プロローグ

 閑散とした町の中を一人の若い女が歩いていた。その前を小さな犬が歩いている。ポメラニアンだった。
 町の中心を走る道路を歩いていた。この道沿いには学校、スーパー、ホームセンター、コンビニなどが立ち並んでいる。地元の人は口を揃えて田舎だと評する町ではあるが、店があるだけ良い。大きな街に出ずとも、生活に必要なものは最低限ここで揃う。
 日中は多くの車が行き交う。現在は二十二時。店はもうどこも閉まっている。ぼんやりと光る街灯と懐中電灯を頼りに、女は犬の散歩をしていた。
 鼻が痛くなるような寒さである。犬が吐く息も白い。
 突風が顔をなぶる。女は寒さに身を震わせ、マフラーの中に顔を半分埋めた。犬も立ち止まり、飼い主が歩き出すのを待つ。
 町に再び沈黙が落ちる。女はマフラーから顔を出し、空を見上げた。ちかちかと星が瞬いている。晴れているせいで、気温は下がる一方だ。早く散歩を終わらせて帰ろうと決め、足を踏み出す。
 ホームセンターを過ぎ去ったところで、道の反対側にある建物から光がこぼれ出ているのを目にした。
 照明がついていたのは葬儀屋の営業所だ。隣にはホール、仏具・墓石を扱うショップが並んでいる。葬式に関するものは全てここに集まっているような場所だ。
 葬儀会社あいメモリーである。
 営業所は二十四時間営業だから、照明がついていて当然なのだが、もう一つ、光が漏れている建物があった。
 今年の春に新設されたカフェである。『cafeおてんと』と書かれた大きな看板が出ていた。あいメモリーが経営するカフェだ。
 女は車が来ていないことを確認し、道を横断してカフェの前まで歩いた。
 葬儀屋が新たにカフェを新設したというニュースをローカルニュースで見たことがある。
 葬式をしている隣でコーヒーを飲むのかと、女はニュースを見た時、素直にそう思った。ショップの外には墓石の見本が並んでいる。景観も良くないはずだ。
 カフェ自体はとてもおしゃれだ。洋風の建物である。大きな窓を備えていて、外から中の様子を見ることができる。花がたくさん飾られていた。普通のカフェならば、おしゃれで済みそうなのだが、葬儀屋が経営するカフェだ。その花は葬儀で使う花なのだろうかと考えてしまう。
 死に関するものが集うこの場所だ。異質な空気が流れているように感じる。生活感溢れる町の中心部に、ぽつんと死を扱う場所がある。そんなところに、一体誰がコーヒーを飲みに来るのだろう。死人と一緒に飲むのだろうか。
 女はぞっとして、すぐ立ち去ろうとした。しかし、飼い犬は動かない。
「行くよ」
 リードをぐっと引いてみるが、動かない。
 犬は、一点を見つめていた。カフェの中である。ベージュのカフェエプロンをつけた店員らしき女と、スーツ姿の男が立って何か話をしている。
 円テーブルの上には、料理を載せたプレートが一枚だけ置かれていた。
 店員も男も、そのプレートには手をつけていない。しかし、二人はにこやかに会話し、たまに誰も座っていない椅子に目を向けていた。
 背筋が凍った。そこに何がいるのか。女は怖くなり、その場から逃げようとリードをさらに引っ張る。しかし、犬は動いてくれなかった。それどころか、椅子に向かって吠える。
 小さい体のわりには大きな声だ。カフェの中にいる店員の耳まで届いたらしい。店員と男がこちらを見る。
「あ、こらっ」
 邪魔をしたと思い、頭を下げながらリードを引っ張るも、犬は動いてくれない。
 店員がカフェのドアを開けた。三十代はじめと思われる店員だ。肩まで伸びた黒髪を一つにまとめている。
「どうぞ、お入りください。待っていました。この時間になると散歩されていると聞いたので」
 その声を合図に、犬が店員に向かって走り出した。
 店員は犬の頭を優しく撫でた。犬は喜びのあまり、尻尾を大きく左右に振っていた。店員も店の中に飾られた花のように、笑顔を咲かせている。
「大好きなおじいちゃんと、最後のお別れをしようね。待ってるよ」
 後ろに現れた、二十代後半と思われる男が、リードを持って犬を店内に案内した。
 硬直している女に、店員が話しかける。
「平間千尋さんですよね。すみません、突然。お祖父様がお待ちです。一杯、コーヒーを飲んでいきませんか。甘いものもありますので」
 千尋は顔を青ざめさせ、首を横に振った。
「じいちゃんは……先日、死にましたけど……」
「はい。でも、まだお別れが済んでいなかったようなんです。ですから、最後の別れをしませんか。ベルちゃんもお別れをしたいと思うんです。ベルちゃん、葬儀に参列できなかったでしょう」
 なぜこの店員は、自分の名前も、愛犬の名前も、祖父が亡くなったことも、ベルが葬儀に参列しなかったことも知っているのだろう。
 あの誰も座っていない椅子には、祖父が座っているのだろうか。
 ベルは店内に入ってしまった。ベルを置いて帰るわけにはいかない。
「すみません、お金、必要ですよね。持ち合わせてなくて」
 ここはカフェだ。コーヒー一杯だけでもそれなりに値段がするだろう。そう思った千尋が申し訳なさげに言うと、店員は白い歯を見せて笑った。
「必要ありません。ようこそ、cafeおてんとへ。最高の思い出になる別れを提供するカフェです」
 店内は華やかだった。白い壁には様々な花が飾られている。床にもポットに入れられた花が並んでいた。値札が見えたので、飾りであると同時に商品でもあるようだ。
 コーヒー、花、それからカレーの香りがした。
 プレートを見て、千尋はあっと声を出す。
 大きなかぼちゃがごろりと入っているカレーだった。にんじんやたまねぎも大きく切られている。カフェで食べるカレーというよりも、家庭的な、ごく普通のカレーだ。しかし千尋にとって、それは特別なものだった。
 大好きな祖父が作ってくれたカレー。それが見事に再現され、テーブルの上に置かれていた。
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