5章

 屋敷に戻ると、ドロシーは香を炊いた。
 やさしい甘い香りのする香である。それを持ち、倒れていた夜廻たちの肩を揺さぶって回った。
 目覚めた彼らは何があったのか何も分かっていない。どうして倒れていたのか、どうして眠っていたのか、何も知らず、困惑していた。
 ドロシーはついに、牛目だけでなく、夜廻たちに夜の国の存在を明かした。
 彼らから人間を守るには、夜廻に協力してもらい、まじないで退ける方法しかないと。
「先生の言うことなら信じるよな、みんな」
 牛目が言うと、夜廻たちはもちろんだと口を揃えて言った。
「まじないはもう少しで完成します。二度目はないよう、急ぎます」
 夜鷹を連れ、ドロシーは研究室に入った。
 潰しかけた草が器の中にまだ入っていた。口の中に入っていた草の残りを吐き出す。
「……やっぱりこれは食べるものではないですね。無茶をしました」
 水で口をゆすいだドロシーは溜息をつき、温かいお茶をいれはじめる。
「今日は甘いものにしましょう。砂糖も入れておきます」
「そんな貴重なもの」
「でも、使わなければ、なんでしたっけ。宝のもちつかれでしたか。それに、ワタシも口直しがしたいんです。お付き合いください」
 紅茶というお茶をもらった。香りがとてもいい。口に含むと、甘さが口いっぱいに広がり、お腹が満たされる心地がした。
 夜鷹の表情を見たドロシーは、よかった、と呟く。
 窓の外を見ると、空が白くなりつつあった。鳥たちもさえずり始めている。
「ヨタカのご友人は、確かに鬼でしたね」
「俺、ぼんやりとだけど、思い出したんです。昭晶も俺も、もとは、向こうの空にいたって」
「でも、ヨタカは異形にはならなかった。この矛盾をどう考えるか……」
 部屋の片隅に置いてあったカンテラを手に、ドロシーは少し考え込む。
「こちらでできることには限りがあります。占いでは全てを知ることはできず、記憶に関するまじないは持っていません……。そうなると、やはり、もう一度夜の国に行くのがいいでしょう。こちらから夜の国へ行く方法を探します」
「でも、そうすると困るって。まじないで行こうとしたら昼と夜が混ざったって話じゃ」
「まじないは日々改良されています。それに、ヨタカが元々は夜の住民だったのなら、何も問題ないですよね。帰るのと同じことですから」
 研究室を出る際、夜鷹はドロシーに聞いた。
「どうして、ここまでしてくれるんですか」
「まじない師であり続けるためですよ。わざわざ海を越えてここまで来たんです。ワタシがそうすると決めたことですから、気にしないで」
 それから一眠りし、また夜を迎える。
 夜鷹は屋敷の屋根にいた。
 ドロシーから頼まれていたのか、寧子から今日は休んでと言われてしまった。だが、何をすればいいか分からず、いつものように屋根の上に来てしまった。
 瓦に寝そべり、星空を見る。
 ここではないどこかに、帰るべき家がある。遠くに行けば、そこに行ける気がする。
 そう思って孤児院を抜け出したあの夜。あの丘から見た星空と同じ空が広がっている。
 瞼を閉じると、夜の国で見た星空が闇の中に広がる。
 星空に懐かしさを感じるのは、自分が星だったから。
 胸に手を当てると、手の中からちかちかと光が溢れてくる。恐ろしさはなかった。ずっと自分の中にあった星の光だ。
 確かに自分は星の子なのに、鏡が映し出した自分は人間だった。
「夜鷹」
 はっとして光を胸の中に押し込んだ。
「寧子。危ないぞ」
「このくらい大丈夫だって」
 はしごを登ってきた寧子の手を取り、屋根に乗せる。寧子の短くなってしまった髪が風になびく。
「こんなところで、何してるの」
「考え事」
「昭晶様のこと?」
「違う。自分のこと」
 ふうん、と言いながら、足を伸ばす。それ以上、寧子は何も言わなかった。
 夜鷹は逡巡したのち、胸に押し込めた星の光を手に取る。
「……これ、どう思う」
 寧子が指を伸ばすと、光は触るなと言わんばかりに弾けた。
「どうって、綺麗ね」
「俺も、怖いとは思わない」
 光の中心には、小さな石があった。星の石だ。ぱちぱちと光を出しながら、石は自由に動いていた。
 自分は元はこの姿だった。これよりも強い光を纏いながら、この地上に落ちてきた。それからこの石を胸に埋め、それまでのことは全て忘れた。
 忘れていたのに、鏡を見た瞬間、その記憶が確かに自分のものであると確信した。鏡に映る星は、自分であると自然に思ったのだ。
「おかしいよな。これでいて、人間だったんだ。元はといえば昭晶と同じだったのに、俺は人間だった。どう考えたらいいか分からない」
「私には想像できないわ。理解したいけれど、完全には理解できないと思う。夜の国は、人間の想像をはるかに超えるものばかりだもの」
 でも、と寧子は付け加えた。
「夜鷹は夜鷹。それは絶対に変わらない事実でしょ。夜鷹の気持ちの全部を分かってあげることはできないけれど、聞くことはできる」
 寧子はもう一度、夜鷹の手のひらにある星に指を伸ばした。驚いたかのように弾ける光と夜鷹の手をまるごと包み込む。
 夜鷹もまた寧子の手を握る。二人の手の間で、星は揺れていた。
 落ち着きを取り戻した星を胸に戻す。そして夜鷹は空を仰いだ。
 星空を見上げる夜鷹の横顔を寧子は静かに見た。その眼差しは、寧子の知らない遠い場所を見ているようだった。
「本当のことが知りたい。それで、また考えればいいんだ」
 二人で静かに星を見ていたところ、下からドロシーに呼ばれる。
「まじないができました。今からでも行けますよ」
 彼女の手には、明るく灯されたカンテラがあった。
2/5ページ
スキ