おまけ

 大きな溜息が聞こえて、ムゲンは机から顔を上げた。
 ベッドで横になっていたはずのバンドウが身体を起こしていて、顔の上半分を右手で覆っていた。嫌な夢でも見ていたのだろうか。
 バンドウの隣にはミライがいた。こちらはぐっすりと眠っている。小さく丸まって眠っているので、猫のようにも見えた。バンドウは別に睡眠を取る必要はなかったのだが、研修から帰ってきたミライはバンドウに添い寝をリクエストしたのである。
 腕時計で時刻を確認する。深夜二時を回ったところだった。
「起きますか。コーヒー……インスタントしかありませんが」
「……、あ、じゃあ、お願いします」
 再度溜息をついたバンドウは、手で顔を擦ってベッドから出てくる。
 コンロで湯を沸かしている間、ちらりと振り返る。
 バンドウの顔がやけに暗い。こういうときは、そっとしておくべきなのか、それとも話しを聞いてやるべきなのか――。
 やかんの口から湯気が少しずつ出はじめた頃になって、判断を出す。
 そっとした結果が前世の最後ならば、聞いたほうがいいのだろう。


 優一郎は、作品の方向性が決まると、自宅で仕事をすることが多かった。自宅のほうが捗るからである。
 結婚する前、住まいを決めるとき、優一郎は書斎を求めた。決め手は部屋数にあった。
 睦は机さえあればどこでもできるタイプだったので、リビングの隅に作業机と資料を入れる本棚を置いたが、優一郎はまるまる部屋一つを使っていた。基本的に二人が顔を合わせて作業をするということはなく、別々の場所で作業をしていたのである。
 その部屋が悪かった。
 優一郎が一度その部屋に引きこもると、睦は彼に話しかけることができなかった。なんとなく、そのドアを開けてはいけないものだと思っていたのである。
 様子がおかしいということに気づいてからも、何かあったのかと聞くことはできなかった。部屋から出てきたらいつもと変わらない優一郎だったからだ。
 睦が原稿をしていると、時たま大きな音が聞こえることがあったし、すすり泣く声も聞こえてきた。開けられないドアの向こうで何かが起こっている。それは分かっているのに、ドアノブにすら手をかけることができなかった。
 はっきりと「書けない」という声が聞こえてきても、自分は優一郎の悩みはきっと解決できないと思って、そっとしていた。
 部屋から出てくれば、いつもと変わらない優一郎である。深刻ではないと思っていた。
 これは全部、睦の想像であり、そうであってほしいという願望でもあった。
 それからどうなってしまったか。結果は、今が物語っている。


 やかんが沸騰を知らせる音を鳴らした。
 はっとしたムゲンは、コンロの火を止め、バンドウのマグカップに湯を注いだ。駅構内の売店で売っている安いインスタントコーヒーである。香りはそこまでではない。だが眠気を覚ますには充分だった。
「何か悪い夢でも見ていたんですか」
 差し出すのと同時に質問した。そこしかタイミングがなかった。
「あー……まあ、悪い夢というか……なんというか。現実味がある夢というか、ねっとりした夢というか。そんな感じのやつです」
 分かるような、分からないような例えで返された。このような歯切れの悪い回答をするということは、何か隠しているということである。
 コーヒーを黙って飲んでいる彼を、じっと見つめた。
「なんですか、顔に布団の跡でもついていましたか? って、うわ、ミライさんのよだれが……」
 ジャケットの袖を擦っているバンドウに、ムゲンは直球で投げかけた。
「バンドウさんって、隠しますよね」
 椅子の下にいたユーロウを抱きしめる。自分が逃げそうだったからだ。
 そっとしておいたほうがいいのかもしれない。そう言い聞かせて、なかったことにしそうだった。だが、その結果どうなるかは、よく分かっている。ユーロウを抱いて、自分を奮い立たせる。
「前も……優一郎さんもそうでした。自分にとって悪いことがあると、なんでもないように振る舞います。本当は困っていたのに、全部隠すんです。それは今も変わっていません」
「あはは、バレてましたか」
「一緒にいればそのくらい分かります。気付かれていないって思っていたんですか。し……、心配だったんですから」
 そう言うと、バンドウは少し驚いた顔をして、それからマグカップを机に置いた。
「それでもそっとしてくれていた睦ちゃんは、優しかったですね」
「優しいとかではありません。たぶん……怯えていただけです。そっとすべきではありませんでした。だから、今言っているんです。お願いですから、隠さないでください」
 バンドウが少しだけ椅子を後ろに引いたので、ユーロウを机に置いて、バンドウの膝に乗った。
 ぐったりとする。
 自分の内にあるものを言葉にすると疲れる。強い言葉を使うのは苦手だ。バンドウは分かってくれている。優しく抱きしめてくれた。
 本当は自分が先に彼を抱きしめてやるべきだった。背中に腕を回して、顔を胸に埋めた。
「ムゲンちゃんが、言葉にするのは苦手って言うのと同じで、僕は他人に頼るのが苦手なんですよ」
「優しいから」
「違います。ただのプライドのようなものです。他人に頼る自分がみっともないって思うんです。弱っている自分を他人に見せたくないんです。睦ちゃんにも、ムゲンちゃんにも。だから儀式は一人でホームでしていたんです。ミライさんにもムゲンちゃんにも怒られましたからやめましたけど」
 ムゲンの肩に顔を置いたバンドウは、そこで言葉を一旦区切った。
 その間は、覚悟するための間だったのかもしれない。
「……さっき見た夢は、部屋に籠もって荒れていた時を思い出させるようなものでした。夢というより、思い出した、といったほうがいいのかもしれません。もう終わったことなんですが……。ムゲンちゃん、あの時ああしていれば、こうしていればなんて、思わないでくださいね。僕が悪かったんですし、ムゲンちゃんは自分を責めなくていいですから。やり直すことはできませんし」
「でも……、今、してあげることはできます」
 優一郎さん、と呼んだ。
 バンドウからは固く禁じられているが、それを破った。
「優一郎さん、死にたいのまえに、しんどいって、私に言ってください」
 小さく息を飲むバンドウを強く抱きしめた。もうこれ以上言葉にはできなかった。
 沈黙の後、ムゲンの首を熱い何かが濡らした。
「本当は、辞めたかった。別の人に、任せたかった……、僕には、重たかった――しんどい、しんどかった」
 肩を震わせているバンドウが、あの扉の向こうにいた優一郎なのだろう。
 あの時、本当はこうしてあげればよかった。だから、今、する。
 あの時に戻れなくても、ここでできることがあった。


「もう、大丈夫です、睦ちゃん。助かりました」
 落ち着くまでかなりの時間を要した。
 身体を離すと、バンドウはすぐに保管室から出ていった。顔を見られたくなかったのかもしれない。
 睦、と呼んだので、まだ優一郎の気分だったのかもしれない。
 数分後に戻ってきたバンドウは、やはりけろっとしていた。もとから切り替えはうまいほうなのだろう。ぐじゅぐじゅのムゲンの襟元を見て、何回も謝ってきたが、別に気にすることではなかった。
「すっきりしたのならいいです。死ぬよりマシ」
「確かにそうです」
 ムゲンも着替えのために一度センターから出たのだが、戻ってきた時にはもうミライが起きていて、バンドウと遊んでいた。
 細い目はずっと笑っているようにも見えるし、実際、深いことは何も考えていないような顔をしている。言動だってそうだ。
 だが、誰よりも物事を深刻に捉えている人物だ。気付かれないように、悟られないように、奥深くで一人で抱え込み、一人で苦しむ。お忘れ物を見つけてしまったがゆえに、過去の苦しみはまだ尾を引いている。
 何度だって、あの時、ああしていれば、こうしていれば、と思うだろう。後悔は自分の中にも残っている。
 あの時できなかったことは、これからすればいいのだ。
 その機会を、自分たちは持っているのだから。
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