1章

 店のどの場所に何が置いてあるか、香織里は全て覚えていた。早足で必要な材料をカゴの中に入れていく。自転車を漕いでいる間、何をどうするかは全て練っていた。
 材料費のことは一切気にしなかった。必要だから買う。それだけだ。費用は自分が持ってもいい。一歩から何を言われてもいい。これが最適解だと思ったから、そうするのだ。
 会計を済ませ、急いで営業所に戻る。休憩室には小さな調理台がある。棚の中にある包丁を出し、台の上に材料を広げた。
 デコレーションスポンジ台、ホイップ済みクリーム、ブルーベリージャム、フルーツ缶。生の果物はいちごのみ。りんごなどは皮を剥く時間が惜しく、他は缶で済ませることにした。
 船の中にあったパイナップルは缶で済む。りんごは諦めてもらおう。マンゴー、桃はその代わりに買ってきた。
 菓子作りに適した道具はないが、包丁さえあればなんでもできた。スポンジ台にクリームとブルーベリージャムを層になるように塗り、小さく切ったフルーツを載せていく。更にスポンジを重ね、クリームを塗った。それを格子状に切り、簡易ケーキの完成である。
 船にパイナップルと半分に切ったいちごを盛り付け、その隣にケーキを数切れ盛り付けた。
 船を持って、香織里は急いで会食場に戻る。
 一歩が説明をしてくれていたのか、陽向はもう落ち着いていて、席について残った料理を食べていた。母親もなんともなかったような顔をしている。
「香織里さん、それ」
 船の中を見た一歩は、目を丸くしていた。
「味も見た目も、虎鶴より劣るかもしれませんけど……ないよりは、いいと思うので」
 出したらダメだ、とは言わなかった。一歩は黙って頷いた。
 香織里は陽向の元に向かい、そっと声をかけた。
「陽向ちゃん、よかったら食べてください」
 香織里と船を見た陽向は、ぱっと顔を明るくさせた。
「す、すみません、わざわざ新しく用意してもらって」
「いえ。喜んでもらえるのが一番なので。気にしないで、お料理、楽しんでください」
「ありがとうございます、ほら、陽向もお礼を言って」
 母親に催促された陽向は、香織里を見て、はっきりと礼を言った。
 それだけでやりきった感があって、香織里は笑みを浮かべながら一歩の隣に戻った。
 一歩が何か呟いていたが、はっきりとは聞き取れなかった。きっと、また余計なお世話をしたことに対する文句だろう。しかし、文句を言われようが、自分ができることで喜んでもらえたのなら、それで良かったと思う。
 メイン料理を食べ終えた陽向は、船に手を伸ばした。香織里が作ったケーキを口に入れて、おいしい、と笑った。陽向という名が似合う笑顔だった。
 ふと、陽向はケーキをフォークで持ち上げ、後ろを向いた。
「おじいちゃんも、はい、あげる!」
 母親はぎょっとし、その向かいにいた晴馬と、晴馬の兄も陽向を見た。
 香織里もまた、不思議なものを見た。
 陽向の背中にべっとりと張り付いていた白いもやが、くっきりとした形になっていく。村上喜一その人が陽向の肩に手を置いて、立っていた。
 差し出されたケーキを一口含み、喜一は何か言って、消えていった。
 陽向は座り直し、差し出したケーキを自分が食べた。
「おじいちゃん、美味しいって言ってくれた?」
 晴馬が聞くと、陽向は大きく頷いた。
「うん、美味しかったって。おじいちゃん、陽向と食べれて良かったって言ってたよ。もういなくなっちゃった」
 晴馬はその言葉を聞いて、顔を歪めた。
「そっか。なら良かった……」
 兄が晴馬の背中を撫でる。
 式中、一切泣かなかった晴馬が、ここで堰を切ったように涙を流した。
 孫に会いたい、美味しいものを食べたい、その願いが叶えられ、無事旅立ったことに、晴馬はようやく安心したのかもしれない。
 香織里はその様子を見ながら、面接時に聞いた、社長の言葉を思い出す。
 別れることは、生きること――故人を偲びながら、食べる。それができるのは、遺された者たちだ。
 父の望みを聞いてやればよかった。そのような後悔は、もう晴馬はしないだろう。彼の涙を見ていたら、そう思えた。

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