5章 神を忘れた聖女
酸っぱいような、甘いような匂いがする。
ムゲンは重たい瞼を持ち上げた。白いシーツが視界に入った。透明なチューブが隣にある。ぽたぽたと液体が垂れ、チューブの中を伝っていた。
強い目眩に襲われて、倒れたかと思ったが、丸椅子に座っていた。
目の前にはベッドがあり、杏奈が寝ていた。窓が開いていて、心地よい風が吹いてくる。
病院にいた。ここは病室だった。杏奈は管に繋がれて寝ている。
舌の上で自分の名前を転がした。
睦。そうだ、自分は万道睦。自分の中に名前が戻ってきたような感覚がする。MUGENの記憶の隙間に、万道睦の記憶が入っていくような感覚だ。
ムゲンの手には気がついたら花束があった。名前は分からない。ピンクの大きな花だった。傍から見れば杏奈のお見舞いに来ているような格好である。着ているのは異世界鉄道会社の制服だが。
杏奈が薄っすらと目を開け、ムゲンを見た。
「睦ちゃん、来てくれたのね、ごめんね」
何故謝られたのかよく分からないので、仕事ですから、と答える。ムゲンとして。
「ああ、そうだったね。お忘れ物を捜しに……。私、長い夢を見ていた気がする。大きな大きな国にいて、王様の隣にいて」
「夢ではありません。羽鳥様は、マリアとして転生していました」
「そうだったかしら。頭がぼうっとしてて」
「記憶が混ざって混乱するのはよくある事です。気にしないでください」
杏奈はありがとうと微笑みを見せた。
「睦ちゃんが来てくれるなんて、思ってなかった。でも、大変な時に、ごめんね」
大変な時とは、どういうことなのか。
ムゲンは名前と共に戻ってきた記憶を漁る。ここは睦としてそれっぽくなるように返した。
「いえ……、だいたいのことは兄がしてくれているので……」
睦には歳の離れた兄がいた。そうだった。確か、優一郎が死んだ時、何もできなかった睦に変わって色々としてくれた。
「そう。それは良かった。逃げようとする慧斗を引っ張り出して、裁判所まで連れて行って、私は病気で倒れちゃったから……。あの人、訴状を無視して、自殺するつもりだったらしくてね。死ぬ前で良かったわ」
杏奈はふう、と溜息をついた。
兄は、会社に損害賠償を請求した方がいいと判断し、起訴した。睦は証拠になるものを出してくれるだけでいい、と言って、後は全部、兄がやってくれたのだ。
ゲームプラネットのゲームを睦に貸してくれた兄は、どこまでも優しかった。兄がいなければ、睦は漫画家にもならなかったし、優一郎とも出会えなかった。人生の恩人の一人でもある、自分に似たあまり表情のない兄を思い出す。
「あの、どこが悪いんですか。私、入院したことしか聞いてなくて」
「ここ」
杏奈は下腹部をぽんぽんと叩いた。
「全部、取るの。手術は一週間後よ」
「そう……、ですか」
こういう時、どんな言葉を使うべきなのだろう。ムゲンは分からなくて俯いた。そんなムゲンの反応を見た杏奈は、ふふ、と笑った。
「いいのよ。どうせ、私はもう結婚なんてできないし。ねえ、せっかくだし、ちょっとお話しましょうよ。そうねえ。あ、そうだ。睦ちゃんと優さんの話。聞かせてよ。あなたたち、いつの間にか結婚してたから。私に教えてくれなかったじゃない。寝たきりの私に、面白い話を聞かせて」
そうだった。杏奈は、優一郎のことを優さんと呼んでいた。
自分と優一郎の話をしてくれと言われて、ムゲンは困惑する。
「そんなの聞いても……、面白くないかもしれません」
「面白くなくても、聞かせて」
ムゲンは諦めて、睦の記憶を辿る。
自分の記憶の中に、杏奈のお忘れ物もあるのではないかと思って。
「いつから付き合ってたの、あなたたち。社員の誰も気付いてなかったから分からないの」
「仕事中はペンネームで呼ばれてましたから……、私が入社して、半年経った頃だったと思います。優一郎さんから、名前を教えて下さいって言われて、それからです」
あの時も、今と同じ、穏やかな風が窓から吹き込んでいた。
春だったと思う。桃色の花が咲いていて、窓から見ることができた。
優一郎とMUGENの打ち合わせ場所はいつも決まっていて、窓際にあった大きめの机を使っていた。パーテーションもあり、外からは見えないようになっていた。
漫画のラフをチェックし終わった時だった。
――そろそろ僕はあなたに告白がしたいので、MUGENさんの本当の名前を教えてもらっていいですか。
突然のことで、MUGENは手にしていた鉛筆を落としたのも、覚えている。ころりと転がり落ちた鉛筆を優一郎が拾い、目を細めながらMUGENに渡した。
――僕は漫画家のあなたに告白したいわけではないですからね。
いくらパーテーションがあるとはいえ、会話の内容が聞かれてしまっては困る。
そう思った睦は、ノートと筆箱を鞄に突っ込み、優一郎に外に出て話をしようと提案した。二人で外に出ることも、それまで度々あったので、すれ違った開発陣の人たちには「また取材ですか、いってらっしゃい」と言われ、疑われることはなかった。
近くのカフェに入り、名前を伝えた。旧姓は明智だった。
「なあんだ、やっぱり優さんからだったか。そっか、そっか。やるなあ、あの男は」
杏奈はうんうん、と頷きながらムゲンの話を聞く。とても楽しそうだった。
「あ、ということは、あなたたちが度々行っていた取材出張は、デートも兼ねていたというわけ」
「そうだったと思います。でも、仕事は仕事で、取材中は、いつもMUGENさんでした」
「一番最初はどこだったの?」
「九州でした。遠いから、泊まりで」
「わお、そうなの」
「必要があったからです」
杏奈がふふふ、と笑うので、気恥ずかしくなる。
取材中はMUGENさんと呼び、仕事が終わると睦ちゃんになった。
七歳も年上でいいですか、と聞かれたことも思い出した。嫌ではないですかと。
――投稿サイトでメッセージのやりとりをした時、僕はあなたは自分と同じくらいの年齢だと勝手に思い込んでいました。女性とも男性とも受け取れる名前でしたので、女性だと知った時は驚きました。あなたはあまり気持ちを顔に出しませんが、心はずっと広い方だと思っています。
ベッドに入ってから、そう言われたのも覚えている。
――別に歳のことは気にしてないです。優一郎さんはシナリオ担当なのに、送られてきたメッセージがところどころ、変なところで平仮名だったので、パソコンが苦手なのかなって思っていました。きっとお茶目な人なんだろうなと思っていました。
そう返したのも覚えている。帰りの新幹線で酒を飲み始めた時は、びっくりした。
いつも素のままの人なんだろうな、とその時は思った。そうでなければ、職場で告白したいなんて言わないだろう。
「近場でデートとかしなかったの」
「お互いのアパートに行って仕事の続きをすることが多かったです」
嘘ではなかった。本当に、ずっと、二人で仕事をしていた時がある。連載に向けて、何度も二人で打ち合わせをした。最初の頃は優一郎だけで考えていたが、MUGENの考えも取り入れたいという話になり初め、結局二人で考えることが増えていた。深夜までオフィスに残っていると怒られるので、どちらかのアパートに逃げて仕事の続きをしていた。お腹が空いたら適当にコンビニの弁当を買って済ませ、続きをする。限界が来たら気絶するかのように二人でベッドに入って朝まで寝る。起きたら優一郎はオフィスに向かい、睦はそのままアパートで原稿。その繰り返しだった。仕事をするのは苦痛ではなかった。むしろ、好きでそうしていた。優一郎もそうだった。
「それで籍入れて、私のところに事務がびっくりしてやって来たというわけね」
「事務から聞いたのですか」
「そうよ。そこからは私も知っているわ。杏奈さん、杏奈さん、大変ですって、大騒ぎだったわ。睦さんが明智から万道になるって。でも、これは事務と私だけの秘密にしたの。だって、あなたたちの指に何もなかったから。そういうことかと思って」
ムゲンは無意識に左手の薬指を撫でた。
それまで仕事で慌ただしくて、なかなか結婚の準備ができなかったが、ある程度落ち着いた頃になってようやく籍を入れた。別に名字が変わっても、職場ではずっとMUGENだったから、仕事では大きな変化はなかった。
仕事に行く前に外し、帰ったら着ける。そうしようと、優一郎と決めた。今のゲームの開発が落ち着いたら、皆に言おう。そう決めていた。
ちょうど『魔術師は万の道を往く』の企画が始まった頃だった。
ムゲンは重たい瞼を持ち上げた。白いシーツが視界に入った。透明なチューブが隣にある。ぽたぽたと液体が垂れ、チューブの中を伝っていた。
強い目眩に襲われて、倒れたかと思ったが、丸椅子に座っていた。
目の前にはベッドがあり、杏奈が寝ていた。窓が開いていて、心地よい風が吹いてくる。
病院にいた。ここは病室だった。杏奈は管に繋がれて寝ている。
舌の上で自分の名前を転がした。
睦。そうだ、自分は万道睦。自分の中に名前が戻ってきたような感覚がする。MUGENの記憶の隙間に、万道睦の記憶が入っていくような感覚だ。
ムゲンの手には気がついたら花束があった。名前は分からない。ピンクの大きな花だった。傍から見れば杏奈のお見舞いに来ているような格好である。着ているのは異世界鉄道会社の制服だが。
杏奈が薄っすらと目を開け、ムゲンを見た。
「睦ちゃん、来てくれたのね、ごめんね」
何故謝られたのかよく分からないので、仕事ですから、と答える。ムゲンとして。
「ああ、そうだったね。お忘れ物を捜しに……。私、長い夢を見ていた気がする。大きな大きな国にいて、王様の隣にいて」
「夢ではありません。羽鳥様は、マリアとして転生していました」
「そうだったかしら。頭がぼうっとしてて」
「記憶が混ざって混乱するのはよくある事です。気にしないでください」
杏奈はありがとうと微笑みを見せた。
「睦ちゃんが来てくれるなんて、思ってなかった。でも、大変な時に、ごめんね」
大変な時とは、どういうことなのか。
ムゲンは名前と共に戻ってきた記憶を漁る。ここは睦としてそれっぽくなるように返した。
「いえ……、だいたいのことは兄がしてくれているので……」
睦には歳の離れた兄がいた。そうだった。確か、優一郎が死んだ時、何もできなかった睦に変わって色々としてくれた。
「そう。それは良かった。逃げようとする慧斗を引っ張り出して、裁判所まで連れて行って、私は病気で倒れちゃったから……。あの人、訴状を無視して、自殺するつもりだったらしくてね。死ぬ前で良かったわ」
杏奈はふう、と溜息をついた。
兄は、会社に損害賠償を請求した方がいいと判断し、起訴した。睦は証拠になるものを出してくれるだけでいい、と言って、後は全部、兄がやってくれたのだ。
ゲームプラネットのゲームを睦に貸してくれた兄は、どこまでも優しかった。兄がいなければ、睦は漫画家にもならなかったし、優一郎とも出会えなかった。人生の恩人の一人でもある、自分に似たあまり表情のない兄を思い出す。
「あの、どこが悪いんですか。私、入院したことしか聞いてなくて」
「ここ」
杏奈は下腹部をぽんぽんと叩いた。
「全部、取るの。手術は一週間後よ」
「そう……、ですか」
こういう時、どんな言葉を使うべきなのだろう。ムゲンは分からなくて俯いた。そんなムゲンの反応を見た杏奈は、ふふ、と笑った。
「いいのよ。どうせ、私はもう結婚なんてできないし。ねえ、せっかくだし、ちょっとお話しましょうよ。そうねえ。あ、そうだ。睦ちゃんと優さんの話。聞かせてよ。あなたたち、いつの間にか結婚してたから。私に教えてくれなかったじゃない。寝たきりの私に、面白い話を聞かせて」
そうだった。杏奈は、優一郎のことを優さんと呼んでいた。
自分と優一郎の話をしてくれと言われて、ムゲンは困惑する。
「そんなの聞いても……、面白くないかもしれません」
「面白くなくても、聞かせて」
ムゲンは諦めて、睦の記憶を辿る。
自分の記憶の中に、杏奈のお忘れ物もあるのではないかと思って。
「いつから付き合ってたの、あなたたち。社員の誰も気付いてなかったから分からないの」
「仕事中はペンネームで呼ばれてましたから……、私が入社して、半年経った頃だったと思います。優一郎さんから、名前を教えて下さいって言われて、それからです」
あの時も、今と同じ、穏やかな風が窓から吹き込んでいた。
春だったと思う。桃色の花が咲いていて、窓から見ることができた。
優一郎とMUGENの打ち合わせ場所はいつも決まっていて、窓際にあった大きめの机を使っていた。パーテーションもあり、外からは見えないようになっていた。
漫画のラフをチェックし終わった時だった。
――そろそろ僕はあなたに告白がしたいので、MUGENさんの本当の名前を教えてもらっていいですか。
突然のことで、MUGENは手にしていた鉛筆を落としたのも、覚えている。ころりと転がり落ちた鉛筆を優一郎が拾い、目を細めながらMUGENに渡した。
――僕は漫画家のあなたに告白したいわけではないですからね。
いくらパーテーションがあるとはいえ、会話の内容が聞かれてしまっては困る。
そう思った睦は、ノートと筆箱を鞄に突っ込み、優一郎に外に出て話をしようと提案した。二人で外に出ることも、それまで度々あったので、すれ違った開発陣の人たちには「また取材ですか、いってらっしゃい」と言われ、疑われることはなかった。
近くのカフェに入り、名前を伝えた。旧姓は明智だった。
「なあんだ、やっぱり優さんからだったか。そっか、そっか。やるなあ、あの男は」
杏奈はうんうん、と頷きながらムゲンの話を聞く。とても楽しそうだった。
「あ、ということは、あなたたちが度々行っていた取材出張は、デートも兼ねていたというわけ」
「そうだったと思います。でも、仕事は仕事で、取材中は、いつもMUGENさんでした」
「一番最初はどこだったの?」
「九州でした。遠いから、泊まりで」
「わお、そうなの」
「必要があったからです」
杏奈がふふふ、と笑うので、気恥ずかしくなる。
取材中はMUGENさんと呼び、仕事が終わると睦ちゃんになった。
七歳も年上でいいですか、と聞かれたことも思い出した。嫌ではないですかと。
――投稿サイトでメッセージのやりとりをした時、僕はあなたは自分と同じくらいの年齢だと勝手に思い込んでいました。女性とも男性とも受け取れる名前でしたので、女性だと知った時は驚きました。あなたはあまり気持ちを顔に出しませんが、心はずっと広い方だと思っています。
ベッドに入ってから、そう言われたのも覚えている。
――別に歳のことは気にしてないです。優一郎さんはシナリオ担当なのに、送られてきたメッセージがところどころ、変なところで平仮名だったので、パソコンが苦手なのかなって思っていました。きっとお茶目な人なんだろうなと思っていました。
そう返したのも覚えている。帰りの新幹線で酒を飲み始めた時は、びっくりした。
いつも素のままの人なんだろうな、とその時は思った。そうでなければ、職場で告白したいなんて言わないだろう。
「近場でデートとかしなかったの」
「お互いのアパートに行って仕事の続きをすることが多かったです」
嘘ではなかった。本当に、ずっと、二人で仕事をしていた時がある。連載に向けて、何度も二人で打ち合わせをした。最初の頃は優一郎だけで考えていたが、MUGENの考えも取り入れたいという話になり初め、結局二人で考えることが増えていた。深夜までオフィスに残っていると怒られるので、どちらかのアパートに逃げて仕事の続きをしていた。お腹が空いたら適当にコンビニの弁当を買って済ませ、続きをする。限界が来たら気絶するかのように二人でベッドに入って朝まで寝る。起きたら優一郎はオフィスに向かい、睦はそのままアパートで原稿。その繰り返しだった。仕事をするのは苦痛ではなかった。むしろ、好きでそうしていた。優一郎もそうだった。
「それで籍入れて、私のところに事務がびっくりしてやって来たというわけね」
「事務から聞いたのですか」
「そうよ。そこからは私も知っているわ。杏奈さん、杏奈さん、大変ですって、大騒ぎだったわ。睦さんが明智から万道になるって。でも、これは事務と私だけの秘密にしたの。だって、あなたたちの指に何もなかったから。そういうことかと思って」
ムゲンは無意識に左手の薬指を撫でた。
それまで仕事で慌ただしくて、なかなか結婚の準備ができなかったが、ある程度落ち着いた頃になってようやく籍を入れた。別に名字が変わっても、職場ではずっとMUGENだったから、仕事では大きな変化はなかった。
仕事に行く前に外し、帰ったら着ける。そうしようと、優一郎と決めた。今のゲームの開発が落ち着いたら、皆に言おう。そう決めていた。
ちょうど『魔術師は万の道を往く』の企画が始まった頃だった。