2章
「もう一度聞くけど、特に何もなかったのね」
寧子が筆を動かしながら確認する。夜鷹はそうだ、とだけ言って、弓を蔵に戻しに行った。
何もなかったわけではない。男一人が襲われ、酒を奪われた。相手が怪異だろうがなんだろうが、それは確かである。だが、報告しなかった。
寧子は既に、昭晶と夜鷹が外に出ていくことを認めている――いや、もう諦めている。とはいえ、そのような場所に昭晶を連れて行ったと知れば、怒るだろう。そうなると、いよいよ外に出ることが難しくなる。
あの怪異との出会いのあと、昭晶と夜鷹はすごすごと宮へと戻った。寧子のいる場では話はできず、そのまま朝を迎えて、仕事を終えた。
自分の見たものは本物だったのだろうか。まだ疑っている自分がいる。
昭晶はあの時、女を知っていると言っていた。女もまた、昭晶を知っていると言っていた。
地に足が着いていない女に、角の生えた男。怪異だとして、そんな存在、夜鷹は聞いたことがない。気持ちが追いついていない。
長屋に戻って、身体を横にさせたものの、眠ることができなかった。興奮してしまっているのだろう。
眠るのを諦めて表に出ると、夏の日差しが目を突き刺してきた。
影を求めるようにふらふらと歩いていると、見覚えのある、黒い服を着た女性を見かけた。寧子の師だ。今日も甘栗色の髪を三つ編みにしていた。
向こうも夜鷹に気付いたのか、手を振って駆け寄ってきた。海向こうの人は、女であろうと、身長が高い。吸い込まれそうなほど青い目にどきりとする。
「ネコのご友人さんデスね」
「え、知ってるんですか」
「何度も見かけまシタよ。昨日は、大変でしたね」
ぎょっとした。この人は昨日のことを知っているのか。
「ワタシも追っているんデス。あ、このことは、ネコには内緒にしておいてください。まだ、話を大きくするつもりはありまセンから」
どう反応すればいいか分からず、口をぽかんと開けていると、ドロシーは優しく笑った。
「そうなる気持ちも分かりマス。うちへ来ませんか」
にこりとされると、断れなかった。それに、寧子が信頼している人だ。もしかしたら、昨日のことが詳しく聞けるかもしれない。そういう期待もあり、ドロシーについていくことにした。
彼女の家は、港の近くにあった。ほぼ小屋と言ってもおかしくない、小さなボロの家である。
この国の人々は、海向こうの人間に対してあまりいい印象を抱いていない。言語も違うし、文化も違う。見た目も違う。貿易はするけれど、それ以上の関わりは避けていた。ドロシーはそれを知ってか、まるで人を避けるようにここを住まいとしているようだ。
家に入ると、すぐに、嗅ぎ慣れないにおいが夜鷹の鼻を刺激した。清涼感があり、嫌ではない。
「これ、何のにおいですか」
「ハーブ……、香草です。まじないで使うので、船で運んでもらったんデス。でも、こちらの人は、この香りは慣れなくて嫌みたいデスね。ネコも同じ反応をしました。だから、使えなくて、ずっとここに置いているんデス」
やっぱりこの人、怪しいまじないを使うのだろうか……。そう思っていると、ドロシーは、床に座り、目の前にいくつか石を転がした。緑色の石だ。ころんとしていて、触り心地が良さそうだった。
「ここに座って。一つお選びください」
「えっと」
言われるまま石を一つ選ぶ。
それを受け取ったドロシーは、難しい表情をした。だが、すぐに元の優しい表情に戻る。
「それってなんですか」
「占いデス。知りたいことを教えてくれる、不思議な石デス。万能ではないんですが、力にはなってくれマス。まじない師たちは、占いを習うんデスよ」
ドロシーは石をよく見せてくれた。一つ一つに、異なる記号が刻まれている。その記号には何らかの意味があるのだろう。
「眠れないんデスね」
「あ、はい。なんか。昨日見たものが、まだ信じられなくて」
「待っていてください。眠れる薬を作ります。やっと完成したので、使って、どうだったか教えてくれませんか。まじないの効力を確かめてくれる協力者を必要としているんデス……。なかなか、こちらの人と、仲良くなれなくて」
「でも、この国の言葉、上手ですね」
「はい。ネコに教えてもらいました。ネコと出会った時は、もっと喋れませんでシタ。あの時はまだ家もなくて、大変でした」
作業台のようなところで、ドロシーは何かを潰している。その様子を見ながら、夜鷹は気になることを聞いた。
「なぜ、こっちに来たんですか」
「ゴンド島のまじない師には、課せられた使命があるんデス。ですが、これは、限られた人にしかお話できまセン。ごめんなさい」
「俺が昨日見たものって」
「それについては、一度、お忘れください」
できた、と呟き、小瓶を夜鷹の手の上に置いた。
「先ほど、占わせてもらいました。あなたと、それからもう一人の……」
「昭晶ですか」
「彼はアキラというのですね。あなたたちが知りたいものは、あなたたちを悪い方向へ導きマス。どうしてそうなるかまでは、占いでは分かりまセンでした。あなた方に何かあっても、ワタシはあなた方を救えません。今はまだ、まじないが完成していないから。だから、いったん、お忘れください」
夜鷹の手を優しく撫でた。
「なんてお願いしても、あなた方の好奇心を止めることはできないんでしょうね。これから先、もし困ったことがあれば、ここに来てくだサイ。まじないが未完成でも、相談に乗ることはできマス。ネコにもそのように言っています。夜を守る人々は大切デスから。また来てくだサイ。いつでも歓迎します」
知りたいことを教えてくれないことに、怒りは抱かなかった。必要になれば教えてくれるのだと思ったからだ。
自分たちを無理に止めようともしなかった。悪いことは起こるかもしれないが、もしそうなれば、助けになろうと言ってくれたのだ。
たった少し話しただけなのに、ドロシーは、どういうわけか、自分たちを理解してくれているような感じがした。寧子が彼女を師とする理由もなんとなく分かる。
まじない師とは不思議だ。必要なものを、必要なだけ与えてくれる。そんな印象を抱いた。
最後に、ドロシーは薬の飲み方を教えてくれた。
小瓶の中に入っていたのは、草を潰し、少しだけ水でのばしたものだ。そのまま飲むと舌触りがよくないから、茶に混ぜて飲むように言われた。
苦みはなく、清涼感だけが口の中に残る。口の中がさっぱりすると、気持ちもいくらかすっきりした。
いつもよりも深く眠れた気がする。
ドロシーは、まじないの効き目がどうだったか教えてほしいと言っていたから、瓶を返した時に伝えなければならない。
寧子が筆を動かしながら確認する。夜鷹はそうだ、とだけ言って、弓を蔵に戻しに行った。
何もなかったわけではない。男一人が襲われ、酒を奪われた。相手が怪異だろうがなんだろうが、それは確かである。だが、報告しなかった。
寧子は既に、昭晶と夜鷹が外に出ていくことを認めている――いや、もう諦めている。とはいえ、そのような場所に昭晶を連れて行ったと知れば、怒るだろう。そうなると、いよいよ外に出ることが難しくなる。
あの怪異との出会いのあと、昭晶と夜鷹はすごすごと宮へと戻った。寧子のいる場では話はできず、そのまま朝を迎えて、仕事を終えた。
自分の見たものは本物だったのだろうか。まだ疑っている自分がいる。
昭晶はあの時、女を知っていると言っていた。女もまた、昭晶を知っていると言っていた。
地に足が着いていない女に、角の生えた男。怪異だとして、そんな存在、夜鷹は聞いたことがない。気持ちが追いついていない。
長屋に戻って、身体を横にさせたものの、眠ることができなかった。興奮してしまっているのだろう。
眠るのを諦めて表に出ると、夏の日差しが目を突き刺してきた。
影を求めるようにふらふらと歩いていると、見覚えのある、黒い服を着た女性を見かけた。寧子の師だ。今日も甘栗色の髪を三つ編みにしていた。
向こうも夜鷹に気付いたのか、手を振って駆け寄ってきた。海向こうの人は、女であろうと、身長が高い。吸い込まれそうなほど青い目にどきりとする。
「ネコのご友人さんデスね」
「え、知ってるんですか」
「何度も見かけまシタよ。昨日は、大変でしたね」
ぎょっとした。この人は昨日のことを知っているのか。
「ワタシも追っているんデス。あ、このことは、ネコには内緒にしておいてください。まだ、話を大きくするつもりはありまセンから」
どう反応すればいいか分からず、口をぽかんと開けていると、ドロシーは優しく笑った。
「そうなる気持ちも分かりマス。うちへ来ませんか」
にこりとされると、断れなかった。それに、寧子が信頼している人だ。もしかしたら、昨日のことが詳しく聞けるかもしれない。そういう期待もあり、ドロシーについていくことにした。
彼女の家は、港の近くにあった。ほぼ小屋と言ってもおかしくない、小さなボロの家である。
この国の人々は、海向こうの人間に対してあまりいい印象を抱いていない。言語も違うし、文化も違う。見た目も違う。貿易はするけれど、それ以上の関わりは避けていた。ドロシーはそれを知ってか、まるで人を避けるようにここを住まいとしているようだ。
家に入ると、すぐに、嗅ぎ慣れないにおいが夜鷹の鼻を刺激した。清涼感があり、嫌ではない。
「これ、何のにおいですか」
「ハーブ……、香草です。まじないで使うので、船で運んでもらったんデス。でも、こちらの人は、この香りは慣れなくて嫌みたいデスね。ネコも同じ反応をしました。だから、使えなくて、ずっとここに置いているんデス」
やっぱりこの人、怪しいまじないを使うのだろうか……。そう思っていると、ドロシーは、床に座り、目の前にいくつか石を転がした。緑色の石だ。ころんとしていて、触り心地が良さそうだった。
「ここに座って。一つお選びください」
「えっと」
言われるまま石を一つ選ぶ。
それを受け取ったドロシーは、難しい表情をした。だが、すぐに元の優しい表情に戻る。
「それってなんですか」
「占いデス。知りたいことを教えてくれる、不思議な石デス。万能ではないんですが、力にはなってくれマス。まじない師たちは、占いを習うんデスよ」
ドロシーは石をよく見せてくれた。一つ一つに、異なる記号が刻まれている。その記号には何らかの意味があるのだろう。
「眠れないんデスね」
「あ、はい。なんか。昨日見たものが、まだ信じられなくて」
「待っていてください。眠れる薬を作ります。やっと完成したので、使って、どうだったか教えてくれませんか。まじないの効力を確かめてくれる協力者を必要としているんデス……。なかなか、こちらの人と、仲良くなれなくて」
「でも、この国の言葉、上手ですね」
「はい。ネコに教えてもらいました。ネコと出会った時は、もっと喋れませんでシタ。あの時はまだ家もなくて、大変でした」
作業台のようなところで、ドロシーは何かを潰している。その様子を見ながら、夜鷹は気になることを聞いた。
「なぜ、こっちに来たんですか」
「ゴンド島のまじない師には、課せられた使命があるんデス。ですが、これは、限られた人にしかお話できまセン。ごめんなさい」
「俺が昨日見たものって」
「それについては、一度、お忘れください」
できた、と呟き、小瓶を夜鷹の手の上に置いた。
「先ほど、占わせてもらいました。あなたと、それからもう一人の……」
「昭晶ですか」
「彼はアキラというのですね。あなたたちが知りたいものは、あなたたちを悪い方向へ導きマス。どうしてそうなるかまでは、占いでは分かりまセンでした。あなた方に何かあっても、ワタシはあなた方を救えません。今はまだ、まじないが完成していないから。だから、いったん、お忘れください」
夜鷹の手を優しく撫でた。
「なんてお願いしても、あなた方の好奇心を止めることはできないんでしょうね。これから先、もし困ったことがあれば、ここに来てくだサイ。まじないが未完成でも、相談に乗ることはできマス。ネコにもそのように言っています。夜を守る人々は大切デスから。また来てくだサイ。いつでも歓迎します」
知りたいことを教えてくれないことに、怒りは抱かなかった。必要になれば教えてくれるのだと思ったからだ。
自分たちを無理に止めようともしなかった。悪いことは起こるかもしれないが、もしそうなれば、助けになろうと言ってくれたのだ。
たった少し話しただけなのに、ドロシーは、どういうわけか、自分たちを理解してくれているような感じがした。寧子が彼女を師とする理由もなんとなく分かる。
まじない師とは不思議だ。必要なものを、必要なだけ与えてくれる。そんな印象を抱いた。
最後に、ドロシーは薬の飲み方を教えてくれた。
小瓶の中に入っていたのは、草を潰し、少しだけ水でのばしたものだ。そのまま飲むと舌触りがよくないから、茶に混ぜて飲むように言われた。
苦みはなく、清涼感だけが口の中に残る。口の中がさっぱりすると、気持ちもいくらかすっきりした。
いつもよりも深く眠れた気がする。
ドロシーは、まじないの効き目がどうだったか教えてほしいと言っていたから、瓶を返した時に伝えなければならない。