5章 神を忘れた聖女

 約束の時間の前、星間ちゃんが寝ている間、バンドウはムゲンを抱きしめ、踏切には絶対入らないでくださいね、と何度も言い聞かせた。ムゲンが出発する前、星間ちゃんが泣き始める前に必ずする新しい儀式だった。
 これまでの依頼で何度か踏切と出会うことはあったが、ムゲンが引っ張られそうになるのは、カンカンカンと鳴る踏切だった。列車が目の前を通る直前に、一番強い衝動に襲われた。だが、ムゲンもその衝動に負けないよう、瞳を閉じ、耳を塞ぎ、なんとかやり過ごしていた。客には心配されるが、踏切の中に入って死ぬよりは良かった。列車が過ぎ去った後、酷く安心する。今回も死なずに済んだ、と。バンドウに踏切に入らないでくださいと何度も呪文のように言われているから出来ていることなのかもしれない。
 ムゲンはマリアがバンドウのことを少し気にしていた様子を伝えると、バンドウは首を傾げた。
「僕はあまりピンと来ませんでしたけど。慧斗の時は、なんですかね、言葉にしにくいんですけど、雰囲気みたいなもので、知っていると思ったんです。一緒にプロットを練る仲だったからなのかもしれません。でも、マリア様には、特別何も感じませんでした」
「そう。私も、特に何も思わなかった。向こうに戻ったら、分かるかもしれないけれど。でも、ちょっとだけ、期待してる。ちょっとだけ、だけど……ゲームプラネットって聞いたら、期待してしまう」
「僕も、ちょっとだけ。星間ちゃんさんが起きる前に、行ってください」
 バンドウは腕時計で時間を確認し、ムゲンの背中を三度軽く叩いた。
「行ってきます。お忘れ物センター、お願いします。星間ちゃんさんのこともあると思うけど、仕事はして」
「はい。おまかせを」
 僅かに心配はするが、今の星間ちゃんなら大丈夫だろうと言い聞かせてセンターから出る。
 マリアはムゲンに深々と頭を下げ、よろしくお願いしますと挨拶をした。本当に礼儀正しい人である。ムゲンもつられて深々と頭を下げた。
 エスカレーターに乗り、三階、10番乗り場を目指していると、マリアは大きなポスターに目を向けた。
 手の甲にある桃色の花と同じものが、ポスターに写っていた。たっぷりの桃色の花を蓄える木。懐かしいのに、名前が分からない。日本を代表する花だというのは分かっているのに。
「なんだか懐かしい。わたくし、あの花、大好きだった気がしますわ。確か……春に咲くのですよね」
「すみません。私、記憶がなくて」
「あら、ごめんなさい。でも、いい花です。何となくですが、そう思います」
 春と聞いて、ムゲンは、MUGENの頃の記憶を辿る。
 春。多分、MUGENが一番好きだった季節だ。そんな気がする。
「春に戻りたいわね」
「マリア様が望まれる地点まで戻れますよ。ですから、春が良ければ、春がいいと望んでおいてください」
「不思議なこと。前世に戻れるって。誰がそんなサービスを作られたの?」
 優一郎さんだ、とは言えなかった。正確には優一郎なのだが、優一郎の設定上、別の神が存在していたから、そちらを伝える。
「この世界を管理する神です。異世界鉄道会社も、その神が望まれたので作られたそうです」
「そうなの。そんな偉大な神様がいらっしゃるのね。知らなかったわ。わたくしの世界の神よりも位が高いのでしょうね……」
「マリア様はどういった神をお捜しなのですか?」
「そうねえ。新しい世界を次々創る、創造的な神がいいわ。前に仕えていた神も、創造を得意としていたの」
 マリアは仕えていた神を思い出しているのか、天井を見上げていた。
 10番乗り場に到着した時には、特急チキュウは既にホームに着いていて、清掃員が作業中だった。
 爆弾がお忘れ物センターに運ばれた事案以降、お弁当の残りといったゴミみたいなものや、危険物はセンターに届くことはなくなった。バンドウのメールを受け取った本部から、委託会社に指導が行ったのだろう。
 チキュウから出てきた清掃員がムゲンに気付き、帽子を軽く上げて挨拶をした。手には小さな袋があった。ムゲンも小さく会釈する。
 乗車案内のアナウンスが流れ、ムゲンとマリアはチキュウに乗車した。
 すぐに発車し、ぐんぐんと加速する。やはり特急チキュウの加速速度は他の特急よりもずば抜けていた。
 いつか、優一郎と、リニアモーターカーの話をしたことがある。あれが走るようになれば、もっと色んなところに行けて、色んなものを見れるようになるかもしれない、と話していたし、近未来の乗り物も考えたらとても楽しそうだと言っていた。優一郎の中にはいつだって物語があった。
 体にかかる圧がなくなり、いつものように客室乗務員がワゴンを持って歩いてくる。
 熱いお茶を二つ頼み、受け取る。マリアは窓側に座っていた。
 星々を眺め、素敵ねぇ、と穏やかにつぶやく。ムゲンは下車後の質問の材料集めに入った。
「マリア様は、前の国ではどんなことをしていたのですか。神に仕えるだけだったのですか」
「いいえ。国王の右腕としても務めを果たしていましたわ。マスタング王というのですが」
 ムゲンははっとしてマリアの顔を見た。
 マスタング王は、バンドウが担当した客だ。そして、その王は、前世では、ハッピープラネットの社長だったと聞いている。名前は、速水慧斗。寝台特急ハヤミと同じ名字。優一郎の古い友人。マスタング王の右腕ということは――。
 落ち着け、と言い聞かせながらムゲンはお茶を口に含み、乾いた唇を濡らした。
「そうですか。国は平和なところでしたか」
「いいえ。今は、ちょっと大変です。マスタング王が国外追放となってしまったのですが……わたくしが追放したのです。彼に、もう国は任せられないと判断しました。わたくしの他に、左大臣がおりまして、彼は偉大な預言者でもありました。彼から、神の言葉を聞いたのです。この国はもう駄目だと。今まで仕えていた神も、左大臣も、いなくなってしまいました。国のことは民に任せ、わたくしは新しい神を捜そうと思ったわけです……」
 そこまで話をして、マリアはうとうとし始めた。お茶が零れそうになり、ムゲンはマリアの手から紙コップを取って座席についている机の上に置いた。
 ムゲンも背もたれに身を預け、思い出す。
 MUGENは、ハッピープラネットの後の様子を知らない。
 優一郎がいなくなってしまい、自分の漫画のプロットを考えてくれる人がいなくなり、会社が倒産する前に早々と退職した。だから、その後の会社のことは分からなかった。
 でも、退職後のMUGENに良くしてくれる人が一人だけいた。杏奈だった。
 ――私、絶対、優一郎さんの創った世界を守りますから。また戻ってきて。
 MUGENの手を強く握り、杏奈はそう言ってくれた。
 それはいつのことだったのかは忘れてしまったが、その言葉だけはMUGENの記憶にあった。
 下車のアナウンスがかかり、ムゲンはマリアの手を取る。
 泣きたかった。
 真っ白の世界に降り立ち、ムゲンはぼんやりとするマリアに語りかける。
「あなたは、ハッピープラネットの創立者の一人で、秘書でしたね」
 頷く。
 銀縁だった眼鏡が、黒縁に変わる。
「あなたは、速水慧斗と万道優一郎のご友人でしたよね」
 たるんだ顔に、ほんの僅かだけ、ハリが戻った。しかし、顔色は悪い。
「同人活動をするだけのアマチュア漫画家に、声をかけてくれましたね」
 純白の修道服から、白色のパジャマに変わった。
 ムゲンは喉が震えるのを感じていた。仕事中だと言い聞かせて我慢する。
「あなたは、万道優一郎の世界を守ると、私に言ってくれましたね」
 マリアの右腕に、名前と年齢が印刷された腕輪が現れる。バンドウと同じく、三十五と印刷されていた。
 ムゲンはマリアの手を取って、マリアの目の前に持って行った。
「読んでください。あなたの名前です。私は、あなたを知っています」
「――羽鳥杏奈。そうです、私は羽鳥杏奈……あなたは……」
 杏奈はムゲンの顔を見る。ムゲンは杏奈の手を強く握った。
「教えてください、私の本当の名前を。羽鳥様は私の名前を知っているはずです。私は、私は誰ですか」
 杏奈は、ムゲンの瞳を見て、くしゃりと顔を歪めた。
「睦ちゃん……、万道睦ちゃん……、会いたかった……」
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