3章 色彩を忘れた魔女

 萌はすぐにここがどこか分かったようで、ああ、と声を漏らした。
「私の部屋、です。ここ。全部、私のお気に入りの漫画とか、画集です。懐かしい。どれが一番好きだったかな」
 ムゲンは萌の後ろで部屋をぐるりと見渡す。元々は広々とした部屋のようだが、大量の本に囲まれているせいか窮屈に感じる。
 他にある家具といえば、学習机、ローテーブル、ベッドくらいだった。学習机の上には、開きっぱなしのノートが置いてある。
 ノートといっても学習用のノートではなく、無地のノートだった。萌の描きかけの絵がそのまま残されていた。
 そこに描かれていたキャラクターが気になったが、萌は本棚に入れられた漫画や画集をぱらぱらとめくっているので、ムゲンも一緒になってそれらの本を見ることにする。
 漫画や画集だけでなく、小説も入っていた。いくつか知っていそうで知らないタイトルがあった。
 もっとムゲンが気になったのは、少年漫画や少女漫画の方だった。一冊だけ適当に手に取ってめくってみる。
 生き生きと描かれたキャラクターを見ていると、ムゲンは胸の奥が温かくなるのを感じた。懐かしさが襲ってくる。
 あまりにも強い感覚だったので、一瞬立ちくらみがして、ムゲンは漫画をすぐに戻した。
 萌は画集の方に夢中になっていて、ムゲンの様子に気付いていないようだった。
 ムゲンは試しに画集のほうに手を伸ばしたが、漫画ほど強烈な懐かしさを感じなかった。
 息を整えて、もう一度、漫画の方に手をのばす。今度は少女漫画だった。
 一ページ目を開くと、きらきらとした女の子が目に飛び込んでくる。
 知っている――、これらがどう描かれているか、私は知っている。
 ムゲンは一生懸命思い出そうとしたが、記憶を引き出すことができなかった。なのに、漫画がどう描かれたか知っている気がする。
 自分は魔法のクレヨンを持った時、描けると思った。
 ポスターのデザインをしている時、色んな案が浮かんで、描かなければと思った。
 漫画の描き方も知っているような気がする。
 自分は、漫画を描いたことがあるのだろうか。
 少女漫画を戻し、他の漫画にも手を伸ばす。読むことも好きだったような気がする。様々な作家の本があった。可愛い少女を描くのが得意な作家もいれば、かっこいい男性を描くのが得意な作家もいた。
 萌は、様々な本を買っていたようである。中には同性愛をテーマにした作品もあったし、成人向けの本もあった。
 ムゲンと萌は黙って本の中にある絵を見ていた。
 別の本棚の本も見てみようと思い、ムゲンは隣の本棚の前に移動した。
 本の背表紙が気になり、萌に声をかける。
「原作ってなんですか」
「原作? お話の元を考えた人のことだけど。これはハッピープラネットが出したゲームのコミカライズだから、ハッピープラネット原作ってなってます。ここの本棚はほぼハピプラの本ですね」
「そうですか。ありがとうございます。捜索のお邪魔をしました、すみません」
「大丈夫です。ムゲンさんも漫画は好きですか?」
「好き……だったような気がしています。分かりません。記憶がありませんから」
「今は?」
「今ですか。それも、よく分かりません。でも、私は、読むより、描きたいと……何となく思います……」
 今か、とムゲンは手の中にある本を触る。
 今も、描きたいのかもしれない。またペンを持てば、描き出してしまうかも、とは思った。
 ムゲンは本を開く。
 そして、印刷された絵を見て、体がふらりとした。
 よろめき、ムゲンは床にぺたんと座ってしまう。手から漫画が落ちた。ばさりという音に萌ははっと画集から顔を上げた。
「えっ、ムゲンさん!? 大丈夫ですか!?」
「何でもありません。お気になさらず」
 ムゲンは悟られないように首を横に振って、何ともないように見せた。萌がまた画集に戻ったところで、ムゲンは恐る恐る落とした本を拾い、もう一度ページを見た。
 知っている。一言一句、ストーリーも全部知っている気がする。
 それはハッピープラネットが出した乙女ゲームを原作とした漫画だった。王子と令嬢の恋物語である。令嬢は王子と結婚できるはずがないと思いながらも、王子と恋仲になる。
 ムゲンはざっと内容を読んだ。全部知っているような気がする。あるところで手が止まった。
 王子が令嬢に言う。
『僕、疲れました。あなたにぎゅうっとしてほしいです』
 最近どこかで聞いたセリフだな、と思った。
 王子は自分の身分に疲れて令嬢に癒やしを求めていた。
『それだけでいいの』
 令嬢が王子に言う。王子はたまらなくなって、言うのだ。
『キスもしたいです』
 この展開、やはり知っているような気がする。
 表紙をもう一度見て、そして、息を呑んだ。
「あ、あの……、この作家さんは……」
 ムゲンは震える声で萌を呼んだ。萌はすぐに画集から視線を上げたが、ムゲンがあまりにも青い顔をしているので驚く。
「ムゲンさん、体調悪いんですか? 顔、青いですよ」
「いえ、体調が悪いわけではないです。それより、これは誰ですか」
 ムゲンは表紙に印刷されている作家名を指さした。
「あ、ああ! これ、MUGENさんの漫画! そうだ、そうだ、私、この作家さんの漫画が大好きだったんです!」
「ムゲンという作家なんですか」
「そうですけど……あっ、ムゲンさんと名前が一緒ですね! あれっ、というか、本人?」
 えーっ、と萌が大きな声を出す。
 何のことか分からず、ムゲンは説明を求めた。
「えっ、本人じゃない? 顔も一緒ですよ!?」
「そうなのですか。では、私とあなたは、どこで出会ったのですか。この漫画家は、どういった漫画家なんですか。教えて下さい。私は、この作家を知っている気がします」
「いや、だから、ムゲンさんがMUGENさんなんじゃないのって思うんだけど……、えっと、MUGENさんは多分私を知らないけれど、私はずっとMUGENさんに憧れていました。MUGENさんは、ハピプラ所属の漫画家さんで、ハピプラのほとんどのコミカライズを担当していたと思います。ゲームデザインも一部担当していました。だから、その本棚に入っている漫画はほとんどMUGENさんの本です。私、MUGENさんの描く漫画、ハピプラのゲームのストーリーがとても好きだったんです」
 ムゲンは再度本棚を見る。どれも背表紙にMUGENという作家名が印字されていた。
 もちろん原作はハッピープラネットである。
 ――知っている。私が描いた。
 懐かしさが、徐々に現実になっていく。失った記憶が戻ってくるような感覚に襲われる。自分が描いた。そうだ、私が描いた。目の前にある漫画は、自分が描いたのだ。ムゲンは漫画たちの背表紙を撫でた。
「……でも、私はストーリーは作っていませんでした。誰か……、多分、ハッピープラネットの誰かが、いつも考えてくれていました。そしてその誰かは、私の絵を、いつも褒めてくれていた気がしますが、誰なのかは、思い出せません」
「うーん、そこまでは私も分からないですね。やっぱり、ムゲンさんはMUGENさんだったんですね。あーすっきりした!」
 でもそれは、本名ではない。ムゲンは漫画家としての自分を見つけることはできたが、本名までは分からなかった。
「MUGENさん、どんどん漫画出してて、凄かったんです。私、MUGENさんに憧れて、ハッピープラネットに入社したんですよ。イラストレーターとして、でしたけどね。社内で見かけた時、美人でかっこよくて、恐れ多くて声がかけれなかったんです」
 その漫画家が目の前に鉄道会社の制服を着ていて、前世お忘れ物捜索サービスを提供している。萌は、何故MUGENが今ここにいるのかが気になっているようだったが、ムゲンは聞かれる前に言った。
「そうですか。すみません、教えてくれてありがとうございました。私のことはもういいので、野村様のお忘れ物の捜索を再開しましょう」
 萌は頷き、手にしていた画集を本棚に戻す。ムゲンも自分がかつて描いた漫画を手放した。
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