5章 神を忘れた聖女
――全部兄ちゃんたちに任せろ。お前は体の方を大事にしろ。
そう言われていた。
妊娠が分かったのは、優一郎の死後から一ヶ月経った頃だった。
そうだ、お腹の中には、子供がいた。
ムゲンは無意識に腹を撫でた。
思い出す。内から蹴られていた感覚を。確かにいた。男の子だと先生から教えてもらっていた。とても元気な子だった。頻繁に蹴られて呻くぐらいだった。
「あれから、ちゃんと食べているんでしょうね。MUGENちゃんは夢中になると、いくらでもご飯抜いてたし、優さんのこともあって、食べてないと思ってたわ」
「……食べて……ました……だから、大丈夫です。順調です」
嘘だ。
この時点の杏奈は知らないのだ。睦が踏切に入って列車に轢かれて死ぬのを。
睦は恐怖に耐えきれなかった。これから一人で漫画を描くことも、一人で子供を産み、育てることも、全てが怖くて、耐えきれなかった。
裁判が終わり、いよいよ出産が近くなったところで、睦は怖くなって、全てから逃げた。死ぬほうが怖くなかった。
踏切の向こうに優一郎がいると、想像した。
自分も優一郎と同じように、列車に轢かれて死ねば、優一郎のところに行けると思った。
優一郎は睦を待ってくれていると想像した。子供と一緒に死んで、優一郎の元へ逝こう。決めたら早かった。
真昼間だった。幸いにも人通りがなく、睦を止める人はいなかった。赤ランプが点滅し、バーが降り、もうすぐ列車が通過するというところで踏切の中に入った。
怖くなっても逃げられないように、直前を狙った。
子を守るように、お腹を抱えていたかもしれない。でも、親子共々死ぬのだと決めて、真正面から列車を迎えた。
車掌が目玉が飛び出しそうなほど目を開いて、急ブレーキをかけたのも、覚えている。
――今、逝くから、待ってて、優一郎さん。
そこで、睦の記憶は終わった。
杏奈は、無事に産まれてほしいと言う。その願いは無駄に終わってしまうことを、まだ杏奈は知らない。
申し訳なかった。杏奈にも、優一郎にも、まだ名のない子供にも、あの車掌にも。
ムゲンは項垂れ、杏奈の手を強く握る。
「睦ちゃん。私、絶対、病気に勝つ。勝って、優さんの世界を引き継いでくれる人を捜す。ああ、そうよ。私が捜していたのは、優さんの後継者よ。そうだった。神様じゃなくて、神様みたいに創造できる優さんの後継者よ。前世お忘れ物捜索サービス、受けて良かった。こっちに戻ってこれたし、本当の捜し物も思い出せてよかったわ。優さんにも会えたし。私、いい夢を見たわ」
ムゲンも思い出した。優一郎は、創造主のような人だった。いや、彼は自分でも言っていたはずだ。僕は神様ですから、物語の中では何でもできるんです、と。MUGENにとっても、優一郎は神のような存在だった。自分をワクワクとさせてくれ、新しい作品をどんどん出す優一郎の技術にいつも圧倒されていた。
「とてもいい夢だと、私も思います」
「睦ちゃん。私、あの時、もう一度あなたに戻ってきて欲しいなんて軽率に言っちゃったけど、無理にとは言わない。せめて、せめて、幸せになって。お願いよ」
「でも、私は、たくさん迷惑をかけたのに……」
「これからを大切にしましょうよ。過去も大事だけど、私たちにはこれからがあるわ」
ムゲンは杏奈の手をかたく握る。
「……はい。羽鳥様も……」
ムゲンが顔を上げると、ざっと窓から風が吹き込んできた。レースカーテンが揺れる。
桃色の花びらがひらりと入ってきて、杏奈の胸に落ちた。
「あら、桜。もう咲いていたのね」
「桜」
「ええ、桜」
ムゲンは立ち上がって、窓の外を見た。そうだ。あれは、桜だ。日本人の転生印は、あの桜の花だった。眼下には桃色の花を蓄える木があった。車椅子に座って花を見上げている人がいる。手を伸ばして、舞い散る桜の花びらを取ろうとしていた。
杏奈は花びらを手のひらに乗せて、微笑んだ。
「閉めますか」
「いいえ、開けておいて。寒くないから」
ムゲンは腕時計を見る。思い出話をしていたら、もう時間が来そうだった。ムゲンは手にしていた花を花瓶に挿す。きれいね、ありがとう。杏奈は微笑んだ。
「サービスはここまでですが、必ず、こちらで見つかります。優一郎さんのような、神様みたいに沢山の世界とストーリーを創る後継者は必ず見つかります。私は知っています。羽鳥様の立ち上げた新しい会社のこと。最初は……ハピプラの社風が残っていて、難しいところもあります……ですが、ゲームはたくさん出しています。皆に愛されるゲームを、たくさん。羽鳥様は、必ず、優一郎さんの後継者に出会えます」
「うふふ、予言? 優さんみたい。その会社の名前、聞いてもいい?」
「――Re:プラネットです」
「ありがとう。そうね、やり直し。やり直すわ、私たち。散らばった元メンバーを集めて、私、やり直すわ。そうだ、元メンバーなら、みんな優さんの作風も分かってるし、みんなですればいいんだわ。私も優さんとは専門時代から一緒だったんだから、私も一緒に創ればいいんだわ。慧斗も……慧斗にも、やり直すチャンスがあっていいはずよ。手術、頑張れそう。私、まだ死ねないわ」
「はい。必ず……必ず、生きてください」
ご利用ありがとうございました。
さようなら。お元気で。
ムゲンは一人で特急タナバタに乗り込んだ。
「今日はあまり良くなかったお客様だったのですか?」
目の前に星間ちゃんが現れる。ムゲンは缶を押し戻した。
「そういう訳ではないです」
ハナビがしゅんとした顔で缶ビールを引っ込める。
「なんだか悲しそうだったので、励ましたかったのですが、やっぱり要りませんか?」
「ミックスジュースのほうがいいです。そっちのほうが好きです」
「分かりました。残念。でも、ムゲンさんって、分かりやすいですよね」
紙コップにジュースを注ぎ、渡す。
ムゲンはハナビを見上げた。
「分かりやすいですか」
「分かりやすいですよ。顔には出ないんですけど、なんか、周りの空気ににじみ出てるんですよね。最初は分かりにくかったんですけど、会話をしていたら、なんとなく分かるようになりました。バンドウさんが可愛い可愛いって言ってたのも、分かる気がします。今日は……何か我慢してる感じがしますよ」
「別に我慢はしていません。出す時は出します」
眉間に皺を寄せると、ハナビは笑った。
「え、出す時は出すって、バンドウさんの前で、ですか?」
ムゲンからの返事はなかったが、ムゲンの顔がかっと赤くなったので、ハナビはあらあらと口元に手を添えた。
「やっぱり、こういう時は飲むのがいちばんですよ! 悲しいことも、嬉しいことも、全部、お酒と一緒に味わえますからね」
頼んでもいないビールを机の上に置かれた。星間ちゃんがムゲンを見つめている。
それではごゆっくり、と言ってハナビはワゴンを押して去っていく。
確かに、悲しいという感情はあった。思い出した記憶の数々に、胸がいっぱいになった。杏奈には嘘をついた。自分は取り返しのつかないことをした。迷惑もかけた。申し訳ないという気持ちもあった。
でも、もうどうすることもできない。やり直しは叶わなかった。
甘すぎるくらいのミックスジュースを飲み、缶のプルタブを引く。
バンドウにあげればよかったのだが、飲まなければいけない気もした。
いつも断っていたから。
――新幹線の中で飲むお酒って、特別ですよね。睦ちゃんは飲まないんですか?
――ビールは好きじゃないから。気にせず飲んで。
――そうですか。取材旅行、楽しかったですね。睦ちゃんと一緒に行けて良かったです。
――また、連れて行って。私も、楽しかった。
一口飲むごとに、二人で過ごした日々を思い出す。
MUGENと睦の両方を愛してくれていた人が、ずっと側にいてくれた。
バンドウは、あの頃と同じように、今のムゲンを褒めてくれるし、愛してくれる。お忘れ物が見つかる前から、バンドウはずっと自分との繋がりを感じ、自分を大事にしてくれていた。それが嬉しかった。
早く帰りたかった。やはり、片道六時間は長い。
ムゲンは無意識のうちに自分のお腹を擦っていた。
バンドウに伝えないといけないこともあった。
全てのビールを飲み干すと、ムゲンはすぐに寝入ってしまった。ムゲンの手から落ちた缶の音を聴いたハナビはひざ掛けを持ってムゲンの所にやってくる。
「今日は、乗客もいないことですし、ここはひとつ、ハナビさんのとくとく、とくべつサービスを提供してあげましょう、ムゲンさん」
転がった缶と紙コップを回収し、ひざ掛けをかける。
「こんな顔で下車したらバンドウさんがびっくりしますよ。タナバタから降りる時は、可愛いムゲンさんでいなきゃ」
首に巻いていたスカーフを取り、濡れた頬を拭いた。
腕時計を見る。まだまだ時間はあった。
背もたれを倒し、おやすみなさい、と囁いた。
ハナビはその後、運転席に向かった。運転席には二十年一緒に乗り続けている相棒がいた。ハナビの右手には瓶ビールがある。運転士は制帽を少し上げて、ビールがあるのを確認すると、大きな溜息をついた。
運転士が呆れたように、また飲んでいるんですか、と聞いてくる。
ハナビはふふふ、と笑った。
「ねえ、バンドウさんとムゲンさんって、やっぱり、あれよね」
「まあ、あなたの話を聴いていれば、そう思わざるを得ないですけど」
「そうよねー! ねえねえ、私たちも、どう?」
「運転中。時空の狭間に投げ出されたくないでしょ」
「はあ!? 自動運転中なのに、何とぼけてんの。いつになったら返事してくれるのよ。往復するだけだけど、でも、旅は楽しくなくっちゃ」
運転士の制帽をぺしんと叩き、ビールをラッパ飲みする。
ぶはあ、と下品な声を出すと、運転士が肩を震わせて笑っていた。
「ああ、死にたくはないけど、薬が欲しい。あなたたちがいるから、死にたくはないけど」
輝く星々を見ながら、ハナビは呟く。
お忘れ物センターの職員の一人はこの特急で死に、もう一人も屋上から飛び降りて死んだ。その時の虚しさ、悲しさ、やるせなさは、ハナビもよく覚えている。だからこそ、お忘れ物センターのあの二人には死んでほしくなかった。
タナバタを愛用するバンドウとムゲンがお忘れ物センターにいて、タナバタの運転手も変わらない限り、ハナビは死ねないし、タナバタからは降りれないだろうなと思った。
そう言われていた。
妊娠が分かったのは、優一郎の死後から一ヶ月経った頃だった。
そうだ、お腹の中には、子供がいた。
ムゲンは無意識に腹を撫でた。
思い出す。内から蹴られていた感覚を。確かにいた。男の子だと先生から教えてもらっていた。とても元気な子だった。頻繁に蹴られて呻くぐらいだった。
「あれから、ちゃんと食べているんでしょうね。MUGENちゃんは夢中になると、いくらでもご飯抜いてたし、優さんのこともあって、食べてないと思ってたわ」
「……食べて……ました……だから、大丈夫です。順調です」
嘘だ。
この時点の杏奈は知らないのだ。睦が踏切に入って列車に轢かれて死ぬのを。
睦は恐怖に耐えきれなかった。これから一人で漫画を描くことも、一人で子供を産み、育てることも、全てが怖くて、耐えきれなかった。
裁判が終わり、いよいよ出産が近くなったところで、睦は怖くなって、全てから逃げた。死ぬほうが怖くなかった。
踏切の向こうに優一郎がいると、想像した。
自分も優一郎と同じように、列車に轢かれて死ねば、優一郎のところに行けると思った。
優一郎は睦を待ってくれていると想像した。子供と一緒に死んで、優一郎の元へ逝こう。決めたら早かった。
真昼間だった。幸いにも人通りがなく、睦を止める人はいなかった。赤ランプが点滅し、バーが降り、もうすぐ列車が通過するというところで踏切の中に入った。
怖くなっても逃げられないように、直前を狙った。
子を守るように、お腹を抱えていたかもしれない。でも、親子共々死ぬのだと決めて、真正面から列車を迎えた。
車掌が目玉が飛び出しそうなほど目を開いて、急ブレーキをかけたのも、覚えている。
――今、逝くから、待ってて、優一郎さん。
そこで、睦の記憶は終わった。
杏奈は、無事に産まれてほしいと言う。その願いは無駄に終わってしまうことを、まだ杏奈は知らない。
申し訳なかった。杏奈にも、優一郎にも、まだ名のない子供にも、あの車掌にも。
ムゲンは項垂れ、杏奈の手を強く握る。
「睦ちゃん。私、絶対、病気に勝つ。勝って、優さんの世界を引き継いでくれる人を捜す。ああ、そうよ。私が捜していたのは、優さんの後継者よ。そうだった。神様じゃなくて、神様みたいに創造できる優さんの後継者よ。前世お忘れ物捜索サービス、受けて良かった。こっちに戻ってこれたし、本当の捜し物も思い出せてよかったわ。優さんにも会えたし。私、いい夢を見たわ」
ムゲンも思い出した。優一郎は、創造主のような人だった。いや、彼は自分でも言っていたはずだ。僕は神様ですから、物語の中では何でもできるんです、と。MUGENにとっても、優一郎は神のような存在だった。自分をワクワクとさせてくれ、新しい作品をどんどん出す優一郎の技術にいつも圧倒されていた。
「とてもいい夢だと、私も思います」
「睦ちゃん。私、あの時、もう一度あなたに戻ってきて欲しいなんて軽率に言っちゃったけど、無理にとは言わない。せめて、せめて、幸せになって。お願いよ」
「でも、私は、たくさん迷惑をかけたのに……」
「これからを大切にしましょうよ。過去も大事だけど、私たちにはこれからがあるわ」
ムゲンは杏奈の手をかたく握る。
「……はい。羽鳥様も……」
ムゲンが顔を上げると、ざっと窓から風が吹き込んできた。レースカーテンが揺れる。
桃色の花びらがひらりと入ってきて、杏奈の胸に落ちた。
「あら、桜。もう咲いていたのね」
「桜」
「ええ、桜」
ムゲンは立ち上がって、窓の外を見た。そうだ。あれは、桜だ。日本人の転生印は、あの桜の花だった。眼下には桃色の花を蓄える木があった。車椅子に座って花を見上げている人がいる。手を伸ばして、舞い散る桜の花びらを取ろうとしていた。
杏奈は花びらを手のひらに乗せて、微笑んだ。
「閉めますか」
「いいえ、開けておいて。寒くないから」
ムゲンは腕時計を見る。思い出話をしていたら、もう時間が来そうだった。ムゲンは手にしていた花を花瓶に挿す。きれいね、ありがとう。杏奈は微笑んだ。
「サービスはここまでですが、必ず、こちらで見つかります。優一郎さんのような、神様みたいに沢山の世界とストーリーを創る後継者は必ず見つかります。私は知っています。羽鳥様の立ち上げた新しい会社のこと。最初は……ハピプラの社風が残っていて、難しいところもあります……ですが、ゲームはたくさん出しています。皆に愛されるゲームを、たくさん。羽鳥様は、必ず、優一郎さんの後継者に出会えます」
「うふふ、予言? 優さんみたい。その会社の名前、聞いてもいい?」
「――Re:プラネットです」
「ありがとう。そうね、やり直し。やり直すわ、私たち。散らばった元メンバーを集めて、私、やり直すわ。そうだ、元メンバーなら、みんな優さんの作風も分かってるし、みんなですればいいんだわ。私も優さんとは専門時代から一緒だったんだから、私も一緒に創ればいいんだわ。慧斗も……慧斗にも、やり直すチャンスがあっていいはずよ。手術、頑張れそう。私、まだ死ねないわ」
「はい。必ず……必ず、生きてください」
ご利用ありがとうございました。
さようなら。お元気で。
ムゲンは一人で特急タナバタに乗り込んだ。
「今日はあまり良くなかったお客様だったのですか?」
目の前に星間ちゃんが現れる。ムゲンは缶を押し戻した。
「そういう訳ではないです」
ハナビがしゅんとした顔で缶ビールを引っ込める。
「なんだか悲しそうだったので、励ましたかったのですが、やっぱり要りませんか?」
「ミックスジュースのほうがいいです。そっちのほうが好きです」
「分かりました。残念。でも、ムゲンさんって、分かりやすいですよね」
紙コップにジュースを注ぎ、渡す。
ムゲンはハナビを見上げた。
「分かりやすいですか」
「分かりやすいですよ。顔には出ないんですけど、なんか、周りの空気ににじみ出てるんですよね。最初は分かりにくかったんですけど、会話をしていたら、なんとなく分かるようになりました。バンドウさんが可愛い可愛いって言ってたのも、分かる気がします。今日は……何か我慢してる感じがしますよ」
「別に我慢はしていません。出す時は出します」
眉間に皺を寄せると、ハナビは笑った。
「え、出す時は出すって、バンドウさんの前で、ですか?」
ムゲンからの返事はなかったが、ムゲンの顔がかっと赤くなったので、ハナビはあらあらと口元に手を添えた。
「やっぱり、こういう時は飲むのがいちばんですよ! 悲しいことも、嬉しいことも、全部、お酒と一緒に味わえますからね」
頼んでもいないビールを机の上に置かれた。星間ちゃんがムゲンを見つめている。
それではごゆっくり、と言ってハナビはワゴンを押して去っていく。
確かに、悲しいという感情はあった。思い出した記憶の数々に、胸がいっぱいになった。杏奈には嘘をついた。自分は取り返しのつかないことをした。迷惑もかけた。申し訳ないという気持ちもあった。
でも、もうどうすることもできない。やり直しは叶わなかった。
甘すぎるくらいのミックスジュースを飲み、缶のプルタブを引く。
バンドウにあげればよかったのだが、飲まなければいけない気もした。
いつも断っていたから。
――新幹線の中で飲むお酒って、特別ですよね。睦ちゃんは飲まないんですか?
――ビールは好きじゃないから。気にせず飲んで。
――そうですか。取材旅行、楽しかったですね。睦ちゃんと一緒に行けて良かったです。
――また、連れて行って。私も、楽しかった。
一口飲むごとに、二人で過ごした日々を思い出す。
MUGENと睦の両方を愛してくれていた人が、ずっと側にいてくれた。
バンドウは、あの頃と同じように、今のムゲンを褒めてくれるし、愛してくれる。お忘れ物が見つかる前から、バンドウはずっと自分との繋がりを感じ、自分を大事にしてくれていた。それが嬉しかった。
早く帰りたかった。やはり、片道六時間は長い。
ムゲンは無意識のうちに自分のお腹を擦っていた。
バンドウに伝えないといけないこともあった。
全てのビールを飲み干すと、ムゲンはすぐに寝入ってしまった。ムゲンの手から落ちた缶の音を聴いたハナビはひざ掛けを持ってムゲンの所にやってくる。
「今日は、乗客もいないことですし、ここはひとつ、ハナビさんのとくとく、とくべつサービスを提供してあげましょう、ムゲンさん」
転がった缶と紙コップを回収し、ひざ掛けをかける。
「こんな顔で下車したらバンドウさんがびっくりしますよ。タナバタから降りる時は、可愛いムゲンさんでいなきゃ」
首に巻いていたスカーフを取り、濡れた頬を拭いた。
腕時計を見る。まだまだ時間はあった。
背もたれを倒し、おやすみなさい、と囁いた。
ハナビはその後、運転席に向かった。運転席には二十年一緒に乗り続けている相棒がいた。ハナビの右手には瓶ビールがある。運転士は制帽を少し上げて、ビールがあるのを確認すると、大きな溜息をついた。
運転士が呆れたように、また飲んでいるんですか、と聞いてくる。
ハナビはふふふ、と笑った。
「ねえ、バンドウさんとムゲンさんって、やっぱり、あれよね」
「まあ、あなたの話を聴いていれば、そう思わざるを得ないですけど」
「そうよねー! ねえねえ、私たちも、どう?」
「運転中。時空の狭間に投げ出されたくないでしょ」
「はあ!? 自動運転中なのに、何とぼけてんの。いつになったら返事してくれるのよ。往復するだけだけど、でも、旅は楽しくなくっちゃ」
運転士の制帽をぺしんと叩き、ビールをラッパ飲みする。
ぶはあ、と下品な声を出すと、運転士が肩を震わせて笑っていた。
「ああ、死にたくはないけど、薬が欲しい。あなたたちがいるから、死にたくはないけど」
輝く星々を見ながら、ハナビは呟く。
お忘れ物センターの職員の一人はこの特急で死に、もう一人も屋上から飛び降りて死んだ。その時の虚しさ、悲しさ、やるせなさは、ハナビもよく覚えている。だからこそ、お忘れ物センターのあの二人には死んでほしくなかった。
タナバタを愛用するバンドウとムゲンがお忘れ物センターにいて、タナバタの運転手も変わらない限り、ハナビは死ねないし、タナバタからは降りれないだろうなと思った。