3章

 このまま朝が来なければいい。確かにそう言った。だが、それは冗談だ。本気で言ったわけじゃない。
 こんな不気味なところに行きたかったわけでもない。
 それなのに、昭晶はあの不思議な術を使う、よく分からない怪異たちの元に行ってしまった。
 昭晶はよっぽど、この世界に絶望していたのだ。怪異の言葉に惑わされるほどに――。
 走っても、走っても、霧から抜けることはできなかった。自分はずっと同じ場所を走り続けているのではないかと疑いはじめる。
 迎えに行ったとして、昭晶は戻ってきたいと言うだろうか。戻ってくれば何が待っている。望まない結婚だ。戻ってくれば、彼は王から捨てられ、故郷から追われることになる。
 夜鷹は足を止めた。
 ここが彼にとっての理想郷だとしたら、夜鷹はどうすればいいのだ。彼を説得できるだけの材料は何も持っていない。二人でどこか遠いところに逃げようなんて、できもしないことを言いたくない。
 どうして連れ戻そうだなんて思ってしまったのだろう。昭晶を守れず、大人たちから叱責されるのを恐れたからだろうか。そうだとしたら、なんて自分勝手な理由だろう。
 無意識に懐に入れた巾着を、服の上から握りしめる。
「こんなところで足を止めていたら、私たちがいたずらしちゃうわよ」
 けらけらと笑う声が耳元でした。
 えっ、と振り返ると、たくさんの小さな光が自分を取り囲んでいた。よくよく見れば、その光の粒は、手のひらほどの大きさをした少女たちだった。
「人間が迷い込んだ」
「人間だ」
「人間の男の子だ」
 ぐるぐると光が飛び回ると、霧も一緒に動き、渦を巻く。夜鷹の身体はいつの間にかびしょ濡れになっていた。
「もう一人、ここを通らなかったか。天女とかいう人といっしょに」
 光の動きが止まる。
「私たち、ずっとここにいたけれど、知らないわ。天女ということは、東の孤島の住民でしょ。かなり離れているわよ。数日かかるわ」
「どういうことだ……」
 事実を言っているのか、嘘をついているのかも分からない。
 一人は夜鷹の髪をいじり始め、一人は弓の弦を弾いた。
 びぃん……と響く。途端に、光が散らばった。
「ちょっと! その気持ち悪い音、やめてよね」
 彼らはこの音が苦手らしい。夜鷹は脅すように弦に指をかけた。
「教えろ。どうすればそこに行ける」
「やめてやめて。教えるから」
 一人が夜鷹の目の前に飛んでくる。透き通った翼を持つ少女だ。
「私たちは霧の妖精。昼の国と夜の国の間で遊んでいるだけの妖精。霧があなたをここまで運んできてしまったのかもしれないわね。ここに近いのは、エルフの森。私たちよりもずっと夜の国に詳しくて、たくさんの魔法が使えるわ。だから、そこに行けばいい」
 聞き慣れない言葉がたくさん出てくる。
「でも気をつけて。エルフは、森の外の住民が嫌いなの」
 妖精たちは、またけらけらと笑いはじめる。
「気をつけて、人間さん。あなたたちは、こちらの世界では何もできないんだから」
 笑い声が遠ざかっていく。同時に、霧が晴れてきた。
 まず見たのは、この世とも思えないほどの星が輝く空だった。一体どれだけの星があるのだろう。薄気味悪さすら覚える。
 夜鷹は森の入口に立っていた。どの樹木も幹が太く、立派だ。競うように枝を広げ、葉をつけている。中からは獣の鳴き声も聞こえてくる。
 どのくらいの広さなのだろうか。本当に、この中に、妖精の言うエルフという民がいるのだろうか。
 意を決して、森の中に入る。
 森の中の闇はとても深い。いくら空でたくさんの星が輝いていたとしても、その光は森の中には入ってこない。夜目が利くといっても、この闇の中では使い物にならなかった。自分の目を過信していた。何も見えないとなると、途端に恐怖が襲ってきた。
 草を踏み分ける音と、夜鷹の息の音だけが聞こえてくる。とても静かな森だ。
 ばさりと鳥が飛び立つ音に身体を震わせ、無意識に弓を引く。だが、何も見えない。
 あの霧と同じだ。この森も、自分を惑わしている。
 歩いていると、木の枝で頬を傷つけた。木々が意思を持って自分に枝を伸ばしているのかと思うほど、枝が身体にまとわりついてくる。ただひたすら、がむしゃらに足を前に進める。
 声を上げないと、狂ってしまいそうだ。
 恐怖を吐き出すように、腹から声を上げ、顔を腕で庇いながら前へと走っていった。情けないと我ながら思うが、何も見えない状態に夜鷹は慣れていなかった。
「うるさいなあ。誰だい、こんな夜更けに、わたしの森に入るなんて。木々はおまえを止めるために枝をいくつか折ってしまった。かわいそうに」
 ぽっと目の前に光が灯る。あたたかい色をした炎だ。
 夜鷹を襲っていた木々の枝が夜鷹を離す。本当に枝たちは夜鷹を掴んでいたのだ。信じられない光景だった。
「人間じゃないか。わたしを歩かせるとは。いいよ。おいで」
 目の前を歩いているのは、自分と同じくらいの背丈をした人物だった。あれが、妖精たちの言っていたエルフという民だろうか。
 肩の上で横に切り揃えられた白い髪に、白い服。昭晶が着ている装束に似ているが、非なるものだった。髪から飛び出している耳は、鋭く尖っていた。
「あの、あなたがエルフですか」
「ん。そうだね。他の種族からはそう言われてる」
 あたたかい炎は、彼の手のひらに浮いている。どういう理屈でそうなっているのかまったく分からない。
「それは、魔法というやつですか」
 聞くと、エルフは小さく舌打ちした。
「誰がそれを教えたんだい」
「霧の中にいた……」
「ああ。霧の妖精たちだね。あいつらはいたずら好きの嘘つきだから、何も信じないほうがいいよ。まあ、魔法であることは確かなんだけど。人間を通すなとさんざん言ったのに。やっぱり口先だけか。残念だよ」
 苛々しているのが背中から伝わってくる。夜鷹はそれ以上の質問をするのを控えた。
 魔法という謎めいた術を使う人物だ。あまり怒らせたくない。何をされるか分からない。
 黙ってついていくと、ぽっかりと空いた空間に出た。中央には巨木がそびえ立ち、その幹に扉がついている。
 その巨木を取り囲むのは、真っ赤に紅葉した木々だ。外の木々は緑の葉をつけていたのに、ここだけ秋が訪れているかのように真っ赤だった。
 誘われるまま、巨木の中に入る。中には大量の書物が置かれていた。その書物に埋もれるかのように大きな椅子が置かれてある。
 どさりと腰を下ろしたエルフは、足を椅子の上に上げて両腕で抱きかかえた。
「ああ、疲れた。お茶、いれてくれないかい」
 指さす方を見ると、見慣れない湯呑と急須がある。海向こうから運ばれてきた品を並べる露店で見たような気はするが。
 困惑していると、大きな溜息をついた。
「……お茶の淹れ方を知らないのかい。ならいい。自分でやるから」
 ぴっと指を動かすと、急須は自然と浮き、茶を注ぎ始めた。見えない何かが動かしているのだろうか。やはり理屈が分からない。
 湯呑も勝手にエルフの元へと漂いながら向かった。一口飲み、深く息を吐いた。
「人間。どうしてここへ来た。というか、どうやってここへ来た。つい数年前、人間が来ないように、結界を張ったのに。この国の住民には二度と人間を連れてくるなときつく言い、法も作ったのに。霧の妖精ができることでもない。自分でここへ来たのかい」
 深い森の色をした瞳が夜鷹をじっと見据える。女なのか男なのか、見分けのつきにくい顔をしている。
「天女に、友人が攫われたんだ。俺は、連れて戻ろうと、天女を追ってきたんだけど」
「天女? 東の孤島の?」
「そう言っていた」
 エルフは爪を噛んだ。
「……あいつら、まだ好き勝手しているのか」
 また大きな溜息をつく。
「ちょっと見てみよう」
 机の上に積み上げられた書物を勢いよく押しのけた。どさどさと書物が落ちていくが、気にしない様子である。
 中から出てきたのは鏡だった。その鏡に手をかざすと、ぼんやりと光り、鏡面が波打った。
 手を伸ばすと、ばちっと音がして、エルフの顔が歪む。鏡は元の鏡に戻った。
「ダメだね。天女どもが何か邪魔してる。しょうがない」
 エルフは立ち上がり、夜鷹の前に立った。
「じっとしてて。君から先に向こうへ返す」
「ちょっと待ってくれ、昭晶を……」
「駄目だよ。面倒事を後回しにすると、余計に面倒になるからね」
 夜鷹の足元に、大きな光の円が浮かぶ。エルフは何かぶつぶつと唱えていた。
「人間、名だけ聞いておこう」
「夜鷹」
「わたしはアルテリア。向こうのまじない師によろしく伝えておいてくれ。その胸元にあるのは、まじない師にもらったやつだろう。優れたまじない師だ。帰り道が刻まれているからね」
 アルテリアの細い指が、夜鷹の胸元を触った。そこにはドロシーからもらった巾着がある。
「この者をそこへ導け」
 ぱちんと何かが砕ける音がした。
「もう夜の国に来ないで。君の友人のことは、こちらでなんとかするからさ」
 アルテリアが指を鳴らすと、胃の中身がひっくり返るかのような気持ち悪い感覚が襲ってきた。
 身体が真っ逆さまになり、どこかに落ちているような、そんな感覚だ。
 目をつむると、今度は背中に衝撃が加わる。
「ああ、帰ってきマシタよ、ネコ」
「良かった……」
 目を開けると、寧子とドロシーが自分を心配そうに見つめていた。
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