1章 推しを忘れた令嬢

 私に覆いかぶさっている男の身体を見ると幻滅してしまうので、目を閉じた。ぶよぶよの腹が私の腰に当たる。気持ちが悪い。私が上げている声はもはや演技である。身体は薄っすら感じてはいるものの、気持ちまで溺れることはなかった。
 甘ったるい台詞が私の耳をくすぐろうとしてくるが、特に何も感じなかった。
 相手は私を貪り食らっていた。
 あなたは満足できていいわね。あなたが満足できるように努力してきた私はさぞかし美味しいでしょう。
 だらだらと垂れている汗が、私の顔に落ちる。すぐに拭いたかったが、私の手は握りしめられていた。
 彼の、かつては引き締まっていた身体は、ここに来てから、ぶくぶくと、まるで豚のようにまるまると太ってしまった。農業を営んでいた彼は、元々は――結婚するまでは、農作業で見事に鍛え上げられた身体で私を魅了させた。日に焼けた小麦色の肌に、笑うと見える白い歯。少し長めの黒髪、その前髪からちらっと見えるつぶらな黒目。首筋から胸元に流れる汗。薄汚れたチュニックなど気にならないくらい眩しかった。元々決められていた許嫁との婚約を破棄したいと強く思ってしまうほど、魅力的だった。
 ――あなたが、僕を生かしてくれてるのです。僕はあなたがいないと生活することすらできませんでした。
 彼が私の両手を包み込み、流した涙で、私は決めた。もうこの人と結婚しようと。
 もちろん、許嫁もいい男だった。許嫁はマスタング王の息子。第四王子。政略結婚とはいえ、紳士的な態度を見せてきて、好印象ではあった。そう、夫に負けないくらい、いい男だった。けれどもあの言葉とあの涙に婚約破棄を決めたのだ。狂ったかと思われても良かった。それほど私は彼に虜になってしまった。
 けれどもその素敵な彼は、今となってはただの豚のおじさん。女の身体を前にしてぶひぶひ鳴いている小太り中年男。
 しょうがなかったんだと思う。私は令嬢だ。広大な領土を持つ領主の娘。それが私だった。屋敷では豪華なメニューが毎日振る舞われる。それは、家が雇っているシェフの見栄でもあった。ここはフランスではないが、フレンチのコース料理と同じように料理が出てくる。前菜、スープ、魚料理、口直し、肉料理、デザート、食後のお茶。メイドや執事たちが私達夫婦の世話をしてくれる。作法を知らなかった私も、平民出身の夫も、何度も彼らに助けられた。
 夫はこの家に婿入りしてからは、農作業はしなくなってしまった。それなのに毎日こんな豪華な料理を食べていれば太らないわけがないのだ。私は体型維持のために日々身体を鍛えているが、夫はまったくしなかった。
 画面の中で、私に微笑みかけてきた彼は、幻となってしまった。いるのは、ハッピーエンド後の、ぶくぶくと太った夫だけ。
 私は、もともとは夫を画面越しに見ていた。その小麦色の肌から伝わってくる熱は、ゲーム機本体の熱だったが、握るゲーム機から感じる熱と、彼の視線と台詞が、一気に私を興奮させていた。
 彼は所謂”推し”だった。でも、彼は、攻略対象ではない。そう、モブだった。
 乙女ゲーム『夢と共に華に散れ』のモブだった。そして、私はそのゲームの元プレイヤーだった。何度もプレイした。元婚約相手の第四王子とも結婚したし、その第四王子との婚約を破棄して、王子の従者と結婚したし、騎士と結婚したし、私の家の若執事とも結婚した。みんな、推しだった。みんな好きだった。みんなを愛した。前世ではグッズも大量に集めた。缶バッジに、ハンドタオルに、コースター。大手ゲーム会社『Re:プラネット』の自信作。その出来は言うまでもない。コラボもたくさんあった。一緒に推し活をしていた友人とコラボカフェにも行った。そのくらいのめり込んだのだ。
 けれども、唯一結婚が許されない相手がいた。それが今の夫である。
 私は、生前、推しがモブだったことに嘆いた。何故推しが攻略不可なのかと、ゲームのレビューブログにも書いた。SNSでもたくさんの賛同者を見つけることができ、仲間と共に攻略不可であることを悔やんだ。それは幸せな時間だった。
 けれども、幸せな時間は、一瞬で崩れる。
 スマホを握りしめ横断歩道を歩いていた私は、気が付かなかった。自分にトラックが突っ込んでくることに。
 目を覚ましたら、ゲームの主人公になっていた。一度死んだ私は、死んでしまった事実を受け入れられず悲観的になっていたが、この世界が推しゲーの世界だと分かった瞬間、その事実は忘れ去った。『夢と共に華に散れ』で見たスチルが具現化し、目の前に広がっていた。推したちが喋る。興奮した。私は主人公アデリアとして生きることにする。やり込んでいたから、バッドエンドフラグは分かっていた。すべて回避し、いよいよ結婚相手を選択しなければいけないところまできたのだ。
 かつてのように何度もリセットはできない。この世界にリセットという概念があるのかは分からない。あったとしても方法が分からない。だから、唯一の伴侶を決めなければならない。そして、結婚してもストーリーは続く。そこだけがゲームと違った。
 夫から手を重ねられ、私を求められた瞬間、私は心に決めた。
 前世でモブでしかなかった彼と結婚できる、唯一のチャンス。これを逃してしまえば、もう私は彼と甘い時間を過ごすことができない。
 そして選択した。第四王子を泣かせ、家の存続の危機が迫ったものの、私は前世で学んだ地政学を活かし、なんとかマスタング王との関係を守り、家を守り、晴れて夫との結婚にこぎ着けたのである。
 幸せな時間が続くと思っていた。幸せな結婚ができれば、ハッピーエンド後も幸せが続くものなのだと。
「――どうだった、アデリア」
 夫の不安げな囁きに、私ははっとする。股に生ぬるいものを感じた。終わったらしい。
 私の反応が薄かったのをずっと気にしていたのだろうか。終わっても、夫は私にキスをする。いつまでもそっけない態度を取っていては、夫を泣かせてしまう。それはそれで面倒なので、キスに応じた。
 不快感がまとわりつくが、私は何でもないように微笑んだ。
「良かったわ」
 セックスの感想を求められるとかキモい。クソデブには何も言うことがない。私の自慢のつややかなブロンドの髪に触れられるだけで虫酸が走る。
 夫は私の言葉に満足して、そのまま力尽きたかのようにこてんと眠ってしまった。いびきがデカい。もう見た目も態度もモブおじさんなのよ。あ、元からモブだったわね。
 さっとベッドから出て、メイドにバスローブをかけてもらい、一人でシャワーに向かった。甘い事後なんて必要なかった。このあと彼と一緒のベッドに戻らないといけないのが憂鬱だ。
 シャワーを浴びながら、考える。やっぱり、第四王子か、その従者か、騎士か、私の若執事にしておけばよかったのだろうか。結婚後も素敵な夫でいてくれるのは、誰だったのだろうか。推しは推しのままでいたほうが良かったのだろうか。だとしたら、私は前世の方が幸せだったのかもしれない。他にも推しはたくさんいたのだから。
 そう、私には、たくさん推しがいた。
 推したちを見て、満足していた――いや、本当に、それだけだっただろうか。
 私はもっと、前世で充実していたはずなのに。思い出せない。推しを推すだけではなく、もっと、濃厚な幸せがあったはずなのに、その内容が思い出せない。
 充実していたはずなのに、誰にそうしてもらっていたが思い出せなかった。
 一体、誰が、本当の私の推しなの。私をたっぷり愛してくれる、本物の推しは、一体、誰なの――。
 私はいてもたってもいられず、シャワーを済ませた後、若執事の私室に向かった。こういう時、若執事はいつも私にキスをしてくれる。
 前世に戻りたい。望みを伝えると、彼は、それなら、と一枚の切符を渡してくれた。『乗車券・特急券』と書かれている。
「異世界鉄道会社、ゲームプラネット線、寝台特急ハヤミに乗って、星の間中央駅に向かってください。そこにはお忘れ物センターがあって、前世お忘れ物捜索サービスを利用することができます。前世に戻って、忘れたものを捜すことができるそうですよ。ここなら、お嬢様の望みを叶えることができるでしょう。理由は――聞かないでおきますね」
 ウインクする若執事から切符を受け取った後、私はいてもたってもいられず、彼のベッドに乗り込んだ。

1/10ページ
スキ