4章
怒りの表情を浮かべている香花に、夜鷹は後ずさりをする。
来てはいけなかった。昭晶がいないことを、もうとっくに彼女は知ってしまっている。
夜の間、昭晶を任されているのは自分と寧子だ。疑われるのは、まずは自分である。
「あの子はどこへ行ったのです」
夜鷹は黙っていた。
どうせ香花は信じないだろうと思ったからだ。ドロシーから聞かされた話も、自分がこの目で見たことも、どれも香花は信じない。香花に限った話ではない。大人たちは夢だろうと笑うはずだ。お前は海向こうの変わり者に嘘を言われたのだと。
だが自分の目が見たものは疑いようのない真実だ。嘘はつきたくない。だから言わなかった。
背後には香花に付き添っている兵二人がいる。顔をよく見れば、過去、共に生活をしていた兄たちだった。
「逃げられませんよ、夜鷹」
香花は裸足のまま廊から降り、夜鷹の前へと来る。
兄たちが夜鷹の腕を掴み、地面に押し付けた。
「黙るということは、罪があると言っているのと同じことですよ」
「それは違います!」
「では、教えなさい。あの子はどこにいるのです」
香花に頬を鷲掴みにされる。女だと思えないほどの力があった。
「今までずっと放っていたのに、何を今更。昭晶から聞いていますよ。あなたから、母らしいことは何一つしてもらってないって」
「義理ですからね」
ふふ、と香花は笑った。
「あの子が私から真実を聞かされた時、どう反応したか、知らないでしょう。あの子は、母を返せと言ったのですよ。最初からわたくしを信じていなかったのです。ありえないでしょう。わたくしが母を奪ったと言うのですよ。そんなことしていないのに。どうしてそんな子の母親をしなければならないのですか」
右頬をぶたれる。
「王の気が変わりました。あの子を今日、船に乗せることが決まったのです。早く教えなさい。あの子はどこに」
夜鷹は口の中に溜まった血を吐き捨てた。
「教えません。あなたには、絶対に」
香花は歪んだ笑みを浮かべると、兄たちに命令した。
「あの地下へ連れて行きなさい。このあと、私が直接聞きだしましょう」
ぎりぎりと手首を縄で縛られる。香花が去ろうとする際、夜鷹は叫んだ。
「こんな人だとは思ってなかった!」
縄を引っ張られ、星宮の裏にあった階段まで連れて行かれる。ここにこのような階段があるとは知らなかった。草に覆われており、見張りもない。この階段の存在に気付くのは困難だった。
階段は光のない地下洞窟へと続いていた。冷たく、淀んだ空気が流れている。
「あの人を、まだ母親だと思っているのか」
先を歩く兄に問いかける。彼は立ち止まり、振り返った。松明の光が顔を照らし出す。
やりたくないことをやらされているのか、彼の顔は強張っていた
「思うもんか。思いたくもない。だけどな、夜鷹。香花様は、王族の一人だぞ。本当の家族じゃないんだ。俺たちは捨て子で、拾われた身なんだよ。俺たちだって、あの人の本性を知った時、同じように絶望した。けれど、絶望したところで、現実は変わらないんだ。俺たちは、あの人を母だと思い込み、あの人の言う事を聞かないと駄目なんだ」
行くぞ、と縄を引かれる。
気が変わってくれればいいと思っているのか、兄たちの歩みは遅かった。だが、決して、夜鷹の気が変わることはなかった。
めちゃくちゃだ、ここは。昭晶がここから逃げ出したくなる気持ちも分かる。
水の滴る洞窟の廊を歩いていると、松明が何かを照らしていることに気付く。牢の奥には、白骨があった。腐臭が漂ってきて吐きそうにもなった。
「お前もああなりたいのか。引き返すなら、今だぞ」
「俺たちは、何人もここに兄弟を入れてきた。妹も姉もここに来ている。もう嫌なんだ、兄弟が死ぬのは」
頼むよ、と、掠れた声で兄は夜鷹の肩を掴んだ。
「でも、俺は嫌だ。それに、俺は、守らないといけない人がいる」
肩に置かれた手が、力なく落ちていった。
「分かった。じゃあ、納得するまで、抗ったらいい。夜鷹、俺たちには分からない。どうして、ここに来る兄弟は、みんな、そんなに現実を拒む。待っているのは死なのに」
鉄の頑丈な牢の中に入れられ、扉が閉じられる。鉄の擦れる冷たい音が、耳に残った。鍵をかけられ、兄たちは洞窟を後にする。
明かりはなくなったが、夜鷹の目は全てが見えていた。
現実を拒んでいるのではない。現実を変えたいのだ。自分の人生を自分の足で歩いていきたいだけなんだ。兄たちに言えなかったことが、胸の中に寂しく響く。
ほどなくして、香花が夜鷹の元へとやってきた。先ほど一緒だった兄たちも後ろに控えている。
「気持ちは変わりましたか、夜鷹」
「変わりません。昭晶はここに戻るべきではないし、俺もあなたのことはもう二度と母とは言いません」
鍵が開けられ、香花が入ってくる。
夜鷹の腹を蹴った。突然の痛みに、夜鷹は床に崩れ落ちる。
蹴ったのは兄ではない。香花だ。
「では、もう母親を演じなくてよいですね」
今度は頬を蹴られる。爪先の尖った靴だ。鋭く皮膚に食い込んでくる。
「散々、あなたに良くしてきたのに。わたくしにそのようなことを言うのですね。恩というのはないのですか」
「ありません。あなたは、一度も、誰の母親にもなっていないじゃないですか。そこの兄さんも、軍にいる兄さんたちも、俺も、弟も、妹も、みんな」
背中に踵がぎりぎりと食い込んでくる。八つ当たりのように何度も蹴られた。香花の口から、顔に似合わない汚い言葉が出てくる。
残された力を使い、香花を見上げた。
「俺たちは騙されたんだ」
「そうですよ。だって、嫌ですもの。お兄様に捨てられるのは。わたくしは兄弟の中で唯一の女でした。非力な女だと思われたくないのです。ですから、このように、お兄様の力になる子供たちを育ててきました。たくさんの子供たちを育てたのですよ。母親でないのに、そこまでしてやったのです。本当は道端で死ぬはずだった子供たちを救ってやったのですよ」
髪を鷲掴みにされ、持ち上げられた。呻き声が漏れる。
「夜鷹。あなたは新しい駒になるはずでした。わたくしたちが弱みとしている夜。その夜を自由に動くことのできる夜廻。荒くれ者の多い組織で、手懐けるのが難しかった。夜鷹がこのまま何事もなく、牛目の跡を継げば、夜廻はわたくしたちのものになったのに」
「俺は……頭領に、最初からそのつもりで、あなたに預けられたのですか……」
「いいえ。仕方なくですよ。彼は自分の娘一人を育てるのに手一杯だったのです。でも、それで夜廻から子供をもらえたので、幸運だと思いました」
「そうですか……、だったら、良かったです。頭領と、夜廻には、感謝しているので……」
どさりと床に落とされる。
立ち上がろうにも、身体が痛く、力が入らない。女にここまでされるなんて、思っていなかった。
「それで、あの子の行方は話してはくれないのですね」
「絶対に言いません。昭晶は、ここに戻ってくるべきではない」
「そうですか。では、もうここで死ぬしかないですね。見損ないましたよ、夜鷹」
名前もつけてあげたのに。香花はそう呟いた。
頼んでもないことを――そう思ったが、子供は親を選ぶことはできない。
「一つ、教えてあげましょう」
鍵がかけられた。香花は扉の向こうから話しかけてくる。
「あの子は、誰の腹からも産まれていませんよ」
「どういうこと……」
「お兄様にはたくさんの妾がいました。子に恵まれず、殺された妾もたくさんいました。その妾の一人が、ある夜、祈祷をしていたのです。すると、そこに星が落ち、赤子となりました。それがあの子です。まあ、そんな話、誰も信じませんでしたし、わたくしも信じておりませんが」
星。その言葉に、夜鷹は夜の国の星空を思い出す。最初は薄気味悪く感じた星空だったが、今となっては、どこか懐かしさを感じる。
幼少の頃、自分はあの空の元に戻りたくて、孤児院を抜け出したのではないかと思うほどに。
「さて、お兄様になんて説明しようかしら。行きましょう」
香花は兄を連れて、地上へと戻っていこうとする。
そんな彼女の背中に、夜鷹は吐き捨てた。
「全部、自分の思い通りにしようなんて思わないほうがいいですよ」
「その言葉、そこに転がっている骨たちに何度も言われてきましたね。では」
洞窟に静寂が訪れる。
痛む身体を抱え込み、夜鷹は目を瞑った。今は、もう何も見たくない。
来てはいけなかった。昭晶がいないことを、もうとっくに彼女は知ってしまっている。
夜の間、昭晶を任されているのは自分と寧子だ。疑われるのは、まずは自分である。
「あの子はどこへ行ったのです」
夜鷹は黙っていた。
どうせ香花は信じないだろうと思ったからだ。ドロシーから聞かされた話も、自分がこの目で見たことも、どれも香花は信じない。香花に限った話ではない。大人たちは夢だろうと笑うはずだ。お前は海向こうの変わり者に嘘を言われたのだと。
だが自分の目が見たものは疑いようのない真実だ。嘘はつきたくない。だから言わなかった。
背後には香花に付き添っている兵二人がいる。顔をよく見れば、過去、共に生活をしていた兄たちだった。
「逃げられませんよ、夜鷹」
香花は裸足のまま廊から降り、夜鷹の前へと来る。
兄たちが夜鷹の腕を掴み、地面に押し付けた。
「黙るということは、罪があると言っているのと同じことですよ」
「それは違います!」
「では、教えなさい。あの子はどこにいるのです」
香花に頬を鷲掴みにされる。女だと思えないほどの力があった。
「今までずっと放っていたのに、何を今更。昭晶から聞いていますよ。あなたから、母らしいことは何一つしてもらってないって」
「義理ですからね」
ふふ、と香花は笑った。
「あの子が私から真実を聞かされた時、どう反応したか、知らないでしょう。あの子は、母を返せと言ったのですよ。最初からわたくしを信じていなかったのです。ありえないでしょう。わたくしが母を奪ったと言うのですよ。そんなことしていないのに。どうしてそんな子の母親をしなければならないのですか」
右頬をぶたれる。
「王の気が変わりました。あの子を今日、船に乗せることが決まったのです。早く教えなさい。あの子はどこに」
夜鷹は口の中に溜まった血を吐き捨てた。
「教えません。あなたには、絶対に」
香花は歪んだ笑みを浮かべると、兄たちに命令した。
「あの地下へ連れて行きなさい。このあと、私が直接聞きだしましょう」
ぎりぎりと手首を縄で縛られる。香花が去ろうとする際、夜鷹は叫んだ。
「こんな人だとは思ってなかった!」
縄を引っ張られ、星宮の裏にあった階段まで連れて行かれる。ここにこのような階段があるとは知らなかった。草に覆われており、見張りもない。この階段の存在に気付くのは困難だった。
階段は光のない地下洞窟へと続いていた。冷たく、淀んだ空気が流れている。
「あの人を、まだ母親だと思っているのか」
先を歩く兄に問いかける。彼は立ち止まり、振り返った。松明の光が顔を照らし出す。
やりたくないことをやらされているのか、彼の顔は強張っていた
「思うもんか。思いたくもない。だけどな、夜鷹。香花様は、王族の一人だぞ。本当の家族じゃないんだ。俺たちは捨て子で、拾われた身なんだよ。俺たちだって、あの人の本性を知った時、同じように絶望した。けれど、絶望したところで、現実は変わらないんだ。俺たちは、あの人を母だと思い込み、あの人の言う事を聞かないと駄目なんだ」
行くぞ、と縄を引かれる。
気が変わってくれればいいと思っているのか、兄たちの歩みは遅かった。だが、決して、夜鷹の気が変わることはなかった。
めちゃくちゃだ、ここは。昭晶がここから逃げ出したくなる気持ちも分かる。
水の滴る洞窟の廊を歩いていると、松明が何かを照らしていることに気付く。牢の奥には、白骨があった。腐臭が漂ってきて吐きそうにもなった。
「お前もああなりたいのか。引き返すなら、今だぞ」
「俺たちは、何人もここに兄弟を入れてきた。妹も姉もここに来ている。もう嫌なんだ、兄弟が死ぬのは」
頼むよ、と、掠れた声で兄は夜鷹の肩を掴んだ。
「でも、俺は嫌だ。それに、俺は、守らないといけない人がいる」
肩に置かれた手が、力なく落ちていった。
「分かった。じゃあ、納得するまで、抗ったらいい。夜鷹、俺たちには分からない。どうして、ここに来る兄弟は、みんな、そんなに現実を拒む。待っているのは死なのに」
鉄の頑丈な牢の中に入れられ、扉が閉じられる。鉄の擦れる冷たい音が、耳に残った。鍵をかけられ、兄たちは洞窟を後にする。
明かりはなくなったが、夜鷹の目は全てが見えていた。
現実を拒んでいるのではない。現実を変えたいのだ。自分の人生を自分の足で歩いていきたいだけなんだ。兄たちに言えなかったことが、胸の中に寂しく響く。
ほどなくして、香花が夜鷹の元へとやってきた。先ほど一緒だった兄たちも後ろに控えている。
「気持ちは変わりましたか、夜鷹」
「変わりません。昭晶はここに戻るべきではないし、俺もあなたのことはもう二度と母とは言いません」
鍵が開けられ、香花が入ってくる。
夜鷹の腹を蹴った。突然の痛みに、夜鷹は床に崩れ落ちる。
蹴ったのは兄ではない。香花だ。
「では、もう母親を演じなくてよいですね」
今度は頬を蹴られる。爪先の尖った靴だ。鋭く皮膚に食い込んでくる。
「散々、あなたに良くしてきたのに。わたくしにそのようなことを言うのですね。恩というのはないのですか」
「ありません。あなたは、一度も、誰の母親にもなっていないじゃないですか。そこの兄さんも、軍にいる兄さんたちも、俺も、弟も、妹も、みんな」
背中に踵がぎりぎりと食い込んでくる。八つ当たりのように何度も蹴られた。香花の口から、顔に似合わない汚い言葉が出てくる。
残された力を使い、香花を見上げた。
「俺たちは騙されたんだ」
「そうですよ。だって、嫌ですもの。お兄様に捨てられるのは。わたくしは兄弟の中で唯一の女でした。非力な女だと思われたくないのです。ですから、このように、お兄様の力になる子供たちを育ててきました。たくさんの子供たちを育てたのですよ。母親でないのに、そこまでしてやったのです。本当は道端で死ぬはずだった子供たちを救ってやったのですよ」
髪を鷲掴みにされ、持ち上げられた。呻き声が漏れる。
「夜鷹。あなたは新しい駒になるはずでした。わたくしたちが弱みとしている夜。その夜を自由に動くことのできる夜廻。荒くれ者の多い組織で、手懐けるのが難しかった。夜鷹がこのまま何事もなく、牛目の跡を継げば、夜廻はわたくしたちのものになったのに」
「俺は……頭領に、最初からそのつもりで、あなたに預けられたのですか……」
「いいえ。仕方なくですよ。彼は自分の娘一人を育てるのに手一杯だったのです。でも、それで夜廻から子供をもらえたので、幸運だと思いました」
「そうですか……、だったら、良かったです。頭領と、夜廻には、感謝しているので……」
どさりと床に落とされる。
立ち上がろうにも、身体が痛く、力が入らない。女にここまでされるなんて、思っていなかった。
「それで、あの子の行方は話してはくれないのですね」
「絶対に言いません。昭晶は、ここに戻ってくるべきではない」
「そうですか。では、もうここで死ぬしかないですね。見損ないましたよ、夜鷹」
名前もつけてあげたのに。香花はそう呟いた。
頼んでもないことを――そう思ったが、子供は親を選ぶことはできない。
「一つ、教えてあげましょう」
鍵がかけられた。香花は扉の向こうから話しかけてくる。
「あの子は、誰の腹からも産まれていませんよ」
「どういうこと……」
「お兄様にはたくさんの妾がいました。子に恵まれず、殺された妾もたくさんいました。その妾の一人が、ある夜、祈祷をしていたのです。すると、そこに星が落ち、赤子となりました。それがあの子です。まあ、そんな話、誰も信じませんでしたし、わたくしも信じておりませんが」
星。その言葉に、夜鷹は夜の国の星空を思い出す。最初は薄気味悪く感じた星空だったが、今となっては、どこか懐かしさを感じる。
幼少の頃、自分はあの空の元に戻りたくて、孤児院を抜け出したのではないかと思うほどに。
「さて、お兄様になんて説明しようかしら。行きましょう」
香花は兄を連れて、地上へと戻っていこうとする。
そんな彼女の背中に、夜鷹は吐き捨てた。
「全部、自分の思い通りにしようなんて思わないほうがいいですよ」
「その言葉、そこに転がっている骨たちに何度も言われてきましたね。では」
洞窟に静寂が訪れる。
痛む身体を抱え込み、夜鷹は目を瞑った。今は、もう何も見たくない。