歩の言葉に、どきっとしていると、隣からフミエに声をかけられる。
『恵子は食べないの?』
「あ、お母さん、食べるよ。一緒に食べよう」
『恵子が好きなお野菜をたくさん用意したのよ。美味しいでしょ?』
フミエはこの鍋は自分が用意したものだと思っているらしい。だが、香織里は否定せず、香織里は恵子を演じる。
茂は戦時中のことをよく平次に語って聞かせた。途中、その話に実も入ってくる。二人は歳が近く、共通の話題があった。
香織里の隣で、子供はフォークを握り、気になるものから食べていた。口の周りをクリームでベトベトにしていたので、おしぼりで拭いてやる。子供はキャッキャと喜んでいた。
フミエは香織里に何度も『たくさん食べてね』と声をかけてくる。母親としての優しさだ。香織里は自分の母を相手にしている気持ちになり、泣きそうになった。
自分の母も、フミエと同じように、このように、あれも食べろ、これも食べろとうるさいくらい言ってきた。冷蔵庫にものを貯め込む人だった。消費しなければならないから、あれもこれも食べろと言ってくるのだ。母が生きていたら、自分は今もまだ母が作るご飯を食べていたはずだ。
促されるまま食べると、鍋はあっという間に空になった。
「お母さん、ありがとう、もうお腹いっぱい」
『あら、そう? そうね、私もおなかいっぱい……薬、飲まなきゃ』
「もう飲む? はい、今日の分」
香織里は鍋の傍に置いていたラムネをフミエに渡した。フミエは何も疑うことなく受け取る。
『さて、お片付けしないとね。あとは私がするから、恵子はお風呂に入っておいで』
ラムネを飲んだフミエは、満足した顔をして、席から立ち、そのまま消えていった。
旅立ったのだ。
気がつけば、実と茂もいなかった。一歩と平次は香織里に視線を送る。
残されたのは子供のみだった。それでも、三人が無事旅立てたことに、香織里は安心した。