3章
身体がぴくりと動く。手に力を入れてみる。爪が床を引っ掻いた。
重たい身体を持ち上げる。意識はちゃんとある。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。昭晶は闇の中にいた。だが、天を仰いだ瞬間、自分が見ている光景に驚いた。
無数の星が輝いていた。天を覆い尽くすほどの光の布が、風もないのに自由に揺らいでいた。
はっとして、自分の額を触ってみる。硬いものが二つあった。鏡が見せつけてきた、あの角だ。生暖かく、血が通っているのが分かる。
やはり自分は鬼だったのだ。でもどうして。
今まで、人間として、昼の国で生きてきた。これが真の姿だとして、どうして自分はあの国にいたのだろう。
「我が子よ」
突然、何かが頬に触れた。すうっと撫でてくる。嫌な感じはしなかった。
「ここは」
「私の城。私が呼んだ者だけが来ることができる、幻影の夜。おまえが痛みに叫んでいたから、痛みから逃がしてあげたのだよ。探していたよ。私の夜のドレスからこぼれ落ちた星。私の愛しい夜の子供。立派な角があるね。とても美しい」
「誰」
「民は、私のことを、夜の女王と呼ぶ。私はこの夜の国の母、そして、おまえの母」
地面が盛り上がり、黒いどろどろが目の前にそびえ立った。それは次第に、女の姿へと変わる。
まとっているのは、星がきらめく服だった。顔は白い仮面がつけられていて、表情が分からない。
この不思議な闇が、自分の母だと言っている。昭晶は咄嗟に頬を撫でる指を払った。
「そんなはずない。わたしの母は、とうの昔に死んでいる」
「覚えてないのだね。かわいそうに。思い出させてあげよう」
女王は手に何かを持っていた。星のきらめく薄い衣だ。それを頭からかぶせられる。
「さあ、目を瞑って。深い夢が思い出させてくれるだろう。目が覚めた時、おまえは私のことを母と呼ぶだろう」
言われるまま、目を瞑る。抗うことのできない眠気が襲ってきて、昭晶は崩れ落ちた。
まず見たのは、流星だった。
女王の纏う衣は、空を覆っていた。あの夜の国の星空は、女王の衣の裾だったのだ。星は衣から飛び出し、尾を引いて飛んだ。
それが自分だとすぐに気が付いた。自分は星の子だった。
星は自由に飛んだ。気が付けば、昼の国の空を飛んでいた。冬の澄んだ空気の中を飛ぶのは、とても心地よかった。
落ちた先は、よく知る宮の中だった。祭殿の前で、女が祈祷をしている。
女はぶつぶつと何かを願っていた。
「王の子を、私に王の子をお授けください……」
きっと妾だ。王の子供を宿すだけの妾として、宮中にいる女。その女の元へ、星は落ちていった。
女は驚きのまま、光り輝く星を手にとった。星は人間の赤子へと姿を変える。
そのことを王に報告すると、妾はすぐさま王に殺された。そのような摩訶不思議なことは認められなかったのだ。
だが、王は赤子を殺しはしなかった。子はいくらいてもいいからだ。愛しいという感情は一つもなかった。それは昭晶だけの話ではない。他の子供たちも、手駒のうちの一つでしかない。
赤子は昭晶と名付けられたが、王族の習わしとして、成長とともに様々な名が与えられた。昭晶という名を呼ぶのは、いつしか、夜鷹と寧子のみとなった。
「本当は、おまえは、夜の愛し子として、夜を支える者の一人となっていたはずだった。おまえがいなくなったことで、東の孤島に住まう鬼と天女には、王がいなくなった。新しい王を迎え入れる準備はできていたのに」
夢から覚めると、女王に抱かれていた。その優しさに、昭晶は驚く。
母とは、このような存在なのかと、ここで初めて知ったのだ。
「どうして、おまえは昼に行ってしまった。わたしが嫌だったのか。それとも、この国が嫌だったのか。鬼の国に生まれ落ちるのが嫌だったのか」
「それは……思い出せません。母上のことが嫌いというわけでは、ないと思います」
母を抱きしめ返す。嫌だったら、とっくに母の手を振り払っていたはずだ。
「この国にいてくれるか」
「はい」
そう返すと、仮面の表情が変わった。女王は満足したかのように笑い、空へと戻っていった。
気が付けば、城に戻っていた。自分の手を見ると、血がべっとりとついていた。そのにおいに吐き気がして、胃の中のものを全て出した。
血と一緒に手を握りしめ、胃がひっくり返りそうな感覚に耐える。床も服も顔も全てぐしゃぐしゃになった。
出てくるものは胃液だけとなり、ほどなくして落ち着く。袖で口を拭い、深く息を吐いた。
出血も嘔吐も滅多にしないから、油断するとまた意識を手放してしまいそうだった。額はしばらく触れそうにない。
「あー、いたいた。探したよ」
背後で何者かが話しかけてくる。
「もう一人の人間って、君のこと? うわあ……なんか、すごいね。見てられないよ」
白い髪、白い装束、尖った耳。見知らぬ者が背後に立っていた。深い森を思わせる瞳が昭晶を見据えている。男か女か分からない風貌だった。
困惑しているようだ。
彼は指を一振りし、昭晶に纏わりついていた汚れを一瞬で消し去った。綺麗になった顔を、まじまじと見つめてくる。
「うん……? 君、人間じゃないな。人違いだったかな。角、あるし」
「元人間は、わたしのことだけど」
「え、なに。人間から鬼になったってこと? いや、違うな……、戻ってきたんだ。君は、わたしの兄弟じゃないか」
誰なのか聞くと、エルフの王、アルテリアだと言った。同じ母から生まれた星の子なのだと。
あの空から落ちてきた星の子は、どこかの種族の王となり、夜の柱としてこの国を守るのが決まりだと彼は語った。
「何があったのかは知らないけど、よく戻ってきたね。ヨタカって子が君を探していたってことは伝えておくよ」
「夜鷹もこっちに来てたのか。彼は今どこにいる」
「向こうに返したよ。だって、彼、人間じゃん。あーあ、疲れた。何も問題ないじゃないか。わざわざ森から出て来る必要はなかったよ。もう帰る。じゃあね、兄弟」
足元が光ったかと思いきや、アルテリアは一瞬にして姿を消した。この世界には、不思議なことがたくさんある。
夜鷹がこちらに来ていた。そのことが、昭晶には嬉しく感じられた。夜鷹は自分を追ってこちらに来ていたのだ。
アルテリアに会い、返されたのは不運だ。やはりあの時、夜鷹も一緒に来るべきだった。
床に落ちていた鏡を手に取る。
「もう一度、あの空を見せてほしい」
昭晶がそう頼むと、鏡は言われたままに、景色を映し出した。この道具の使い方を、昭晶は自然と分かっていた。
真の姿を映し出すだけではない。過去の真実をも見せてくれるのだ。
昭晶は確認する。流星は一つではなかったことを。
夜鷹を迎えに行かなければ。あの理不尽な世界から、こちらに連れて来なければならない。
昭晶はすぐに珠を呼んだ。
珠は、昭晶の額にある角を見た瞬間、恭しく頭を下げた。
重たい身体を持ち上げる。意識はちゃんとある。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。昭晶は闇の中にいた。だが、天を仰いだ瞬間、自分が見ている光景に驚いた。
無数の星が輝いていた。天を覆い尽くすほどの光の布が、風もないのに自由に揺らいでいた。
はっとして、自分の額を触ってみる。硬いものが二つあった。鏡が見せつけてきた、あの角だ。生暖かく、血が通っているのが分かる。
やはり自分は鬼だったのだ。でもどうして。
今まで、人間として、昼の国で生きてきた。これが真の姿だとして、どうして自分はあの国にいたのだろう。
「我が子よ」
突然、何かが頬に触れた。すうっと撫でてくる。嫌な感じはしなかった。
「ここは」
「私の城。私が呼んだ者だけが来ることができる、幻影の夜。おまえが痛みに叫んでいたから、痛みから逃がしてあげたのだよ。探していたよ。私の夜のドレスからこぼれ落ちた星。私の愛しい夜の子供。立派な角があるね。とても美しい」
「誰」
「民は、私のことを、夜の女王と呼ぶ。私はこの夜の国の母、そして、おまえの母」
地面が盛り上がり、黒いどろどろが目の前にそびえ立った。それは次第に、女の姿へと変わる。
まとっているのは、星がきらめく服だった。顔は白い仮面がつけられていて、表情が分からない。
この不思議な闇が、自分の母だと言っている。昭晶は咄嗟に頬を撫でる指を払った。
「そんなはずない。わたしの母は、とうの昔に死んでいる」
「覚えてないのだね。かわいそうに。思い出させてあげよう」
女王は手に何かを持っていた。星のきらめく薄い衣だ。それを頭からかぶせられる。
「さあ、目を瞑って。深い夢が思い出させてくれるだろう。目が覚めた時、おまえは私のことを母と呼ぶだろう」
言われるまま、目を瞑る。抗うことのできない眠気が襲ってきて、昭晶は崩れ落ちた。
まず見たのは、流星だった。
女王の纏う衣は、空を覆っていた。あの夜の国の星空は、女王の衣の裾だったのだ。星は衣から飛び出し、尾を引いて飛んだ。
それが自分だとすぐに気が付いた。自分は星の子だった。
星は自由に飛んだ。気が付けば、昼の国の空を飛んでいた。冬の澄んだ空気の中を飛ぶのは、とても心地よかった。
落ちた先は、よく知る宮の中だった。祭殿の前で、女が祈祷をしている。
女はぶつぶつと何かを願っていた。
「王の子を、私に王の子をお授けください……」
きっと妾だ。王の子供を宿すだけの妾として、宮中にいる女。その女の元へ、星は落ちていった。
女は驚きのまま、光り輝く星を手にとった。星は人間の赤子へと姿を変える。
そのことを王に報告すると、妾はすぐさま王に殺された。そのような摩訶不思議なことは認められなかったのだ。
だが、王は赤子を殺しはしなかった。子はいくらいてもいいからだ。愛しいという感情は一つもなかった。それは昭晶だけの話ではない。他の子供たちも、手駒のうちの一つでしかない。
赤子は昭晶と名付けられたが、王族の習わしとして、成長とともに様々な名が与えられた。昭晶という名を呼ぶのは、いつしか、夜鷹と寧子のみとなった。
「本当は、おまえは、夜の愛し子として、夜を支える者の一人となっていたはずだった。おまえがいなくなったことで、東の孤島に住まう鬼と天女には、王がいなくなった。新しい王を迎え入れる準備はできていたのに」
夢から覚めると、女王に抱かれていた。その優しさに、昭晶は驚く。
母とは、このような存在なのかと、ここで初めて知ったのだ。
「どうして、おまえは昼に行ってしまった。わたしが嫌だったのか。それとも、この国が嫌だったのか。鬼の国に生まれ落ちるのが嫌だったのか」
「それは……思い出せません。母上のことが嫌いというわけでは、ないと思います」
母を抱きしめ返す。嫌だったら、とっくに母の手を振り払っていたはずだ。
「この国にいてくれるか」
「はい」
そう返すと、仮面の表情が変わった。女王は満足したかのように笑い、空へと戻っていった。
気が付けば、城に戻っていた。自分の手を見ると、血がべっとりとついていた。そのにおいに吐き気がして、胃の中のものを全て出した。
血と一緒に手を握りしめ、胃がひっくり返りそうな感覚に耐える。床も服も顔も全てぐしゃぐしゃになった。
出てくるものは胃液だけとなり、ほどなくして落ち着く。袖で口を拭い、深く息を吐いた。
出血も嘔吐も滅多にしないから、油断するとまた意識を手放してしまいそうだった。額はしばらく触れそうにない。
「あー、いたいた。探したよ」
背後で何者かが話しかけてくる。
「もう一人の人間って、君のこと? うわあ……なんか、すごいね。見てられないよ」
白い髪、白い装束、尖った耳。見知らぬ者が背後に立っていた。深い森を思わせる瞳が昭晶を見据えている。男か女か分からない風貌だった。
困惑しているようだ。
彼は指を一振りし、昭晶に纏わりついていた汚れを一瞬で消し去った。綺麗になった顔を、まじまじと見つめてくる。
「うん……? 君、人間じゃないな。人違いだったかな。角、あるし」
「元人間は、わたしのことだけど」
「え、なに。人間から鬼になったってこと? いや、違うな……、戻ってきたんだ。君は、わたしの兄弟じゃないか」
誰なのか聞くと、エルフの王、アルテリアだと言った。同じ母から生まれた星の子なのだと。
あの空から落ちてきた星の子は、どこかの種族の王となり、夜の柱としてこの国を守るのが決まりだと彼は語った。
「何があったのかは知らないけど、よく戻ってきたね。ヨタカって子が君を探していたってことは伝えておくよ」
「夜鷹もこっちに来てたのか。彼は今どこにいる」
「向こうに返したよ。だって、彼、人間じゃん。あーあ、疲れた。何も問題ないじゃないか。わざわざ森から出て来る必要はなかったよ。もう帰る。じゃあね、兄弟」
足元が光ったかと思いきや、アルテリアは一瞬にして姿を消した。この世界には、不思議なことがたくさんある。
夜鷹がこちらに来ていた。そのことが、昭晶には嬉しく感じられた。夜鷹は自分を追ってこちらに来ていたのだ。
アルテリアに会い、返されたのは不運だ。やはりあの時、夜鷹も一緒に来るべきだった。
床に落ちていた鏡を手に取る。
「もう一度、あの空を見せてほしい」
昭晶がそう頼むと、鏡は言われたままに、景色を映し出した。この道具の使い方を、昭晶は自然と分かっていた。
真の姿を映し出すだけではない。過去の真実をも見せてくれるのだ。
昭晶は確認する。流星は一つではなかったことを。
夜鷹を迎えに行かなければ。あの理不尽な世界から、こちらに連れて来なければならない。
昭晶はすぐに珠を呼んだ。
珠は、昭晶の額にある角を見た瞬間、恭しく頭を下げた。