3章 色彩を忘れた魔女

「でも、私、描けないと思った時、自分の絵のほとんどを捨ててしまいました。会社に行けばデータがあるとは思うんですけど、もうあそこには行きたくないし」
「いえ、もっと前です。野村様はサービスを受けられる時、動機を探していたと仰っていました。絵を描きはじめる動機となったものを探しましょう。そこにあると思います。野村様はMUGENの漫画が好きと言いましたが、それは動機とは違うような気がします。それよりも前に、絵は描いていらっしゃったのですか」
「まあ、絵は、小さい頃から……」
 いつから描き始めていたのだろう。
 はっきりとした記憶がなかった。
 萌はしばらく遠い記憶の中に自分の絵を探した。そして、一つだけ思い当たるものがあり、ある本棚から一気に本を抜き始めた。
「どうしましたか」
「この、奥に、ある気がする……!」
 本棚の向こうを見ると、クローゼットの扉が見えた。しかし、本棚が邪魔をして開けることができなくなっていた。本棚を動かすために、本を抜いているのだ。
 ムゲンも萌を手伝う。大判の漫画や画集をどんどんと本棚から抜き取り、床に積み上げていく。
 本棚の板は本の重みで歪んでいた。それだけの量の本が入っていた。
 しかし、これらの本は、絵を描きたいと思わせたものではない。これらは、描きたいものを上手く描くための資料として買ったものだ。中には絵を描くための方法が書かれた参考書もあった。萌がどれだけ努力してきたかが分かる本の山だった。
 本棚がすっかり空になったところで、二人でズルズルと本棚を動かし、クローゼットを開けられるようにする。
 クローゼットはウォークインクローゼットとなっており、入り口手前にあったスイッチで電気を点ける。
「私が今まで作ったり描いたりしたもの、全部、捨てずに残してたんです」
 萌は薄い布の鞄を六つ取り出す。鞄の表面には、マジックで絵が描かれてあるのと『いちねんせいのおもいで』『二年生の思い出』などといったタイトルが書かれていた。
「小学一年生から六年生のうちに学校の授業で制作したものです。あとは……」
 クローゼットの隅にある引き出しから、ごっそり何かを出した。
 スケッチブックと、少し大きめの箱だった。
「これは幼稚園……かな……。これはその時使ってたお道具箱です。あ、あった。私が小さい頃使ってたクレヨンです」
 出したのは、紙箱に入ったクレヨンだった。どれもボキボキに折れてしまったり、短くなったりしているが、それだけ使い込んだことが分かる。
「もう、これ以前は記憶にないです。このへんとか、いつ描いたのか、もう分かりません」
「そうですか。記憶がないほどの頃から、野村様は描いて、描き続けてきたのですか」
「そう、だと思います。私は、ずっと描いてました。描くのが楽しくて、描きたいのがどんどん出てきて、それを描き続けていました。親に褒められたのも嬉しかったし、友達にいつも描いて描いてと言われるのも嬉しかった……。いつからか、技術的なことを学びだして、それから、考えも少しずつ変わってきて。売れる絵をたくさん描かなければ、と考えるようになってしまったんです」
 そして、ソーシャルゲームのイラストの大量生産に、参ってしまったのだ。
 萌は引き出しの奥から、ぼろぼろのスケッチブックを出した。表紙には可愛いクマのイラストが印刷されており『おえかきちょう』と書かれてあった。
 開くと、もう何を描いているか分からない、ぐちゃぐちゃの絵――線が描かれたページがたくさん出てくる。
 スケッチブックの裏表紙を見ると『萌、1歳、はじめてのおえかき』と書かれてあった。萌の親が記録したものだろう。
 ぐちゃぐちゃの、何を描いているかすら分からないこのおえかきちょうは、萌が純粋に描きたいと思って描いたものがたくさんつまっていた。形を取ることができなくても、上手く描けなくても、何を描いているのか分からなくても、描きたいと思った。そして線を引いた。それが描くことのはじまりだった。
「見つかりましたね、野村様のお忘れ物」
「はい」
 描きたいものを自由に描いていた頃の自分。萌はおえかきちょうを抱きしめ、微笑んだ。
 ムゲンも、この時、はじめて笑った。


 床に積み上げた本を本棚に戻し終わった時、ちょうど特急に乗る時間となった。
 特急タナバタに乗り込み、予約した座席に向かう。
 萌は座った途端、おえかきちょうを抱きしめたまま眠りについてしまった。
 萌はこれからアンジェリカに戻る。一度取り戻した記憶はなくならないはずだ。描けなくなった時、アンジェリカは、胸に抱きしめるおえかきちょうを見て思い出すだろう。描きたいという衝動を。
 ムゲンも帰ったら、ほったらかしにしていたポスター案をなんとかしなければと頭の中で仕事のスケジュールを組み立てる。あの案を宣伝部に送り、宣伝部にデジタルで清書してもらい、印刷してもらわなければ完成しない。パソコンを使う作業だから、バンドウには任せられなかった。
「こんにちは、ムゲンさん。お疲れ様です。今日はいい顔をしていますね」
「こんにちはハナビさん……、まあ、今日は」
「そうですか。何か飲まれますか?」
 甘いジュースを頼むと、オレンジジュースが出てきた。
 ハナビはこの特急に乗り続けて二十年だという。ということは、お忘れ物センターの先輩たちを知っているのかと思い、聞いてみることにした。
 すると、ハナビは残念そうな顔をした。
「一人目のハラダさんは、この特急タナバタのトイレで亡くなりました。お勤めになられて五年目のことです。その前から、ずっと、特急に乗ると死にたくなる、と仰っていましたが、まさかトイレで亡くなるなんて思っておらず、私も気付けなかったのです。その時、サービス利用者の方が隣におられなかったので、死にたいという衝動に負けたのでしょう。手の中には、注射器がありました。向こうで入手したんでしょうね」
「二人目……バンドウさんの先輩はどんな人でしたか」
「オチさんですね。オチさんは不思議なことを仰っておりましたよ。僕らは会社に呪われてるとか、僕らは会社に記憶を奪われたとか、僕らは会社の奴隷だ、とか。まあ、そう考えるのも分かりますけどね。ハラダさんも亡くなられましたし。私も薬で死にたくなるのは、失った記憶が原因だと思ってますし、二十年もここに居続けるのもちょっと変だなとは思ってますから。嫌ではないんですけどね。毎日ビール飲めるし。彼のことはバンドウさんからお聞きしました。残念です」
「そうですか。教えてくれて、ありがとうございます」
「いえいえ。では、良い旅を」
 ムゲンはオレンジジュースを一口飲む。甘いが、酸味が強かった。
 会社に呪われている。会社に記憶を奪われている。会社の奴隷。
 そんなこと考えたことなかった。
 隣で眠っている萌を見る。萌は、会社に認められることがなかった。描きたくなくなるほど描かされ、そして命を断つことによって、逃げた。
 嫌になるほど働かされる。それは、奴隷という意味なのだろうか。
 バンドウの先輩が言うことだ。このことは、バンドウは既に知っているのだろう。バンドウが仕事から逃げているのは、二十四時間働くことを強制する会社に抗っているせいなのだろうか。それとも、もっと何か別のものから逃げているのだろうか。
 仕事ができないわけではないのに、いい加減に手を抜く時の方が多い。その理由はまだよく分からなかった。
 ムゲンはお忘れ物センターの仕事は嫌いではない。むしろ、今回のように、依頼主が望むものを見つけた時、ムゲンもまた、喜びに包まれた。お忘れ物を渡すことが出来た時、良かった、と思える自分がいる。
 バンドウはそうは思わないのだろうか。
 酸っぱいオレンジジュースを飲み干し、ムゲンは紙コップを両手で包み、ぐちゃりと潰した。
 何故自分たちは死の衝動に駆られるのだろう。自分も、バンドウも、ハナビも、お忘れ物センターの先輩二人も。
 漫画家だった自分を取り戻したせいか、余計に、ムゲンは自分の過去が知りたくなってしまった。一緒に働くバンドウのあの笑顔の裏にある過去も。
 懐かしさは、自分たちをどこまで導いてくれるのだろう。先輩と同じように、死しかないのだろうか。
 そこまで考えると、疲労を感じてしまい、ムゲンは椅子に深く座り、瞼を閉じた。
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