5章
霧の妖精にクスクスと笑われる。無駄足だったみたい、おかしな子。ひそひそ声が昭晶と珠にまとわりつく。
しびれを切らした珠が彼らを風で追い払うが、翼を持つ妖精たちはしつこく昭晶に纏わりついた。
「それ以上、王に触るな」
霧の妖精は言う事を聞かない。いたずらと噂が好きな妖精が天女と似た種族であることが未だに信じられない。
一方、昭晶は妖精の言葉も、傷が触られたことも、何も気付いていない。珠が語りかけても反応がない。
傷心してしまっている。それもそうだ。心の支えにしていた友人、夜の子である兄弟に拒絶されてしまったのだ。
彼は今日を心待ちにしていた。昼の国に行き、人間たちを眠らせ、その間に夜の子を見つけて連れて帰る。そのために、天女の力が最も強くなる新月の日を選んだ。これ自体はそんなに難しいことではない。必ず一緒に帰れると思っていた。だが、そうならなかった。
留守の城を守っていた狼星が昭晶を迎える。
「お帰りなさいませ」
恭しく頭を下げたあと、珠に目配せをする。珠は首を横に振った。
昭晶が最上階の部屋に戻ったあと、珠から話を聞いた狼星は驚く。
「夜の子なのに、人間だった? そんなことあるのか」
「鏡は嘘をつかない。彼は自分が人間であることを確信していた。ならば、人間なのだろう。理由は分からないが」
珠は手にしていた鏡を見る。そこに映るのは、雲から生まれ落ちる自分の過去。
これは慈悲深い夜の女王が地上の者たちに授けたものだ。鏡を信じないということは、母を信じないことに等しい。
鏡面がきらりと光る。珠ははっとした。
狼星が珠を抱き、後方に飛んだ。自分たちがいた場所の床がえぐれている。埃と木材の塵が舞い上がる。
「おまえたち、昼の国に行ったね」
塵の中から出てきたのは、アルテリアだった。気怠げに溜息をつく。
「法を破ったらどうなるか分かっていて行ったでしょ。わたしは法を作った際、兄弟たちには忠告したよ。もし破れば、裁きを受けることになるって。あの子はどこにいる。匿っているだろう」
アルテリアの問いに、狼星と珠は答えない。
鬼たちが集まる。王の危機を感じた兵たちだ。
「法についてはじゅうぶん理解しています。昼の国へ向かった鬼や天女は、わたくしどもが迅速に罰を与えております。今回は王と共に昼の国に落ちた星の子を探しに向かっただけです。賢者、どうか」
「そんな話、理由にはならないよ。今回はね、星の子が法を破ったんだ。お母様の実の子がお母様の創った国を滅茶苦茶にするかもしれなかったんだ。兄弟だからこそ、許せないんだよ」
賢者が指を振れば、兵たちがどこかへ消えた。指を鳴らせば、城の中の扉や襖が開いた。
天空から駆けつけた天女たちが賢者を止めようとするが、軽々と飛ばされてしまう。
昭晶はすぐに見つかった。賢者を一瞥し、うつむいた。
賢者が腕を上げるのと同時に、昭晶の身体は地面に叩きつけられていた。
「どうして昼の国に落ちたのか知らないけどさ。君は王としてこちらに戻ってきた。だったら、守ってもらわなきゃ」
昭晶の指がぴくりと動く。
アルテリアは面倒くさそうに手をくるりと回す。昭晶の周りに鈍く光る楔が浮かんだ。
「まだ諦めてないでしょ。知ってるよ。鏡で見ていたから。ヨタカだったね。彼、星の子なのに人間だったんだってね。だったら無理だ。連れてくることはできないよ」
楔は昭晶の首元まで降りてくる。
瞼を持ち上げ、星を見た。
「鏡は見せてくれなかった……。思い出せなかった。どうしてわたしは向こうに行ったのか。どうして夜鷹は向こうに行ったのか。でもそれは問題じゃない」
「うん、だからね。言ってるでしょ。連れてこなければいいんだって」
「おまえにはわたしの気持ちなど分からない。わたしたちが昼の国で何をされてきたのか。夜鷹を必要とするわたしの気持ちなんて、何も分かってない!」
アルテリアが手を降ろそうとした瞬間、その身体が軽く後ろに吹き飛んだ。
地面に押さえつけられ、首を絞められていると気付いたのは、瞬きを一度した後だった。ぼたぼたと冷たい水が頬に落ちてくる。
昭晶は嗚咽していた。
八つ当たりのように首を絞められていた。
まるで幼い子供だ。自分の思い通りにならなければ、暴れて泣く。いくら鬼の力が戻ったとはいえ、その力を理性で制御できるほどには成熟していない。
こういう子供を叱ることができるのは、母しかいない。
アルテリアは今まで一度も母の元に戻ったことがない。母に呼ばれたことがなかった。
母は幻影の城にいることは知っている。その城から常に星の子たちを見守っているのも知っている。だが、アルテリアが困った時も、泣いた時も、母は自分を城に呼んでくれなかった。
昭晶が一度、母の元に行ったというのも知っている。だからこそ、嫉妬しているのかもしれない。こんな未熟な弟が自分よりも母に可愛がられるのが許せなかった。
昭晶の衣に火を放った。夜色の衣は一瞬にして青い炎に包まれる。
彼の身体を蹴飛ばし、咳き込みながら立ち上がる。
「君は、一度、星に戻ったほうがいいのかもね」
叫びもせず、助けを乞うこともせず、昭晶は静かに皮膚を燃やしていた。
昭晶の身体から、ちかちかと光がほとばしる。星の光だった。
弟を星に戻そうと、両の手を叩こうとした時、アルテリアは重力が逆になったのを感じた。
「やめなさい。母は望んでいません」
凛とした声に、アルテリアは思わず頭を下げた。
星に包まれた幻想の空間に立っている。母は月となり、二人を見下ろしていた。仮面の顔が悲しみに歪んでいる。
昭晶は自分の隣で俯き、座り込んでいた。母を見上げることもしていない。
「お母様」
アルテリアが呼ぶと母の顔が空から落ちてくる。
どろりとした黒い塊が徐々に女性の身体になる。自分が想像していた通りの母の姿だった。母は理想の形になってくれているのだ。
「兄弟喧嘩などみっともない」
アルテリアの顔がかっと赤くなる。
「お母様は、わたしがしたことをここから見てくださっていたのでしょう。わたしは何か間違えていましたか」
「あなたは今まで、一度も間違ったことはしていませんでしたよ。あなたは優秀です。今までのどの子よりも力があり、今までのどの子よりも母を慕ってくれています。だからこそ、今回は残念に思ったのです。あなたらしくない」
冷たい手が頬を包む。
「お母様」
「一度、森に帰りなさい。頭を冷やしてくるのです」
アルテリアは母の衣を掴もうとしたが、その手は空を掴んだ。
座り込んだまま動かない昭晶の前に女王はしゃがむ。
「母も悲しく思いますよ。あなたと同じ気持ちです。我が子がいなくなって悲しまない親はいません」
「でも……、夜鷹は人間だった。人間だったんだ」
「母に一つ、考えがあります。聞いてくれますか」
涙に濡れた顔を上げる。滲む視界の中で見えたのは、白く輝く美しい仮面の顔だった。
しびれを切らした珠が彼らを風で追い払うが、翼を持つ妖精たちはしつこく昭晶に纏わりついた。
「それ以上、王に触るな」
霧の妖精は言う事を聞かない。いたずらと噂が好きな妖精が天女と似た種族であることが未だに信じられない。
一方、昭晶は妖精の言葉も、傷が触られたことも、何も気付いていない。珠が語りかけても反応がない。
傷心してしまっている。それもそうだ。心の支えにしていた友人、夜の子である兄弟に拒絶されてしまったのだ。
彼は今日を心待ちにしていた。昼の国に行き、人間たちを眠らせ、その間に夜の子を見つけて連れて帰る。そのために、天女の力が最も強くなる新月の日を選んだ。これ自体はそんなに難しいことではない。必ず一緒に帰れると思っていた。だが、そうならなかった。
留守の城を守っていた狼星が昭晶を迎える。
「お帰りなさいませ」
恭しく頭を下げたあと、珠に目配せをする。珠は首を横に振った。
昭晶が最上階の部屋に戻ったあと、珠から話を聞いた狼星は驚く。
「夜の子なのに、人間だった? そんなことあるのか」
「鏡は嘘をつかない。彼は自分が人間であることを確信していた。ならば、人間なのだろう。理由は分からないが」
珠は手にしていた鏡を見る。そこに映るのは、雲から生まれ落ちる自分の過去。
これは慈悲深い夜の女王が地上の者たちに授けたものだ。鏡を信じないということは、母を信じないことに等しい。
鏡面がきらりと光る。珠ははっとした。
狼星が珠を抱き、後方に飛んだ。自分たちがいた場所の床がえぐれている。埃と木材の塵が舞い上がる。
「おまえたち、昼の国に行ったね」
塵の中から出てきたのは、アルテリアだった。気怠げに溜息をつく。
「法を破ったらどうなるか分かっていて行ったでしょ。わたしは法を作った際、兄弟たちには忠告したよ。もし破れば、裁きを受けることになるって。あの子はどこにいる。匿っているだろう」
アルテリアの問いに、狼星と珠は答えない。
鬼たちが集まる。王の危機を感じた兵たちだ。
「法についてはじゅうぶん理解しています。昼の国へ向かった鬼や天女は、わたくしどもが迅速に罰を与えております。今回は王と共に昼の国に落ちた星の子を探しに向かっただけです。賢者、どうか」
「そんな話、理由にはならないよ。今回はね、星の子が法を破ったんだ。お母様の実の子がお母様の創った国を滅茶苦茶にするかもしれなかったんだ。兄弟だからこそ、許せないんだよ」
賢者が指を振れば、兵たちがどこかへ消えた。指を鳴らせば、城の中の扉や襖が開いた。
天空から駆けつけた天女たちが賢者を止めようとするが、軽々と飛ばされてしまう。
昭晶はすぐに見つかった。賢者を一瞥し、うつむいた。
賢者が腕を上げるのと同時に、昭晶の身体は地面に叩きつけられていた。
「どうして昼の国に落ちたのか知らないけどさ。君は王としてこちらに戻ってきた。だったら、守ってもらわなきゃ」
昭晶の指がぴくりと動く。
アルテリアは面倒くさそうに手をくるりと回す。昭晶の周りに鈍く光る楔が浮かんだ。
「まだ諦めてないでしょ。知ってるよ。鏡で見ていたから。ヨタカだったね。彼、星の子なのに人間だったんだってね。だったら無理だ。連れてくることはできないよ」
楔は昭晶の首元まで降りてくる。
瞼を持ち上げ、星を見た。
「鏡は見せてくれなかった……。思い出せなかった。どうしてわたしは向こうに行ったのか。どうして夜鷹は向こうに行ったのか。でもそれは問題じゃない」
「うん、だからね。言ってるでしょ。連れてこなければいいんだって」
「おまえにはわたしの気持ちなど分からない。わたしたちが昼の国で何をされてきたのか。夜鷹を必要とするわたしの気持ちなんて、何も分かってない!」
アルテリアが手を降ろそうとした瞬間、その身体が軽く後ろに吹き飛んだ。
地面に押さえつけられ、首を絞められていると気付いたのは、瞬きを一度した後だった。ぼたぼたと冷たい水が頬に落ちてくる。
昭晶は嗚咽していた。
八つ当たりのように首を絞められていた。
まるで幼い子供だ。自分の思い通りにならなければ、暴れて泣く。いくら鬼の力が戻ったとはいえ、その力を理性で制御できるほどには成熟していない。
こういう子供を叱ることができるのは、母しかいない。
アルテリアは今まで一度も母の元に戻ったことがない。母に呼ばれたことがなかった。
母は幻影の城にいることは知っている。その城から常に星の子たちを見守っているのも知っている。だが、アルテリアが困った時も、泣いた時も、母は自分を城に呼んでくれなかった。
昭晶が一度、母の元に行ったというのも知っている。だからこそ、嫉妬しているのかもしれない。こんな未熟な弟が自分よりも母に可愛がられるのが許せなかった。
昭晶の衣に火を放った。夜色の衣は一瞬にして青い炎に包まれる。
彼の身体を蹴飛ばし、咳き込みながら立ち上がる。
「君は、一度、星に戻ったほうがいいのかもね」
叫びもせず、助けを乞うこともせず、昭晶は静かに皮膚を燃やしていた。
昭晶の身体から、ちかちかと光がほとばしる。星の光だった。
弟を星に戻そうと、両の手を叩こうとした時、アルテリアは重力が逆になったのを感じた。
「やめなさい。母は望んでいません」
凛とした声に、アルテリアは思わず頭を下げた。
星に包まれた幻想の空間に立っている。母は月となり、二人を見下ろしていた。仮面の顔が悲しみに歪んでいる。
昭晶は自分の隣で俯き、座り込んでいた。母を見上げることもしていない。
「お母様」
アルテリアが呼ぶと母の顔が空から落ちてくる。
どろりとした黒い塊が徐々に女性の身体になる。自分が想像していた通りの母の姿だった。母は理想の形になってくれているのだ。
「兄弟喧嘩などみっともない」
アルテリアの顔がかっと赤くなる。
「お母様は、わたしがしたことをここから見てくださっていたのでしょう。わたしは何か間違えていましたか」
「あなたは今まで、一度も間違ったことはしていませんでしたよ。あなたは優秀です。今までのどの子よりも力があり、今までのどの子よりも母を慕ってくれています。だからこそ、今回は残念に思ったのです。あなたらしくない」
冷たい手が頬を包む。
「お母様」
「一度、森に帰りなさい。頭を冷やしてくるのです」
アルテリアは母の衣を掴もうとしたが、その手は空を掴んだ。
座り込んだまま動かない昭晶の前に女王はしゃがむ。
「母も悲しく思いますよ。あなたと同じ気持ちです。我が子がいなくなって悲しまない親はいません」
「でも……、夜鷹は人間だった。人間だったんだ」
「母に一つ、考えがあります。聞いてくれますか」
涙に濡れた顔を上げる。滲む視界の中で見えたのは、白く輝く美しい仮面の顔だった。