6章
夜鷹は混沌の中にいた。上も下も、時間も光も、何もないところにいた。
「では」
夜鷹の隣にいたのはどこまでも深い闇だった。形が整っておらず、揺らいでいる。それが夜の女王だと理解するに少し時間を要した。
「はじめようか」
夜鷹の意思に反し、口から言葉が出てくる。
身体も夜鷹のものではなかった。誰かの記憶を覗き込んでいるのだと気付くのにも、時間を要した。
この記憶の持ち主もまた形が整っておらず、揺らいでいる。女王と違うのは、この身体は優しい光を持っていたことだった。昼の王だ。夜鷹は昼の王の記憶を見ていた。
光と闇が混沌の中で揺らぎ、何かを決意した。
女王は揺らぐ闇からどこまでも拡がる星空の布を生み出した。それで混沌を包み込み、夜の国を生み出した。女王は夜の国の中へと入り、王は一人となった。
逡巡したのち、揺らぐ光から巨大な身体を生み出した。王は巨大な手で混沌を硬め、昼の国の大地を定めた。手からこぼれ落ちた混沌は大地を包み込む天となった。
王は地に座った。強く圧縮された混沌は最初は火の海だった。王にはぬるま湯のように感じ、しばらく火の海の中で温まっていた。だが、時間が経つと、冷え固まり始める。土が剥き出しの大地はとてもさみしいと感じた。
何かを想像しようとしても、自分は闇のような幻想の力を持っていない。王は考えた。
それからは寧子から聞いた言い伝えの通りだった。
まず髪の毛を全て引き抜いた。その痛さに涙が溢れる。大粒の涙は大地を覆ってしまうほどで、王の膝までが涙に浸かった。しょっぱい涙は、海となった。
これでは毛を植える場所がない。王は土を寄せ、陸を作った。じゅうぶんな広さになると、陸に髪の毛を植えた。
水と栄養を吸った髪の毛は徐々に緑へと変わっていく。不毛な大地は緑豊かな大地となった。だが、髪の毛が足りなかった場所がある。そこは砂漠となった。こういうところが少しあるのも面白いだろうと王は思った。
そうしている間に、海では生命が誕生した。原始の生命たちは、王の足を何度もつついた。邪魔だと言われているのだろうかと思った王は、自分の身体を崩した。王の身体は豊かな土となり、植物たちは実をつけるようになった。
再び光だけとなった王は空で輝いた。だが、自分の光が常に輝いている場所では、生命たちが安らぐ時間がなかった。自分の光が常に届かない場所では、生命たちは遊ぶことができなかった。そこで考えた王は天をめぐり、朝と昼と夜を作った。
生命たちは実を食べ、さらに進化した。海にいた彼らは、次第に陸へ上がり、姿を変えていく。その様子を王は天をめぐりながら見ていた。
生命たちは暗闇の中で安心して眠れていないことに気付く。そこで王は、空に月と星を作った。
そこまですると、王は自分に残された力がわずかであることに気付く。
最後の最後で、王は王の代わりとなる太陽を作った。
地上の者はようやく安心して過ごせるようになった。王は自らを星に変え、天の中心で輝きながら、地上を見つめていた。
王は最初から分かっていた。夜の女王と違い、自分には寿命があることを。光り輝くには、命という力を燃やす必要があった。
王は悲しみながらも、寿命を受け入れた。混沌から作ったこの大地は、自分よりは長く生きるだろう。生命たちは命を繋いでいく術を持っている。この国に関することで思い残すことはない。
だが、一つだけ思い残すことがあった。だから、王は最後の光を国の外に飛ばした。
記憶はそこで途切れ、夜鷹は目覚めた。
「やっと目覚めたか」
身体を起こす。立ち上がろうとするも、足元が不安定だった。上も下も分からないような、星空の中にいた。自分が生まれた空だ。懐かしさが襲ってくる。
彼は自分の目の前に立っていた。王の記憶を見ている間、ずっとそこにいたのだろうか。
「何を見た。どこまで思い出した」
「全部だよ。全部だ」
夜鷹は彼をまっすぐに見据えた。
「まず、昭晶を返してほしい。昭晶の口で喋るな。母さん」
衣が大きく揺れ、昭晶の身体に覆いかぶさるようにして女王が姿を見せる。形のない、闇の揺らぎだ。どんな姿にでもなれる幻想の存在。父の記憶の中で見た通りだ。
「恐れないのですね。我が子は皆、私に理想の母の姿を求めるのに」
「それが本当の姿だと知ったから」
闇が夜鷹を包む。息ができないほどの密度だ。濃い闇が夜鷹の首を締め付けるように巻き付いてくる。
「母さんは何を望んでいるんだ」
「私の元へ帰ってきなさい。星になり、私の元にいてほしいのです」
ぎりぎりと闇が夜鷹の喉を締め付ける。足が浮きはじめ、夜鷹は闇を掴んだ。
「あなたが持っているのは、あの方の光。それがほしいのです」
女王は夜鷹を人間としての死を迎えることを望んでいた。声も出せず、視界を覆い尽くす星の輪郭がぼやけ始める。
「あなたが戻れば、昼と夜を戻すことだってできるのですよ」
意識を失う手前、闇がまた姿を変えた。昭晶の姿になり、夜鷹に馬乗りになる。胸を圧迫され、気道を潰される。
「わたしとまた、星になろう」
足をばたつかせるが、昭晶の力には勝つことができなかった。
「夜鷹、わたしはお前とずっと共にいたい。死ぬのは嫌だろう」
昭晶の手首を掴み、涙の滲む目で昭晶を見た。女王は自分を惑わそうとしている。これが女王の本質だ。幻想で全てを惑わし、理想を描く。それが母だった。
だが、幻想から生まれた自分たちもまた、幻想なのだろうか。それだけは違うと否定できる。自分ははっきりとここにいるし、昭晶もはっきりと存在している。母とは違うのだ。
腰にある刀を取り、友の手首を切った。血の代わりに闇が吹き出す。
ぎゃっと声を上げた闇は形が揺らぐ。
夜鷹は胸に手を当てる。手の中から光が溢れた。その光は徐々に拡がり、幻想を消し去った。深い闇がさらけ出される。母は光の中で不安定に揺らいでいる。
「母さん。父さんは死んだ。死んだんだ。父さんが遺したこの光だって、永遠のものじゃない。俺を取り込んだって、永遠のものにはならないよ」
「嘘です。そんなはずない。あの方が死ぬなんて」
「父さんは光り輝くために命を使ったんだ。母さんと違う存在だというのは最初から分かってた。自分には寿命があるって分かりながら、俺たちに命を使ってくれたんだ」
胸の中に、確かに父の存在は感じる。だが、父はもう生きていない。どこにもいない。
「父さんは自分が死んだことを伝えるために、俺の中に最後の光を入れたんだ。父さんは、地上の者たちに自分の死を告げなかった。自分が死んでも国は大丈夫だって信じたからだ。でも、母さんには伝えないといけないって思ったんだ。一緒に混沌から生まれ、一緒に国を作った母さんには、伝える必要があるって」
闇はぶるぶると震えている。
「そんなの無理です、認められません」
「俺が昼に行ったせいで、このことを伝えるのが遅くなったのは悪かったと思ってる。思い出させてくれたのも母さんだ。それは感謝してる。だけど、俺がすべきことはここまでだ。これ以上、伝えることはないよ。昭晶を返してほしい」
母の闇の中に手を入れた。まるで水のようだ。温かいもので満ちている。
闇に耳を当てると、母がすすり泣いていることに気付く。父の死を受け入れるには、時間が必要なのだろう。
何かを掴んだ。そのままずるりと引っ張り出す。夜鷹は昭晶の身体をしっかり抱きしめた。
「あの方がいないのなら、一体、誰が私の悲しみを慰めてくれるのですか――」
母はそう言い残し、再び広がった幻想の空と共に去っていった。
幻想から抜け出した二人は地上に戻っていた。
昭晶に気が付いた者が「王!」と呼んでいる。ここが、昭晶の統治する国なのだろう。とても大きくて、立派な都のようだ。
ほっとしたのも束の間、夜鷹は気付いた。
昭晶は息をしていなかった。
「では」
夜鷹の隣にいたのはどこまでも深い闇だった。形が整っておらず、揺らいでいる。それが夜の女王だと理解するに少し時間を要した。
「はじめようか」
夜鷹の意思に反し、口から言葉が出てくる。
身体も夜鷹のものではなかった。誰かの記憶を覗き込んでいるのだと気付くのにも、時間を要した。
この記憶の持ち主もまた形が整っておらず、揺らいでいる。女王と違うのは、この身体は優しい光を持っていたことだった。昼の王だ。夜鷹は昼の王の記憶を見ていた。
光と闇が混沌の中で揺らぎ、何かを決意した。
女王は揺らぐ闇からどこまでも拡がる星空の布を生み出した。それで混沌を包み込み、夜の国を生み出した。女王は夜の国の中へと入り、王は一人となった。
逡巡したのち、揺らぐ光から巨大な身体を生み出した。王は巨大な手で混沌を硬め、昼の国の大地を定めた。手からこぼれ落ちた混沌は大地を包み込む天となった。
王は地に座った。強く圧縮された混沌は最初は火の海だった。王にはぬるま湯のように感じ、しばらく火の海の中で温まっていた。だが、時間が経つと、冷え固まり始める。土が剥き出しの大地はとてもさみしいと感じた。
何かを想像しようとしても、自分は闇のような幻想の力を持っていない。王は考えた。
それからは寧子から聞いた言い伝えの通りだった。
まず髪の毛を全て引き抜いた。その痛さに涙が溢れる。大粒の涙は大地を覆ってしまうほどで、王の膝までが涙に浸かった。しょっぱい涙は、海となった。
これでは毛を植える場所がない。王は土を寄せ、陸を作った。じゅうぶんな広さになると、陸に髪の毛を植えた。
水と栄養を吸った髪の毛は徐々に緑へと変わっていく。不毛な大地は緑豊かな大地となった。だが、髪の毛が足りなかった場所がある。そこは砂漠となった。こういうところが少しあるのも面白いだろうと王は思った。
そうしている間に、海では生命が誕生した。原始の生命たちは、王の足を何度もつついた。邪魔だと言われているのだろうかと思った王は、自分の身体を崩した。王の身体は豊かな土となり、植物たちは実をつけるようになった。
再び光だけとなった王は空で輝いた。だが、自分の光が常に輝いている場所では、生命たちが安らぐ時間がなかった。自分の光が常に届かない場所では、生命たちは遊ぶことができなかった。そこで考えた王は天をめぐり、朝と昼と夜を作った。
生命たちは実を食べ、さらに進化した。海にいた彼らは、次第に陸へ上がり、姿を変えていく。その様子を王は天をめぐりながら見ていた。
生命たちは暗闇の中で安心して眠れていないことに気付く。そこで王は、空に月と星を作った。
そこまですると、王は自分に残された力がわずかであることに気付く。
最後の最後で、王は王の代わりとなる太陽を作った。
地上の者はようやく安心して過ごせるようになった。王は自らを星に変え、天の中心で輝きながら、地上を見つめていた。
王は最初から分かっていた。夜の女王と違い、自分には寿命があることを。光り輝くには、命という力を燃やす必要があった。
王は悲しみながらも、寿命を受け入れた。混沌から作ったこの大地は、自分よりは長く生きるだろう。生命たちは命を繋いでいく術を持っている。この国に関することで思い残すことはない。
だが、一つだけ思い残すことがあった。だから、王は最後の光を国の外に飛ばした。
記憶はそこで途切れ、夜鷹は目覚めた。
「やっと目覚めたか」
身体を起こす。立ち上がろうとするも、足元が不安定だった。上も下も分からないような、星空の中にいた。自分が生まれた空だ。懐かしさが襲ってくる。
彼は自分の目の前に立っていた。王の記憶を見ている間、ずっとそこにいたのだろうか。
「何を見た。どこまで思い出した」
「全部だよ。全部だ」
夜鷹は彼をまっすぐに見据えた。
「まず、昭晶を返してほしい。昭晶の口で喋るな。母さん」
衣が大きく揺れ、昭晶の身体に覆いかぶさるようにして女王が姿を見せる。形のない、闇の揺らぎだ。どんな姿にでもなれる幻想の存在。父の記憶の中で見た通りだ。
「恐れないのですね。我が子は皆、私に理想の母の姿を求めるのに」
「それが本当の姿だと知ったから」
闇が夜鷹を包む。息ができないほどの密度だ。濃い闇が夜鷹の首を締め付けるように巻き付いてくる。
「母さんは何を望んでいるんだ」
「私の元へ帰ってきなさい。星になり、私の元にいてほしいのです」
ぎりぎりと闇が夜鷹の喉を締め付ける。足が浮きはじめ、夜鷹は闇を掴んだ。
「あなたが持っているのは、あの方の光。それがほしいのです」
女王は夜鷹を人間としての死を迎えることを望んでいた。声も出せず、視界を覆い尽くす星の輪郭がぼやけ始める。
「あなたが戻れば、昼と夜を戻すことだってできるのですよ」
意識を失う手前、闇がまた姿を変えた。昭晶の姿になり、夜鷹に馬乗りになる。胸を圧迫され、気道を潰される。
「わたしとまた、星になろう」
足をばたつかせるが、昭晶の力には勝つことができなかった。
「夜鷹、わたしはお前とずっと共にいたい。死ぬのは嫌だろう」
昭晶の手首を掴み、涙の滲む目で昭晶を見た。女王は自分を惑わそうとしている。これが女王の本質だ。幻想で全てを惑わし、理想を描く。それが母だった。
だが、幻想から生まれた自分たちもまた、幻想なのだろうか。それだけは違うと否定できる。自分ははっきりとここにいるし、昭晶もはっきりと存在している。母とは違うのだ。
腰にある刀を取り、友の手首を切った。血の代わりに闇が吹き出す。
ぎゃっと声を上げた闇は形が揺らぐ。
夜鷹は胸に手を当てる。手の中から光が溢れた。その光は徐々に拡がり、幻想を消し去った。深い闇がさらけ出される。母は光の中で不安定に揺らいでいる。
「母さん。父さんは死んだ。死んだんだ。父さんが遺したこの光だって、永遠のものじゃない。俺を取り込んだって、永遠のものにはならないよ」
「嘘です。そんなはずない。あの方が死ぬなんて」
「父さんは光り輝くために命を使ったんだ。母さんと違う存在だというのは最初から分かってた。自分には寿命があるって分かりながら、俺たちに命を使ってくれたんだ」
胸の中に、確かに父の存在は感じる。だが、父はもう生きていない。どこにもいない。
「父さんは自分が死んだことを伝えるために、俺の中に最後の光を入れたんだ。父さんは、地上の者たちに自分の死を告げなかった。自分が死んでも国は大丈夫だって信じたからだ。でも、母さんには伝えないといけないって思ったんだ。一緒に混沌から生まれ、一緒に国を作った母さんには、伝える必要があるって」
闇はぶるぶると震えている。
「そんなの無理です、認められません」
「俺が昼に行ったせいで、このことを伝えるのが遅くなったのは悪かったと思ってる。思い出させてくれたのも母さんだ。それは感謝してる。だけど、俺がすべきことはここまでだ。これ以上、伝えることはないよ。昭晶を返してほしい」
母の闇の中に手を入れた。まるで水のようだ。温かいもので満ちている。
闇に耳を当てると、母がすすり泣いていることに気付く。父の死を受け入れるには、時間が必要なのだろう。
何かを掴んだ。そのままずるりと引っ張り出す。夜鷹は昭晶の身体をしっかり抱きしめた。
「あの方がいないのなら、一体、誰が私の悲しみを慰めてくれるのですか――」
母はそう言い残し、再び広がった幻想の空と共に去っていった。
幻想から抜け出した二人は地上に戻っていた。
昭晶に気が付いた者が「王!」と呼んでいる。ここが、昭晶の統治する国なのだろう。とても大きくて、立派な都のようだ。
ほっとしたのも束の間、夜鷹は気付いた。
昭晶は息をしていなかった。