3章
夢だったのかと思ったが、枝に引っかかれた傷はちゃんと頬に残っていた。それに、袖が破れてしまっている。寧子が自分の頭に手を伸ばしてきた。どうやら葉がついていたらしい。真っ赤に紅葉した木の葉だった。
「お守りを持たせておいてよかったデス。いつかそうなると占いで出ていたので」
「あの。アルテリアという人に会ったんです。優れたまじない師だとかなんとか……」
そう言うと、ドロシーはにこりと笑った。知り合いなのだろうか。
ドロシーはお茶をいれてくると言って、部屋から出て行ってしまった。寧子と二人残される。
外からは明け方に鳴く鳥のさえずりが聞こえてくる。扉の隙間から光が入り込んでいた。
「寧子はどこまで知ってるんだよ」
「何のこと。私は何も知らないわよ。夜鷹が消えちゃったかと思った。怖くて、先生に助けを求めたけれど、先生はここで待っていればいいって言うし。何があったの」
言ったところで、信じてもらえないような気がする。それに、どう説明すればいいか分からない。
霧の中で出会った妖精という小さな種族に、魔法という摩訶不思議な術を使うエルフ。この世のものとは思えないほど星が輝く空。意思のある木々たち。
やはり自分は夢を見ていたのではないかと思う。だが、何度確認しても、傷はちゃんとあるし、服は裂けている。
「攫われたって言ったけど……」
昭晶の最後の言葉が耳に残っている。
「昭晶は、自分の意思で向こうに行ったんだ」
「どういうことよ、それ」
ほどなくして、ドロシーが盆を持って戻ってきた。あのアルテリアが使っていた急須と湯呑とほぼ同じ形のものがその上にある。
「それと同じものを向こうで見た」
「ポットとカップです。ワタシたちの国ではこの形が普通なのデスよ。飲んでくだサイ。この国の方々の口に合うようにハーブを組み合わせてみました」
口に含むと、爽やかな香りが鼻に抜けていく。後味もすっきりとしていて、美味しいと思った。
混乱する頭が落ち着きを取り戻した。
ドロシーは、巾着を渡すように促す。夜鷹は言われるまま、懐から巾着を取り出し、返した。
何かを確かめるかのように、巾着を開けて中身を出す。
砕けた石がぼろぼろと出てくる。その石に、お疲れ様でした、とドロシーは囁いた。
「向こうの方は、このまじないを使ってくれたのデスね」
「知り合いですか?」
「知り合いと言われれば、そうですね。ワタシは直接、顔を見たわけではありまセンが。過去、ある事件があり、協力した仲ではありマス」
揺れる椅子に腰掛けたドロシーは、静かに語り始めた。
「今から五年ほど前、ネコと出会うちょっと前のことです。ワタシたちゴンド島のまじない師は、あることに気が付きました。こちらの世界に、他の国の住民が混ざり込んでいることに。彼らは大人になっても、大人の人間の腰の高さまでしか育たず、小人と称されていました。見かけは人間なのに、ずいぶんと小さいのデス」
「それ、前に教えてもらった話だわ。人間と怪異が赤ちゃんの間に取り替えられてしまっていたって話」
「そう。まさにその話デス。怪異――小人は、人間を連れて行き、身体の大きな奴隷として働かせていたのです。人間を連れ戻し、小人たちを送り返さなければならないと、ワタシたちはまじないでどうにかしようとしました。ですが、当時のまじないでは、何もできませんデシた。夜の国への道を作ろうとすると、空の星が増えてしまうのデス。まじない師たちのしようとしていることに気が付いたのが、夜の国の賢者であるエルフの王です。ヨタカが出会った、その人ですよ」
アルテリアは、まじない師たちが夜と昼を繋げようとしたことにより、二つの国が混ざり始めていることに気付いた。
魔法で昼の国に来た彼は、ゴンド島で一番力のあるまじない師に、それ以上何もするなと忠告した。昼の国と夜の国が混ざり合うと、取り返しのつかないことになるのだという。
全て自分の魔法でなんとかする。人間を送り返すから、霧の中からでも場所が分かるように、強い明かりを灯して待っていろ。昼の国にいる小人たちを集め、カンテラを持たせて霧の中へ送れと言った。
アルテリアの言う通り、まじない師たちはまじないを施した硝子でカンテラを作り、ゴンド島を明るく照らした。
その間、アルテリアは小人たちを叱責し、囚われていた人間たちをカンテラのある場所へ返したのだという。
小人たちには、もう二度と人間を連れてくるなときつく言い、夜の国の者が昼の国へ行くことを禁じる法を作った。
ドロシーは小人を送ったまじない師の一人だった。この事件が起こったのは、ドロシーが一人前のまじない師と認められてすぐだった。
この事件について、島の外の国にも伝えなければならない。まじない師たちは、二度と人間が夜の国へ行かないように、まじないを持って島から旅立った。
「他のまじない師たちは、それぞれの街の夜警に協力を求めていると思いマス。カンテラと角笛を持ち、夜の国の者が近づかないようにしてくれと。ですが、この国は、文化が大きく異なりマシた。カンテラもなければ、角笛もありまセン。まずは、この国の人々に合うまじないを作り出す必要があり、それができるまで、ワタシはずっと黙っていたのデス。そう簡単には夜の国には迷い込まないだろうし、向こうの住民も、賢者の作った法を破ることはないだろうと思っていました。でも、それは甘い考えでシタ。だいぶ前から、夜の国の住民がこの都に来てはいたずらをしているのも知っていたのに。間に合わせることができまセンでした。怖い思いをさせてしまいましたね。ゴメンナサイ」
夜鷹は首を横に振った。
自分が無事に帰ることができたのは、ドロシーのまじないがあってのことだ。
それに、素直に謝られたことに驚く。
「じゃあ、俺は、アルテリアの言ったことを信じていいんですか。昭晶は自分から向こうへ行ったんです。それなのに、本当に帰ってくるでしょうか」
「向こうのことは、向こうの住民に任せるしか方法がありまセン。こちらにできることは、帰って来る場所を示すことだけデス。夜の国は、人間にとって、とても危険なところです。アルテリアのように温厚な住民もいれば、小人族のように小賢しい住民もいる。ワタシたちは、彼らに比べると、あまりにも非力です」
ドロシーの手を見た。草の汁が爪を染めている。
「まじないは、万能ではないんデス。それを覚えておいてください。まじないを学ぶには、まず、そのことを知らないといけまセン」
寧子は、黙って頷いた。
ドロシーの家から出たあと、夜鷹はこのことをどう報告しようかと頭を悩ませた。寧子も、すぐにはこのことを牛目に言わないはずだ。まだもう少し、ドロシーの元にいるとも言っていた。
まっすぐに夜廻の屋敷に帰ることができなかった。
この話を信じる大人なんかいるだろうか。
夜鷹は、再び星宮へと向かった。もう昭晶が戻ってきているかもしれないという期待もあった。
だが、彼の部屋にいたのは、香花だった。
「お守りを持たせておいてよかったデス。いつかそうなると占いで出ていたので」
「あの。アルテリアという人に会ったんです。優れたまじない師だとかなんとか……」
そう言うと、ドロシーはにこりと笑った。知り合いなのだろうか。
ドロシーはお茶をいれてくると言って、部屋から出て行ってしまった。寧子と二人残される。
外からは明け方に鳴く鳥のさえずりが聞こえてくる。扉の隙間から光が入り込んでいた。
「寧子はどこまで知ってるんだよ」
「何のこと。私は何も知らないわよ。夜鷹が消えちゃったかと思った。怖くて、先生に助けを求めたけれど、先生はここで待っていればいいって言うし。何があったの」
言ったところで、信じてもらえないような気がする。それに、どう説明すればいいか分からない。
霧の中で出会った妖精という小さな種族に、魔法という摩訶不思議な術を使うエルフ。この世のものとは思えないほど星が輝く空。意思のある木々たち。
やはり自分は夢を見ていたのではないかと思う。だが、何度確認しても、傷はちゃんとあるし、服は裂けている。
「攫われたって言ったけど……」
昭晶の最後の言葉が耳に残っている。
「昭晶は、自分の意思で向こうに行ったんだ」
「どういうことよ、それ」
ほどなくして、ドロシーが盆を持って戻ってきた。あのアルテリアが使っていた急須と湯呑とほぼ同じ形のものがその上にある。
「それと同じものを向こうで見た」
「ポットとカップです。ワタシたちの国ではこの形が普通なのデスよ。飲んでくだサイ。この国の方々の口に合うようにハーブを組み合わせてみました」
口に含むと、爽やかな香りが鼻に抜けていく。後味もすっきりとしていて、美味しいと思った。
混乱する頭が落ち着きを取り戻した。
ドロシーは、巾着を渡すように促す。夜鷹は言われるまま、懐から巾着を取り出し、返した。
何かを確かめるかのように、巾着を開けて中身を出す。
砕けた石がぼろぼろと出てくる。その石に、お疲れ様でした、とドロシーは囁いた。
「向こうの方は、このまじないを使ってくれたのデスね」
「知り合いですか?」
「知り合いと言われれば、そうですね。ワタシは直接、顔を見たわけではありまセンが。過去、ある事件があり、協力した仲ではありマス」
揺れる椅子に腰掛けたドロシーは、静かに語り始めた。
「今から五年ほど前、ネコと出会うちょっと前のことです。ワタシたちゴンド島のまじない師は、あることに気が付きました。こちらの世界に、他の国の住民が混ざり込んでいることに。彼らは大人になっても、大人の人間の腰の高さまでしか育たず、小人と称されていました。見かけは人間なのに、ずいぶんと小さいのデス」
「それ、前に教えてもらった話だわ。人間と怪異が赤ちゃんの間に取り替えられてしまっていたって話」
「そう。まさにその話デス。怪異――小人は、人間を連れて行き、身体の大きな奴隷として働かせていたのです。人間を連れ戻し、小人たちを送り返さなければならないと、ワタシたちはまじないでどうにかしようとしました。ですが、当時のまじないでは、何もできませんデシた。夜の国への道を作ろうとすると、空の星が増えてしまうのデス。まじない師たちのしようとしていることに気が付いたのが、夜の国の賢者であるエルフの王です。ヨタカが出会った、その人ですよ」
アルテリアは、まじない師たちが夜と昼を繋げようとしたことにより、二つの国が混ざり始めていることに気付いた。
魔法で昼の国に来た彼は、ゴンド島で一番力のあるまじない師に、それ以上何もするなと忠告した。昼の国と夜の国が混ざり合うと、取り返しのつかないことになるのだという。
全て自分の魔法でなんとかする。人間を送り返すから、霧の中からでも場所が分かるように、強い明かりを灯して待っていろ。昼の国にいる小人たちを集め、カンテラを持たせて霧の中へ送れと言った。
アルテリアの言う通り、まじない師たちはまじないを施した硝子でカンテラを作り、ゴンド島を明るく照らした。
その間、アルテリアは小人たちを叱責し、囚われていた人間たちをカンテラのある場所へ返したのだという。
小人たちには、もう二度と人間を連れてくるなときつく言い、夜の国の者が昼の国へ行くことを禁じる法を作った。
ドロシーは小人を送ったまじない師の一人だった。この事件が起こったのは、ドロシーが一人前のまじない師と認められてすぐだった。
この事件について、島の外の国にも伝えなければならない。まじない師たちは、二度と人間が夜の国へ行かないように、まじないを持って島から旅立った。
「他のまじない師たちは、それぞれの街の夜警に協力を求めていると思いマス。カンテラと角笛を持ち、夜の国の者が近づかないようにしてくれと。ですが、この国は、文化が大きく異なりマシた。カンテラもなければ、角笛もありまセン。まずは、この国の人々に合うまじないを作り出す必要があり、それができるまで、ワタシはずっと黙っていたのデス。そう簡単には夜の国には迷い込まないだろうし、向こうの住民も、賢者の作った法を破ることはないだろうと思っていました。でも、それは甘い考えでシタ。だいぶ前から、夜の国の住民がこの都に来てはいたずらをしているのも知っていたのに。間に合わせることができまセンでした。怖い思いをさせてしまいましたね。ゴメンナサイ」
夜鷹は首を横に振った。
自分が無事に帰ることができたのは、ドロシーのまじないがあってのことだ。
それに、素直に謝られたことに驚く。
「じゃあ、俺は、アルテリアの言ったことを信じていいんですか。昭晶は自分から向こうへ行ったんです。それなのに、本当に帰ってくるでしょうか」
「向こうのことは、向こうの住民に任せるしか方法がありまセン。こちらにできることは、帰って来る場所を示すことだけデス。夜の国は、人間にとって、とても危険なところです。アルテリアのように温厚な住民もいれば、小人族のように小賢しい住民もいる。ワタシたちは、彼らに比べると、あまりにも非力です」
ドロシーの手を見た。草の汁が爪を染めている。
「まじないは、万能ではないんデス。それを覚えておいてください。まじないを学ぶには、まず、そのことを知らないといけまセン」
寧子は、黙って頷いた。
ドロシーの家から出たあと、夜鷹はこのことをどう報告しようかと頭を悩ませた。寧子も、すぐにはこのことを牛目に言わないはずだ。まだもう少し、ドロシーの元にいるとも言っていた。
まっすぐに夜廻の屋敷に帰ることができなかった。
この話を信じる大人なんかいるだろうか。
夜鷹は、再び星宮へと向かった。もう昭晶が戻ってきているかもしれないという期待もあった。
だが、彼の部屋にいたのは、香花だった。