1章 推しを忘れた令嬢

 アデリアはバンドウの問いかけに答えられなかった。
 焦点の合わない、虚ろな目で、バンドウに手を引かれながら下車する。段差に気をつけてくださいね、というバンドウの声にも反応できず、足が上がりきらず案の定躓いてしまう。バンドウは咄嗟にアデリアの細い腰に手を回し、支えながらの下車となった。
 ドアを超えると、アデリアの姿は一変する。
 バンドウと同じ黒髪。のっぺりとした顔。若返った顔は可愛らしい顔立ちをしていたが、眼鏡をかけていた。だぼだぼのTシャツにホットパンツ。スパンコールと缶バッジがたっぷりついたショルダーバッグを提げていた。
 しかし、名前が分からない。アデリアという名で呼ぶわけにもいかず、本人も名前を思い出さなければ、全ての記憶が戻らず、存在自体があやふやになる。本人の希望する場所に下車しているはずなのだが、名が戻らないので世界は曖昧なままである。バンドウは周囲を見渡す。蜃気楼のように世界が揺らいでいた。
 転生者がこうして転生前の世界に戻ると、度々起こる現象だった。それは特急の中で既に始まっていた。アデリアが眠った時から事は起こっていた。
 前世の記憶が色濃く残っている転生者は問題なく下車できるが、アデリアのように一部の記憶しか残っていない、あるいはまったく残っていない転生者は下車後、自分を失ってしまうことがある。名前を覚えている転生者はまだいいが、名前すら忘れてしまった転生者は思い出すのにも時間がかかる。
 バンドウは失礼と声をかけてショルダーバッグの中を漁る。すると、中から身分証明証が出てきた。運転免許証だ。
 免許証に印字されていた名前を見て、バンドウはアデリアの目の前に掲げる。
「読めます? 思い出せますか?」
 虚ろな目が動き、元アデリアは自分の名前を見つめる。
 自分の顔写真。自分の生年月日。自分の年齢。自分の居住地。全てを見た元アデリアは、ゆっくりと唇を動かした。
「古井……七瀬……」
「はい、古井七瀬様。おかえりなさいませ。あなたの転生前の世界に到着しました。長旅、お疲れ様でした」
 免許証にあった情報からすると、七瀬は二十四歳まで戻っていて、今いるのは東京だった。七瀬は目の前にある家に気づく。バンドウの背後には、赤茶色の瓦が目立つ家があった。ブロック塀で囲まれており、青々とした木が影を作っていた。
 空は青く、澄んでいた。大きな入道雲が白く輝いている。バンドウにとっては、久しぶりに見る青空だった。駅から出るのはいつぶりだろうか。少なくとも半年前にムゲンがお忘れ物センターに配属されてからは依頼がなかった。無機質な建物の中に閉じ込められていたバンドウにとって、このサービスは息抜きでもあった。
 ひっきりなしに虫が鳴いている。そして暑い。夏だった。バンドウは長袖の白シャツにジャケット、ネクタイである。半袖のTシャツを着ている七瀬が羨ましい。ジャケットだけでも脱ぎたかったが、仕事中なので我慢した。
 日本。バンドウも懐かしさを感じた。このじっとりとする暑さも知っていた。
 七瀬はバンドウの手を振り払い、我が家に向かって駆け出した。
 バンドウは腕時計を見る。午後三時。予定通りの時間である。これから一時間で七瀬は忘れ物を見つけることができるのか。バンドウは腕時計のタイマーをセットし、七瀬の家に入った。


 七瀬の家は普通の民家だった。免許証の情報によれば、ここは東京らしい。バンドウも七瀬の後を追いかけ、家に上がる。七瀬の部屋は家の二階だった。
 バンドウが部屋に入ると、既に七瀬は自分の部屋の棚の中を物色していた。そっとドアを閉め、部屋の中を見渡す。
 鉄パイプで組まれた棚には、いくつものプラスチックのボックスがある。その中には大量のコードや、ゲームソフト、携帯ゲーム機があった。七瀬はボックスを出し、わあっと声をあげる。
「なっつかしー! これ、旧プラのゲーム! いっぱい買ったなあ……」
 ゲームソフトのパッケージを床に並べ、七瀬は一つ一つ手に取り、表面と裏面を見る。どれも顔が整った男性がたくさん描かれていた。バンドウも一緒になってそれらを見る。
 ほとんどが乙女ゲームだった。
 七瀬は乙女ゲームを好んでプレイしていたらしい。その中でもジャンルはあり、ファンタジーから青春まで様々あった。
 バンドウは一つ気になり、七瀬に質問をする。
「旧プラとは?」
「Re:プラの前は、ハッピープラネットっていうゲーム会社だったんだけど、一回倒産して。で、再建されたのがRe:プラ。前の会社は旧プラってみんな言ってる。Reになってからエロいやつ増えて私は今の方が好きだなー」
 ハッピープラネット。言葉が口の中に残った。それは、甘いような、苦いような言葉だった。バンドウはこの感覚に首を傾げる。よく分からない感覚だった。
 みんなが一体誰のことなのかも分からなかったが、恐らく、このゲーム好きの者たちでそう呼ばれているのだろう、とバンドウは思うことにした。
 七瀬はソフトのパッケージを開け、ゲーム機の中に差し込む。電源は無事についた。七瀬はゲーム機の日付を見る。リセットされており『2000/01/01』と表示されていた。
「今って、転生する前なの、後なの?」
「古井様が希望する日時におります。そこまでは存じ上げておりません」
 バンドウは窓の前に行き、眩しい外を見た。民家が並ぶこの光景が、懐かしく思える。
「ふうん、そっか。あたしもあまり覚えてなくて。転生した瞬間のことはまあまあ覚えてるんだけど、スマホで何見てたんだっけ……スマホ見てたら、トラックが突っ込んできてさ。テンプレかよって、今なら笑っちゃう」
 それはトラックが突っ込んできたのではなく、古井様が飛び出したのでは、と言いたかったが、バンドウはその言葉を飲み込んで腹の中で消化しておいた。
 七瀬はゲームを起動させ、推し一人一人の確認を始める。
 どのゲームソフトを持って行くか、悩んでいるようだった。バンドウは待っている間、自分の腕時計と窓の外をしきりに見ていた。
「あ〜、めっちゃ推し……、一つに選べないかも……」
 七瀬のその呟きを聞いたバンドウは、笑みを浮かべたまま、再度確認をする。
「古井様。一つですよ。小さくても、大きくても、お一つです」
「じゃあ、ゲーム機とソフト一つがセットってことでいい?」
「まあ、それはそうでしょうね。それは認めましょう」
「オッケー、ああ、でも悩む。どちらかというとあたしはRe:プラのゲームが好きだったしなあ。『ゆめはな』を持って帰って、別ルート何回も遊ぶのもいいかも」
 『ゆめはな』は、七瀬の転生先の世界の略語だろうと判断し、バンドウは頷く。
「では、そうされますか?」
「いやっ、でもまだ選ばせて! 『ゆめはな』の人たちは”あっち”でも会えるし、どうせなら、会えない推しを持っていきたいかも」
「分かりました。では、お時間までに」
 はあい、と七瀬は適当に返事をし、ソフト一つ一つをゲーム機に差し込んで起動しては、推しのボイスを聞いてにやにやとしていた。甘いボイスが流れる。中には成人向けと思えるようなものもあった。ムゲンちゃんが聴けばきっと顔を真っ赤にするだろうなと思いながらバンドウは待つ。
 七瀬は推しが多いタイプだった。一つのゲームソフトの中に何人もの推しがいた。
 七瀬は選びきれず、一度休憩と言って、机の上にあったノートパソコンを開いた。立ち上がるまでは時間がかかった。
「パソコンで何をするんですか?」
「んー、せっかくこっちに戻ってきたから、やりたいことがあって」
 光るパソコンの画面を見ている七瀬の顔は曇っていた。夫のことを思っているのだろうか、アデリアだった時の表情に戻る。あのげっそりとした、覇気のない顔に。
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