2章
探すもなにも、今日またここに来ると約束をしていた。まさか、一人で先に来ているとは思わなかったが。
「遅い」
月の下で、昭晶が夜鷹を待っていた。いつもの夜色の衣を風になびかせている。
「ごめん。まさか先に一人で来ているとは思わなくて」
寧子が御簾を上げるまで全く気が付かなかったことに落ち込んでしまう。自分の一番弱いところだと分かっていながらも、なかなか改善できていない。そんな中で実際にこういうことが起こると、どうにかしなければならないという焦燥感に駆られる。
「一刻でも早く、ここに来たかった。夜鷹も待てないくらいに」
「あまりいい話ではなかったんだ」
昭晶の溜息を初めて聞いた。絶望の混じった、深い溜息だ。
「父は頭がおかしくなったのかと思った。久しぶりに顔を見たが、顔は皺だらけだし、髪も白い。まだ生きているのが不思議なくらいの爺さんだった。本当にわたしの父なのかと疑う。呆けていてもおかしくない。そう思う内容だった。聞くか」
「聞いたほうがいいんだろ」
「私の妻は、海向こうにある国の女王らしい」
耳を疑った。
美津穂国は海に囲まれた島にある国だ。この島には美津穂国だけでなく、他にもいくつか小さな国がある。それぞれ、美津穂国と良好な関係を築いている。その国の女王ならまだ分かる。だが、言葉の違う海向こうの人だとは。
「貿易で関係のある国なのだそうだ。国の名は聞かなかった。友好の証としての結婚なのだと説明された」
「そうなると……向こうの女王様がこちらに来るのか」
「いや、わたしが出ていくことになる。なぜなら、わたしは父に嫌われているから。わたしの存在は、父にすれば薄気味悪いものなのだと、はっきり言われたよ。父はわたしを作った記憶がないのだと。わたしは知らぬうちに生まれ、知らぬうちに王族の一人となっていたのだそうだ。母のことも父はまったく知らぬと言った。だから、わたしに、国から出ていけと言う」
それを聞いた時、本当に王は呆けていて、昭晶のことを忘れているだけじゃないかと思った。だが、忘れているなら昭晶にこのような話はされないだろう。
「香花様は」
「会ってない。今日は一度も顔を見ていない」
「そんなことは……だって、俺、言ったぞ。昭晶のところに行ってくれって。俺の顔は見に来たのに」
「ならば、わたしより、夜鷹のほうを愛しているのだろう。孤児院の子供たちのほうが愛しいのだ。本当に、父の言うように、わたしはいつの間にか王族に紛れ込んだ何者かもしれない。夜にしか目を覚まさぬ鬼なのかもしれない」
昭晶は夜鷹に背を向けた。
かける言葉がない。夜鷹には王族のことなんか一つも分からないし、存在そのものを否定された昭晶の悲しみのすべてを理解できないからだ。昭晶に寄り添うことのできる言葉を、夜鷹は知らなかった。
草の上にしゃがんだ昭晶の肩に、そっと手を置いた。そうすることしかできなかった。隣に並んでしゃがみ、小さな嗚咽を聞く。息を殺すかのような嗚咽だった。
昭晶の小さな手が夜鷹の手を掴んだ。
王族には誰ひとりとして、昭晶に手を差し伸べる人はいない。香花は名ばかりの母なのだろう。
夜鷹には、夜廻の大人たちと寧子がいるが、昭晶には夜鷹しかいないのだ。
「俺もさ。今日、寧子の父さん……夜廻の頭領なんだけど、その人に、次の頭領は俺で考えてるって言われたよ。でもさ、昭晶が一人でここに来ていたことにも気付かないくらい未熟でさ。俺にできることじゃないって思ったんだ。なんかさ。勝手だよな、大人って。香花様も、昭晶のところに行くって約束してくれたのに、そうしなかったんだろ。口だけだったんだ。そんな人だとは思ってなかったのに」
口にした途端、自分の中にある言葉にできない何かがはっきりした。
大人に対する不信感だ。これは。
理不尽を押し付けて、自分たちを無理矢理、大人の世界に連れ込もうとする人たち。成人の儀はその理不尽を正当化する儀式なのだ。
「自分で決めたいよな。自分のことはさ」
「自分で決められるのなら、わたしは、星を追いかけ、夜と共に生きたい」
「それもいいな。俺たち、昼間は寝てるしな」
朝が来なければ、ずっとこのままだ。なんていい話なのだろう。
都合のいい世界がどこかにあればいいなんて、そんなのただの夢想だ。それは分かっている。だから、冗談で言った。
「わたしはあると思っているよ。あの光る少女を見てから。この世とは違う世界があるかもしれないって」
涙を拭いた昭晶は、顔を上げた。
白い顔が月に照らされる。目は腫れているが、顔は真面目だった。
すっかり忘れていた出来事が、急に蘇る。
「あのさ。これ、ずっと言ってなかったんだけど……。前に、夜廻の一人が倒れたんだ。その人が言うには、女の子と男の子がいて、声をかけると目の前がぱっと光ったらしい。すると、思い出したくない出来事が目の前に浮かんで、気分が悪くなったんだ」
「それは……」
「俺さ。これを聞いて、目の前が光ったのは、強い衝撃があったからなんじゃないかって思ったんだよ。昭晶もきっと、女の子と会って驚いたから、光って見えたんじゃないかって。でも……、こういうことは、夜廻の中で何度かあったらしいんだ。一度だけじゃないってことは、昭晶の見たものは、そのうちの一つかもしれない」
昭晶の手を強く握る。
「昭晶の話、本当かどうか、探してみよう。俺が一緒なら大丈夫だろ」
「……ありがとう、夜鷹。わたしを信じてくれて」
もちろん昭晶の話のすべてを信じたわけではない。半分は冗談だ。だが、もし、昭晶の言う、こことは違う世界があったとしたら、共に行ってもいいなと、夜鷹は思った。
幼い夜鷹は、本当の家に帰りたい衝動に駆られて、ここに来た。本当の家はそこにあるんじゃないかと思ってみるのも、それはそれで楽しくていいのかもなと思ったのである。
「遅い」
月の下で、昭晶が夜鷹を待っていた。いつもの夜色の衣を風になびかせている。
「ごめん。まさか先に一人で来ているとは思わなくて」
寧子が御簾を上げるまで全く気が付かなかったことに落ち込んでしまう。自分の一番弱いところだと分かっていながらも、なかなか改善できていない。そんな中で実際にこういうことが起こると、どうにかしなければならないという焦燥感に駆られる。
「一刻でも早く、ここに来たかった。夜鷹も待てないくらいに」
「あまりいい話ではなかったんだ」
昭晶の溜息を初めて聞いた。絶望の混じった、深い溜息だ。
「父は頭がおかしくなったのかと思った。久しぶりに顔を見たが、顔は皺だらけだし、髪も白い。まだ生きているのが不思議なくらいの爺さんだった。本当にわたしの父なのかと疑う。呆けていてもおかしくない。そう思う内容だった。聞くか」
「聞いたほうがいいんだろ」
「私の妻は、海向こうにある国の女王らしい」
耳を疑った。
美津穂国は海に囲まれた島にある国だ。この島には美津穂国だけでなく、他にもいくつか小さな国がある。それぞれ、美津穂国と良好な関係を築いている。その国の女王ならまだ分かる。だが、言葉の違う海向こうの人だとは。
「貿易で関係のある国なのだそうだ。国の名は聞かなかった。友好の証としての結婚なのだと説明された」
「そうなると……向こうの女王様がこちらに来るのか」
「いや、わたしが出ていくことになる。なぜなら、わたしは父に嫌われているから。わたしの存在は、父にすれば薄気味悪いものなのだと、はっきり言われたよ。父はわたしを作った記憶がないのだと。わたしは知らぬうちに生まれ、知らぬうちに王族の一人となっていたのだそうだ。母のことも父はまったく知らぬと言った。だから、わたしに、国から出ていけと言う」
それを聞いた時、本当に王は呆けていて、昭晶のことを忘れているだけじゃないかと思った。だが、忘れているなら昭晶にこのような話はされないだろう。
「香花様は」
「会ってない。今日は一度も顔を見ていない」
「そんなことは……だって、俺、言ったぞ。昭晶のところに行ってくれって。俺の顔は見に来たのに」
「ならば、わたしより、夜鷹のほうを愛しているのだろう。孤児院の子供たちのほうが愛しいのだ。本当に、父の言うように、わたしはいつの間にか王族に紛れ込んだ何者かもしれない。夜にしか目を覚まさぬ鬼なのかもしれない」
昭晶は夜鷹に背を向けた。
かける言葉がない。夜鷹には王族のことなんか一つも分からないし、存在そのものを否定された昭晶の悲しみのすべてを理解できないからだ。昭晶に寄り添うことのできる言葉を、夜鷹は知らなかった。
草の上にしゃがんだ昭晶の肩に、そっと手を置いた。そうすることしかできなかった。隣に並んでしゃがみ、小さな嗚咽を聞く。息を殺すかのような嗚咽だった。
昭晶の小さな手が夜鷹の手を掴んだ。
王族には誰ひとりとして、昭晶に手を差し伸べる人はいない。香花は名ばかりの母なのだろう。
夜鷹には、夜廻の大人たちと寧子がいるが、昭晶には夜鷹しかいないのだ。
「俺もさ。今日、寧子の父さん……夜廻の頭領なんだけど、その人に、次の頭領は俺で考えてるって言われたよ。でもさ、昭晶が一人でここに来ていたことにも気付かないくらい未熟でさ。俺にできることじゃないって思ったんだ。なんかさ。勝手だよな、大人って。香花様も、昭晶のところに行くって約束してくれたのに、そうしなかったんだろ。口だけだったんだ。そんな人だとは思ってなかったのに」
口にした途端、自分の中にある言葉にできない何かがはっきりした。
大人に対する不信感だ。これは。
理不尽を押し付けて、自分たちを無理矢理、大人の世界に連れ込もうとする人たち。成人の儀はその理不尽を正当化する儀式なのだ。
「自分で決めたいよな。自分のことはさ」
「自分で決められるのなら、わたしは、星を追いかけ、夜と共に生きたい」
「それもいいな。俺たち、昼間は寝てるしな」
朝が来なければ、ずっとこのままだ。なんていい話なのだろう。
都合のいい世界がどこかにあればいいなんて、そんなのただの夢想だ。それは分かっている。だから、冗談で言った。
「わたしはあると思っているよ。あの光る少女を見てから。この世とは違う世界があるかもしれないって」
涙を拭いた昭晶は、顔を上げた。
白い顔が月に照らされる。目は腫れているが、顔は真面目だった。
すっかり忘れていた出来事が、急に蘇る。
「あのさ。これ、ずっと言ってなかったんだけど……。前に、夜廻の一人が倒れたんだ。その人が言うには、女の子と男の子がいて、声をかけると目の前がぱっと光ったらしい。すると、思い出したくない出来事が目の前に浮かんで、気分が悪くなったんだ」
「それは……」
「俺さ。これを聞いて、目の前が光ったのは、強い衝撃があったからなんじゃないかって思ったんだよ。昭晶もきっと、女の子と会って驚いたから、光って見えたんじゃないかって。でも……、こういうことは、夜廻の中で何度かあったらしいんだ。一度だけじゃないってことは、昭晶の見たものは、そのうちの一つかもしれない」
昭晶の手を強く握る。
「昭晶の話、本当かどうか、探してみよう。俺が一緒なら大丈夫だろ」
「……ありがとう、夜鷹。わたしを信じてくれて」
もちろん昭晶の話のすべてを信じたわけではない。半分は冗談だ。だが、もし、昭晶の言う、こことは違う世界があったとしたら、共に行ってもいいなと、夜鷹は思った。
幼い夜鷹は、本当の家に帰りたい衝動に駆られて、ここに来た。本当の家はそこにあるんじゃないかと思ってみるのも、それはそれで楽しくていいのかもなと思ったのである。