夜廻の詩

「ネコ、見ましたよ。ヨタカに随分と可愛がられているのですね」
「へっ」
 声が裏返った。
 寧子は手から落ち、床に散らばってしまった薬草を慌てながら集める。
 師は突然話を始めるから心臓に悪い。
「な、何のことですか」
「昨日でしたか。どこかお出かけに行かれていましたよね」
 水の張った桶のなかに草を入れ、胸を撫でた。こういう時、胸を三度撫でればいいと教えられてから、ずっと癖になっている。
「先生。突然やめてください」
「ごめんなさい。でも、からかってるんじゃないですよ」
 他人から指摘されると、途端に恥ずかしくなる。寧子はすり鉢に草を入れ、無言でゴリゴリとすり潰した。これはこの後、青痣を作った夜鷹の背中に塗る軟膏になる。
 昨日は父に頼まれて、港まで買い出しに行った。荷が重くなるだろうからと、夜鷹を連れて行けとも言われていた。
 父は夜鷹にも声をかけていたらしく、早くに屋敷に来て寧子を待っていた。
 待たせてしまっただろうかと駆け寄った際、夜鷹が寧子の頭に手を乗せたのだ。ほんの一瞬のことだ。さっと撫でたあと、なんでもないような顔をして歩いていた。
 師が見たのは、その一瞬のことだろう。
「他の人には言わないでください……。夜廻たちに知られたら、きっと面倒なことになります。夜鷹も分かってるはずなのに」
 父でさえ知らないのだ。父は自分たちのことを、ただ同い年で仲の良い二人としか思っていない。父にとっては、夜鷹も我が子の一人。もしかしたら、姉弟のように見ているかもしれない。
「言いませんよ。ただ、少し興味があります」
「少しじゃないですよね。全部知りたいって顔に書いてますよ」
 ドロシーは笑いながら額に手を当てた。時たま見せるこの朗らかな表情が、寧子は好きだ。他に言える人がいないというのも手伝って、寧子はぼそぼそと話し始める。
「夜鷹が寝込んでた時が、最初だったと思います」
「ああ、あの時は付きっきりでしたね」
「珍しく、弱音を吐いたんです」
 毎日、決まった時間になると、皮膚に張り付いた布を取り換えることになっていた。最初はドロシーがやっていたのだが、途中からは寧子がするようになった。
 歯を食いしばり、息を止め、身体を強張らせながら耐えていた。だが、それができたのは最初の数日、ドロシーの前だけで、寧子の前になると低く唸っていた。
 限界を迎えた日、身体を横にした際に自分も死ねば良かったのかもしれない、と夜鷹は呟いたのだ。
 たくさんの兄弟たちがあの地下で死んでいった。自分だけが助かり、香花の手から逃れ、自由を手にしてしまった。自分も兄弟と同じように死ぬべきだったのかもしれないと泣いていた。
 地下から戻ってきて、夜鷹は何度も枕を濡らしていた。こんなに弱っている彼を見るのは初めてだった。
 彼が泣いている間、黙って手を握ってやることしかできなかった。
 傷が塞がって、少しだけ痛みが落ち着けば、気持ちも落ち着いたようで、それからは泣くことはなかったが、寧子の前で散々泣いたことは気にしているようだった。
 寧子にはたくさん恥ずかしいところを見せてしまったと。
 気にすることはないのだと言おうとしたが、寧子は無意識に夜鷹を抱きしめていた。
「不思議ですよね。それまではずっと弟のように思っていたのに」
 孤児院から出たばかりの世間知らずの男の子だったのに、今となっては大きなものを乗り越えた立派な男だ。
 自身の境遇に打ちのめされ、背負わされたものを知り、それでもひたむきに前に進む彼を支えてやりたいと思うのも自然なことだった。
 好意以上のものを抱いているのかもしれない。
 昭晶の夜鷹に対する気持ちとは少し違うかもしれないが、寧子もまた、夜鷹と共にいたいと思うのだ。
 草を潰し終え、ドロシーが潰していたものと混ぜ合わせ、薬が完成した。
 その一部を小さな器に入れ、寧子に渡した。
「さ、ヨタカに持っていってあげてください」
 ドロシーは片目を閉じる仕草をしたが、寧子はその意味を知らなかった。
 
 屋根の上でぼうっとしていた夜鷹を呼ぶ。
 彼は暇になれば、すぐに屋根に登る。故郷の空を懐かしく思うのだろうか。昼は星が隠れているのだが、彼の目には星が見えているのかもしれない。
 看護室には誰もいなかった。誰もいないと、ここはとても静かだ。
 夜鷹はすぐに脱いで背中を晒した。藤六に打ち込まれた痕がくっきり浮かんでいた。彼は本当に容赦がない。それだけ夜鷹には期待しているのだ。
「もういい加減、痣なんて作らないでほしいんだけど」
「それは俺だって思ってるよ。情けなさすぎるだろ。いつになったら、寧子にこんな姿見せなくて済むんだろうな」
 衣を肩にかけてやり、背中を摩った。
「別にそれはいいのよ。夜鷹には傷ついてほしくないだけ。もうあんなのは懲り懲りよ」
「それは分かってるよ」
 襟元を正した夜鷹は、身体を寧子に向けた。
「な、何?」
「大きい声、出さないでほしい」
 両手を握られたかと思いきや、唇に温かいものが触れた。
 突然のことに身体が強張るが、それも一瞬のことだった。
 手が自由になると、また胸を三度撫でていた。だが、それでも落ち着かない。
 そんな寧子を夜鷹は抱き寄せた。
「ごめん、ここしか静かな場所がなくて。長屋は普通の会話でもすぐ隣に聞こえるし……」
「い、いいのよ。ちょっと驚いただけだから。まだ慣れてなくて……」
 夜鷹の胸に耳に当てると、落ち着いていないのは彼も同じであることに気付く。
「薬が必要なくなったら、頭領に話をしようと思ってる」
「それって、いつになるの」 
「うーん……」
「今からでもいいのよ、私は」
「それはいくらなんでも急すぎるだろ」
 夜鷹は短くなった寧子の髪を撫でる。
 寧子は切って良かったと思っている。長いままだと、いつまでも子供のような気がしたからだ。
 夜鷹がさっさと大人になって、自分だけ幼いまま取り残される気がした。
 酷い怪我を乗り越え、ひとつ大きくなった夜鷹と対等になるには、こうするしかなかったと思っている。傷ついて大人になった夜鷹と同じように、自分も何か一つ失うべきだと。
 夜鷹もその寧子の気持ちは分かっている。周りの人たちにはそれっぽい理由を言ってはぐらかしたが、彼には本当の理由を伝えている。
 最初はもったいないと思ったらしいのだが、短いほうが好きだと言ってくれた。
 それから、何度も髪を撫でられる。自分の気持ちを受け入れてくれているのだと思うと、胸がいっぱいになる。
「夜鷹、さっきの、もう一度して」
 唇が落とされる寸前で、寧子は囁いた。
 好きよ、と。
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