おまけ

「明智睦です。ごめんなさい、隠すつもりはなかったんです」
 オフィスから抜け出し、昼食を兼ねて入ったカフェで睦は自分の名を告げた。
 ファンだったシナリオライターの万道優一郎が目の前にいて、そろそろ告白したいから名前を教えて欲しいと言ってきたのだ。これには驚いた。
 隠すつもりはなかったが、タイミングもなかった。ファンではあったので、一緒に仕事ができる喜びは大きかったが、まさか告白したいと言われるとは思っていなかった。
「じゃあ、睦さん。これを言うとこれから仕事がしにくくなるかもと思っていたのですが、どうしても言いたくて。睦さんのこと、好きなんです」
「……、私、表情あまり出ないし、目はきついし、絵ばっかり描いてて、他に取り柄、ないですよ」
「そうですか? とても分かりやすい方だと思っていましたが。嘘はつけない、素直な人なんだろうなって思っていました」
 どこでそう思ったのだろう。自分が分かってないだけで、他の人にもそう思われているのだろうか。だったら、優一郎がはじめてだ。自分のことをそう思っていると教えてくれたのは。
 注文したコーヒーとサンドイッチが届き、優一郎は、ゆっくりコーヒーを飲み下した。いつもと飲み方が違うような気がする。緊張しているのかもしれない。
「ごめんなさい。これ以上話すと、僕と関わりにくくなるかもしれません。特にお返事とかは求めていません。嫌だったら、なかったことにしてください」
 仕事に支障が出るのを恐れているのか、気遣いなのか、付き合ってほしい、という言葉は出てこなかった。
「あの、優一郎さん」
 睦はアイスティーを頼んでいた。グラスが火照った手を冷やしてくれる。
「嫌ではないです。私、今まで恋愛とかしたことないし、好きって言われたのもはじめてで、驚きはしましたが、嫌ではないんです……、」 
「そうですか」
 胸にあるこの感情をどう言葉にしたらいいか分からない。これでは優一郎に何も伝わらない。どうしよう。睦は唇を噛んだ。
 漫画ならば。優一郎のシナリオの登場人物ならばどう言うだろう。正解はもう、漫画にしているかもしれない。
「あの、私、優一郎さんのこと、もっと知りたいかもしれません」
「そうですよね、それが先でしたよね、ごめんなさい」
 何故、謝罪されるのか。違う。そうではない。
 睦は顔を赤くしながら、俯いて、呟いた。
「その……、お付き合いの中で知っていきたいなって……、嬉しかったから……っ」
 どうして涙が出るんだろう。優一郎が戸惑っているではないか。
 今までこうやって、自分の気持ちを言葉にしてこなかったせいだろうか。苦手なことをしたせいかもしれない。
 謝ると、ハンカチを渡してくれた。
「無理に言わせてしまったかもしれません。ごめんなさい」
「いえ、自分のこと喋るのが苦手なんだと思います。優一郎さんのせいじゃないです。言わないとだめって思ったから」
 涙を拭い、睦は改めて言葉にした。
「嬉しかったから、お付き合いしてみたいです、優一郎さん――」


 最初は出勤日が重なった日に、昼食を一緒にとるところから始めた。付き合っているということは社内にはバレることはなかった。仲良しですね、と茶化されることはあったが。
 優一郎とは他愛のない話をした。
 他人と創作関係ではない話をしたのはいつぶりだろう。
 ずっと仕事の話は嫌だろうと気を利かせてくれていたのかもしれない。そういったところに優一郎の優しさを感じた。名前の通りの人だった。
 それから二ヶ月ほど経った。二人とも夜遅くまでオフィスに残っていた。
 夕食に誘われて、駅近くのレストランで食事をした。その後、帰る時になって、睦は寂しさを感じた。
 まだ一緒にいたいかもしれない。その気持ちに気づいた時、やっと優一郎のことが好きだということが分かった。
 しかし、恥ずかしくて、何も言えなかった。
 まだ一回も言えていない。優一郎のことが好きだと。
 地下鉄の改札まで見送りに来てくれたが、改札に行けなかった。
「どうしました?」
「……いえ……」
 なんでもない、と言おうとして、目線を横にずらした時だった。
 旅行パンフレットが並べられていた。
「あ、旅行。いいですね」
 優一郎も気付き、資料資料と呟きながら取りに行く。
 そのうちの一つを睦に見せてくれた。
「ここ、僕が今書いているシナリオの参考にしている場所なんです。一緒に取材に行ってみませんか。絵の参考になるかもしれませんし」
 九州のある場所だった。洋風の家が並んでいる。確かに参考にはなりそうだ。
「ついでに、息抜きもできそうです。あまりデートもできていませんし、デートも兼ねて。どうですか?」
 デート、と言われてドキッとした。
 行ってみたい。素直にそう思ったので、睦は頷いた。
「じゃあ、予約とか予定とか、全部僕に任せてください。旅行には慣れていますので」
 優一郎の言うことを素直に聞きはしたが、地下鉄に乗り込んだあと、ホテルとかどうなるんだろう、と思った。やっぱり同室なのだろうか。
 でもそれを聞くのもおかしい気がして、旅行当日、ホテルに着くまでドキドキしていた。


 取材自体は楽しかった。
 優一郎の下調べが良かったのか、迷うこともなかったし、絵になる場所をいくつか巡ることができた。睦はあまり旅行には行かないから、遠出すること自体が新鮮だった。
 取材中は「MUGENさん」だった。写真をいくつか撮って満足すると「睦さん」と呼ばれた。睦さん、と呼ばれると、漫画家の自分ではなく、素の自分を見てくれている気がして、好きだった。
 でも、この気持ちもきっと伝わっていないのだろう。分かりやすいとは言うが、全てが伝わっているとは限らない。
 手を繋いで歩いているのに、こんなに嬉しいのに、こんなに好きなのに、どうして好きですの四文字が言えないのか。
 絵でなら伝えられるだろうか。でも、今の気持ちは、絵にならない。絵で伝えきれない。
 どこで言おう、ぐるぐる考えていると、結局ホテルのチェックインの時間になってしまった。
 同室だった。どぎまぎしながら、それぞれ入浴を済ます。撮った写真を確認していたら、優一郎があくびをしていたので、寝る準備に入った。
 ツインの部屋だったので、最初は離れて横になっていた。
 オレンジ色の照明が優一郎の背中をほのかに照らしていた。なんだか遠くにあるような気がする。
「……優一郎さん、もう寝ましたか」
「ん、起きてますよ」
「そっちに行ってもいいですか」
 寝返りを打った優一郎は、掛け布団を持ち上げて「どうぞ」と返事をする。
「睦さんから寄ってきてくれるとは思っていませんでした」
 布団に入ると、優一郎の温かさを感じる。
 そっと抱きしめられた。速い鼓動を感じる。え、と思った。
「緊張しているんですか」
「まあ、そうですね。これからどうしたらいいか悩んでいます」
 二人でじっとしていた。
 これからすることは、何となく分かる。だが、優一郎はどこか遠慮しているような気がする。
 やっぱり、自分が、まだ一言も好きですと言えていないからだ。
「……睦さん、お試ししてどうでしたか。一応、恋人らしいことをしてみましたけれども」
 切り出したのは優一郎だった。
「僕、睦さんのこと、何となく分かっている気になっていましたけど、正直、不安でした。僕に抱きしめられるの、嫌じゃないですか?」
「……嫌じゃないです。あの、優一郎さん」
 胸に耳を当てると、鼓動がよく聞こえる。自分の心臓の音も伝わっているのだろう。
「好きです。とても」
 優一郎からの返事がない。
 聞こえなかったのだろうか。もう一度言おうとして、顔を上げた時だった。
 唇が重なった。
 そっと重ねる程度のキスだ。優しい。やっぱり優しいと思った。それが好きだった。
「睦さんより七歳も上ですから、気にしていたんです。嫌じゃないですか」
「別に歳のことは気にしていません」 
 優一郎は良かった……、と小さく呟いていた。
「……投稿サイトでやり取りをしていた時、勝手に自分と同じくらいの人だと思っていたんです。名前も男性とも女性とも受け取れるものでしたから、女性だと知って驚きました。睦さんは、自分で言うように、気持ちは表情に出ない方かもしれませんが、心の広い方、感情の豊かな方だとずっと思っています。大好きです……」
 ぎゅっと抱きしめられる。大好き、と言われて、睦は恥ずかしくなってしまった。でも。でも言わなければいけない。
「シナリオ担当なのに送られてくるメッセージが所々平仮名でしたから、パソコンが苦手なお茶目な方だと思っていました」
「あはは、それは事実です」
「それと、とっても優しい方で……、あったかくて、ずっと一緒にいたいと思います。優しい優一郎さんがいると安心して……好きだなって……」
 そこまで言うと、また優一郎がキスをしてくる。
 もう分かったから、言わなくていい、と言ってくれている気がする。言葉にするのが苦手なのを分かっているからだろうか。
 今度は深いキスだった。
 絵にも言葉にもすることのできない大きな気持ちに襲われる。ほろほろと涙が出てくる。
 優一郎に涙を拭われ、心配されたが、睦は大丈夫と言った。
「やめないで」
 優一郎の体が反応している。睦ももっと優一郎に抱きしめて欲しかった。
「……優しくします」
 元々優しいのに、何故そんな宣言が必要なのか。その理由は、後で分かった。


「帰りたくない……」
 ムゲンの寝言にバンドウは目覚めた。
 愛し合ったあと、そのまま自分も寝てしまっていた。自分の腕を抱きしめて、ムゲンは気持ちよさそうに寝ている。
 一体いつの記憶に戻っているのだろう。
 最初の旅行デートの時も、朝、そう言っていたことを思い出した。
 東京に帰っても、二人で過ごせますよ、と宥めた記憶がある。
 旅行が終わる寂しさがあったのかもしれない。
 愛し合う前に、目覚めるまで傍にいろと言われていた。それを言われてしまうと、バンドウも逆らえなくなる。
 ムゲンの穏やかな寝顔は、睦の寝顔と一緒だ。今、まさに夢の中で睦に戻っているのかもしれない。
 まだ深夜だった。睡眠は元々不要だから、一度寝てもすぐに目覚めてしまう。
 出張で疲れていたムゲンはこのまま早朝まで眠っているだろう。いい旅を優一郎としていてほしい。
 優一郎の優しさが好きなのだと言ってくれた睦と、今のバンドウも好きだと言ってくれたムゲン、その両方を抱きしめる。
「僕もたまには、優一郎に戻ってもいいのかもしれませんね、睦ちゃん」
「優一郎さん、大好きです……」
 また寝言だ。寝言にしては甘すぎる。
 バンドウは苦笑して、ムゲンの頭を撫でた。
「僕も大好きですよ、睦ちゃん」
 あの時の不安も、喜びも、全部懐かしい。
 自分ももう少し夢で旅行するかと、バンドウは優一郎の記憶に落ちていった。
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