1章 推しを忘れた令嬢
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久しぶりに飲むコーラは美味しかった。
ペットボトルの蓋を開けた瞬間に鳴る音は、わけもなくノスタルジックな気持ちにさせる。何故好きなのかは分からないが、指が勝手にコーラを選んでいた。
金髪碧眼の駅員が、職員用休憩室の自販機で買ったコーラを一気飲みしていた。二十代半ばの若い職員である。顔の彫りは深く、鼻は高い。背も高く、駅員の中では体格は良い方だ。名札には無表情の顔写真と共に『異世界鉄道会社、星の間中央駅、総合案内係、ジョー』と文字が印刷されていた。ジャケットはパイプ椅子に乱雑に脱ぎ捨てられていた。白シャツのボタンは上二つが開けられている。
盛大にゲップをし、一人で笑ってしまう。はは、は……、と次第に笑いは薄れていった。共に笑う人など、ここにはいなかった。
ジョーは空になったペットボトルをゴミ箱に投げ捨てた。腕時計を見る。休憩時間はたっぷりとあるが、またあの総合案内のおばさんのところに戻らないといけないのかと思うと、億劫になる。あのおばさん駅員はジョーにやたら厳しく接するため、時間厳守で行動をしなければならなかった。一分でも遅れるとジョーに雷が落ちる。時たま、巨大な時空嵐で全線停止になることがあるが、それ以上に激しい雷雨のような叱咤がジョーに降り掛かってくるのだ。「その時間の遅れが全てを狂わせるのよ、私たちは一分一秒たりとも遅れてはいけないの」が彼女のお決まり文句だ。
駅員は皆、腕時計を左腕につけている。これは、個人で購入したものではなく、会社から支給されたものだ。時間を守れという会社からの命令を意味する。ジョーにとっては反吐が出るような言葉だ。耳にタコができてしまうかと思った。もう少しゆとりがあってもいいじゃないかといつも悪態をつく。会社の方針に納得ができない自分は、何故この会社に務めているのだろうかと思うのだが、辞めることもできなかった。
小柄かつ、黒髪のっぺり顔の駅員は皆注意をしなければならないというのは、ジョーの心の中にあるジョーだけの決まりだった。理由はよく分からないが、あの小さな黒髪の駅員たちは、皆かっちりとしている。一分たりとも遅刻は許さないし、時間通り動くことを美とする奴らだった。常に時間を気にして行動する。それ故か分からないが、運転手には黒髪のっぺり顔が選ばれることが多かった。あのおばさんも運転手にでもなれば良かったのにと舌を鳴らす。やっぱこういうオレは総合案内担当で良かったのさ、と自虐気味になりながらジャケットを羽織る。迷える利用者たちを適切な乗り場に案内させる。それがジョーの仕事だった。ジョーの脳みそは路線図であり、時刻表であり、駅のマップだった。
黒髪のっぺり顔の駅員といえば、駅員の中でもとりわけ親しい人が二人いる。ジョーはその駅員のところへ行くため、休憩室から出た。目指すは一階、北口改札前。
階段を降り、職員しか開けることのできないドアを開け、駅構内に出る。ジョーを待ち受けるのは、利用客の海だった。服装は皆ばらばらで、鎧をつけた者もいれば、全身黒ずくめの者もいれば、薄っぺらい布だけを纏ったまるで痴女のような者もいる。箒を持っている女はだいたい魔女だ。剣を持っているのは、勇者か、騎士か、といったところだろうか。長く務めているおばさん上司は一瞬で利用者のジョブを見抜いてしまう。「利用者を把握するのは当たり前でしょ」と小言を言われるのだが、星の数だけあるジョブを覚えるのはジョーにとっては困難だった。さらにスライム、ゴースト、獣人などの人外もいる。包帯ぐるぐる巻きのミイラだって歩いている。
星の間中央駅は様々な世界を結ぶ異世界鉄道会社の要となる駅であるため、利用者がここに集中する。文化が入り乱れるこの駅は宇宙のようにカオスだった。
五階建ての駅で、乗り場は二階から五階に二十ある。改札は中央改札、南口改札、北口改札の三つで、人々はまずはここを目指すことになる。
ジョーの担当である総合案内所は中央改札前にあった。切符売り場も中央改札前であり、特に人が多いエリアだ。円状のカウンターの中で、常時三人が待機している。立体構造の駅で迷う者も多く、また路線も多数あるため、総合案内所は常に長蛇の列ができている。
もちろん、この総合案内所にもたどり着けない者もいる。例えば、目の前で大声で泣いている真っ黒ワンピースを着た幼女とか。レストラン街の入り口で迷子になっていた。
ジョーはポケットに突っ込んでいた手を出し、幼女の前で膝を折った。
「やあ、お嬢ちゃん。ママと旅行?」
幼女は箒を持っていた。箒を持っていて黒ワンピースなら、さすがのジョーでも分かる。魔女っ子だ。それも由緒正しい魔女の血筋を受け継いでいる。最近は魔女界のファッションも変化してきている。真っ黒なのは、誇り高き魔女たちだけだ。
彫りの深い顔の男性駅員に声をかけられ、幼女は一瞬驚くが、ジョーの輝かしいばかりの笑顔を見て涙を止めた。
「ううん、魔法で使う材料を拾いに行くの」
「そりゃいいね。その材料はどこにあるって?」
「たぶんだけど、ステリアハウゲンってとこ。星が降るんだって、ママが言ってた」
ステリアハウゲンなら以前問い合わせが多数あり、ジョーも知っていた。数年に一度、星が降るということで、魔女たちの間で有名な素材採集スポットとなっている。5番乗り場に行けばいい。ちょうどジョーが向かっていた北口改札から入場し、改札目の前にあるエスカレーターに乗れば簡単にたどり着く。
「オーケー。じゃあ、お嬢ちゃん、先回りして改札の前で待っていよう。放送して、ママに伝えておけばバッチリさ。お嬢ちゃん、お名前は?」
「レノ」
「了解、じゃあ行こう」
何故この駅に迷子センターがないのか謎である。ジョーは魔女っ子の手を取り、総合案内所に向かった。
上司おばさんと、ジョーと同じく時間にルーズな男性駅員二人が今は案内所で仕事をしている。三人は忙しすぎてジョーが戻ってきたことに気が付かない。ジョーはカウンターの上にある放送機器の電源をつけ、発着案内の放送の間を狙いチャイムを鳴らす。
『本日も異世界鉄道をご利用いただき、誠にありがとうございます。お客様に迷子のお知らせをいたします。ステリアハウゲンに向かわれる魔女のお子様、レノ様がお母さまを北口改札前でお待ちしております。北口改札までお越しください。繰り返します――』
放送を終えたジョーは放送機器の電源を落とし、レノににかっと笑いかけた。レノはありがとうと言って、ジョーの手を握ってきた。
ちらりとこちらを見るおばさん上司にジョーはぺこっと頭を下げ、レノを北口改札まで連れて行く。北口改札への流れに乗った後は楽だ。人の流れに任せて歩いて行けば良い。
途中、お土産売り場がある。星の間中央駅オリジナルキャラクター『星間ちゃん』のキーホルダーやぬいぐるみが大量に置かれていた。星間ちゃんは顔が五芒星の形をしていて、駅員と同じ制服を着ていた。あまり可愛くはなかったが、何故かこれが売れる。お土産売り場も人がたくさんいた。
「星の間中央駅ってさ、結構広いから、迷子にならない方が凄いんだぜ」
「じゃあ、迷子にならないおにいさんは、凄いね」
「おや、返しが上手いじゃないか、お嬢ちゃん。さ、この駅員さんと一緒にママを待つんだ――ちわっす、さっき放送した迷子チャン。よろしく」
改札前にいた女性駅員にレノを渡す。女性だということにレノは安心したようだ。
「了解。案内ありがとうございます」
これだから黒髪のっぺり顔駅員は、と思ってしまうほど堅苦しい挨拶。表情も全く変わらない。艷やかな黒髪をうなじで一つにまとめた若い女性駅員は美人ではある。すらっとしていて、スカートスタイルの制服もよく似合う。けれども、微笑みもしないし、会話もできなかった。
ジョーは適当に敬礼をして、北口改札から離れる。
これから向かう場所にいる、半年前に配属された女性職員はもう少し面白い。一緒にいる男性職員も面白い。どちらも黒髪のっぺり顔だからこそ良かった。あの堅物黒髪のっぺり顔の中でも、この二人だけは特別だった。だからジョーはよく休憩中に遊びに行く。
北口改札前にあるのは、ガラス壁で囲まれた部屋だった。こここそがジョーの目的地である。ドアの上には『お忘れ物センター』と大きく書かれている。蛍光灯の白い光がガラス壁から煌々と漏れ出しており、薄暗い北口改札前でとても目立っていた。
久しぶりに飲むコーラは美味しかった。
ペットボトルの蓋を開けた瞬間に鳴る音は、わけもなくノスタルジックな気持ちにさせる。何故好きなのかは分からないが、指が勝手にコーラを選んでいた。
金髪碧眼の駅員が、職員用休憩室の自販機で買ったコーラを一気飲みしていた。二十代半ばの若い職員である。顔の彫りは深く、鼻は高い。背も高く、駅員の中では体格は良い方だ。名札には無表情の顔写真と共に『異世界鉄道会社、星の間中央駅、総合案内係、ジョー』と文字が印刷されていた。ジャケットはパイプ椅子に乱雑に脱ぎ捨てられていた。白シャツのボタンは上二つが開けられている。
盛大にゲップをし、一人で笑ってしまう。はは、は……、と次第に笑いは薄れていった。共に笑う人など、ここにはいなかった。
ジョーは空になったペットボトルをゴミ箱に投げ捨てた。腕時計を見る。休憩時間はたっぷりとあるが、またあの総合案内のおばさんのところに戻らないといけないのかと思うと、億劫になる。あのおばさん駅員はジョーにやたら厳しく接するため、時間厳守で行動をしなければならなかった。一分でも遅れるとジョーに雷が落ちる。時たま、巨大な時空嵐で全線停止になることがあるが、それ以上に激しい雷雨のような叱咤がジョーに降り掛かってくるのだ。「その時間の遅れが全てを狂わせるのよ、私たちは一分一秒たりとも遅れてはいけないの」が彼女のお決まり文句だ。
駅員は皆、腕時計を左腕につけている。これは、個人で購入したものではなく、会社から支給されたものだ。時間を守れという会社からの命令を意味する。ジョーにとっては反吐が出るような言葉だ。耳にタコができてしまうかと思った。もう少しゆとりがあってもいいじゃないかといつも悪態をつく。会社の方針に納得ができない自分は、何故この会社に務めているのだろうかと思うのだが、辞めることもできなかった。
小柄かつ、黒髪のっぺり顔の駅員は皆注意をしなければならないというのは、ジョーの心の中にあるジョーだけの決まりだった。理由はよく分からないが、あの小さな黒髪の駅員たちは、皆かっちりとしている。一分たりとも遅刻は許さないし、時間通り動くことを美とする奴らだった。常に時間を気にして行動する。それ故か分からないが、運転手には黒髪のっぺり顔が選ばれることが多かった。あのおばさんも運転手にでもなれば良かったのにと舌を鳴らす。やっぱこういうオレは総合案内担当で良かったのさ、と自虐気味になりながらジャケットを羽織る。迷える利用者たちを適切な乗り場に案内させる。それがジョーの仕事だった。ジョーの脳みそは路線図であり、時刻表であり、駅のマップだった。
黒髪のっぺり顔の駅員といえば、駅員の中でもとりわけ親しい人が二人いる。ジョーはその駅員のところへ行くため、休憩室から出た。目指すは一階、北口改札前。
階段を降り、職員しか開けることのできないドアを開け、駅構内に出る。ジョーを待ち受けるのは、利用客の海だった。服装は皆ばらばらで、鎧をつけた者もいれば、全身黒ずくめの者もいれば、薄っぺらい布だけを纏ったまるで痴女のような者もいる。箒を持っている女はだいたい魔女だ。剣を持っているのは、勇者か、騎士か、といったところだろうか。長く務めているおばさん上司は一瞬で利用者のジョブを見抜いてしまう。「利用者を把握するのは当たり前でしょ」と小言を言われるのだが、星の数だけあるジョブを覚えるのはジョーにとっては困難だった。さらにスライム、ゴースト、獣人などの人外もいる。包帯ぐるぐる巻きのミイラだって歩いている。
星の間中央駅は様々な世界を結ぶ異世界鉄道会社の要となる駅であるため、利用者がここに集中する。文化が入り乱れるこの駅は宇宙のようにカオスだった。
五階建ての駅で、乗り場は二階から五階に二十ある。改札は中央改札、南口改札、北口改札の三つで、人々はまずはここを目指すことになる。
ジョーの担当である総合案内所は中央改札前にあった。切符売り場も中央改札前であり、特に人が多いエリアだ。円状のカウンターの中で、常時三人が待機している。立体構造の駅で迷う者も多く、また路線も多数あるため、総合案内所は常に長蛇の列ができている。
もちろん、この総合案内所にもたどり着けない者もいる。例えば、目の前で大声で泣いている真っ黒ワンピースを着た幼女とか。レストラン街の入り口で迷子になっていた。
ジョーはポケットに突っ込んでいた手を出し、幼女の前で膝を折った。
「やあ、お嬢ちゃん。ママと旅行?」
幼女は箒を持っていた。箒を持っていて黒ワンピースなら、さすがのジョーでも分かる。魔女っ子だ。それも由緒正しい魔女の血筋を受け継いでいる。最近は魔女界のファッションも変化してきている。真っ黒なのは、誇り高き魔女たちだけだ。
彫りの深い顔の男性駅員に声をかけられ、幼女は一瞬驚くが、ジョーの輝かしいばかりの笑顔を見て涙を止めた。
「ううん、魔法で使う材料を拾いに行くの」
「そりゃいいね。その材料はどこにあるって?」
「たぶんだけど、ステリアハウゲンってとこ。星が降るんだって、ママが言ってた」
ステリアハウゲンなら以前問い合わせが多数あり、ジョーも知っていた。数年に一度、星が降るということで、魔女たちの間で有名な素材採集スポットとなっている。5番乗り場に行けばいい。ちょうどジョーが向かっていた北口改札から入場し、改札目の前にあるエスカレーターに乗れば簡単にたどり着く。
「オーケー。じゃあ、お嬢ちゃん、先回りして改札の前で待っていよう。放送して、ママに伝えておけばバッチリさ。お嬢ちゃん、お名前は?」
「レノ」
「了解、じゃあ行こう」
何故この駅に迷子センターがないのか謎である。ジョーは魔女っ子の手を取り、総合案内所に向かった。
上司おばさんと、ジョーと同じく時間にルーズな男性駅員二人が今は案内所で仕事をしている。三人は忙しすぎてジョーが戻ってきたことに気が付かない。ジョーはカウンターの上にある放送機器の電源をつけ、発着案内の放送の間を狙いチャイムを鳴らす。
『本日も異世界鉄道をご利用いただき、誠にありがとうございます。お客様に迷子のお知らせをいたします。ステリアハウゲンに向かわれる魔女のお子様、レノ様がお母さまを北口改札前でお待ちしております。北口改札までお越しください。繰り返します――』
放送を終えたジョーは放送機器の電源を落とし、レノににかっと笑いかけた。レノはありがとうと言って、ジョーの手を握ってきた。
ちらりとこちらを見るおばさん上司にジョーはぺこっと頭を下げ、レノを北口改札まで連れて行く。北口改札への流れに乗った後は楽だ。人の流れに任せて歩いて行けば良い。
途中、お土産売り場がある。星の間中央駅オリジナルキャラクター『星間ちゃん』のキーホルダーやぬいぐるみが大量に置かれていた。星間ちゃんは顔が五芒星の形をしていて、駅員と同じ制服を着ていた。あまり可愛くはなかったが、何故かこれが売れる。お土産売り場も人がたくさんいた。
「星の間中央駅ってさ、結構広いから、迷子にならない方が凄いんだぜ」
「じゃあ、迷子にならないおにいさんは、凄いね」
「おや、返しが上手いじゃないか、お嬢ちゃん。さ、この駅員さんと一緒にママを待つんだ――ちわっす、さっき放送した迷子チャン。よろしく」
改札前にいた女性駅員にレノを渡す。女性だということにレノは安心したようだ。
「了解。案内ありがとうございます」
これだから黒髪のっぺり顔駅員は、と思ってしまうほど堅苦しい挨拶。表情も全く変わらない。艷やかな黒髪をうなじで一つにまとめた若い女性駅員は美人ではある。すらっとしていて、スカートスタイルの制服もよく似合う。けれども、微笑みもしないし、会話もできなかった。
ジョーは適当に敬礼をして、北口改札から離れる。
これから向かう場所にいる、半年前に配属された女性職員はもう少し面白い。一緒にいる男性職員も面白い。どちらも黒髪のっぺり顔だからこそ良かった。あの堅物黒髪のっぺり顔の中でも、この二人だけは特別だった。だからジョーはよく休憩中に遊びに行く。
北口改札前にあるのは、ガラス壁で囲まれた部屋だった。こここそがジョーの目的地である。ドアの上には『お忘れ物センター』と大きく書かれている。蛍光灯の白い光がガラス壁から煌々と漏れ出しており、薄暗い北口改札前でとても目立っていた。