お隣のおともだち

 甘いバターの香りが部屋に満ちる。
 豊崎さんはリビングのど真ん中にちょこんと座っている。座布団の上にはいるが、居心地が悪いのか、もぞもぞとしていた。それを、私はキッチンからちらちらと見る。
 殺風景な私の部屋に、ピンク色の若い人がいる。彼女の周りだけ、なんだか華やかだった。
 トースターが鳴った。扉を開けてみると、ぶわっとバターの香りが飛び出してくる。
 クロワッサン、カフェオレ、いちごジャム、それから追加のバター。バターはいくらでもあっていい。多ければ多いほど美味しい。体に悪いものほど美味しい。
 目の前にほかほかのパンが現れた途端、豊崎さんのお腹がぐうと鳴った。
「朝ご飯、いつも食べてないの?」
「食べないです。寝起きに何かを食べるの、苦手で」
「分からんでもない。でもこのクロワッサンはいけるから。どうぞ」
 お腹が鳴るということは、食欲を刺激しているということだ。
 豊崎さんは長い爪でありながらも、器用にクロワッサンを持ち上げ、口に運んだ。サク、と気持ちいい音が聞こえる。
「あま」
「でしょ」
 豊崎さんの目が輝いた。バターをたっぷりとつけて、頬張る。ジャムをたっぷりとつけて、頬張る。その動作の一つ一つが、なんだかハムスターみたいでかわいい。それを見ていると、私もお腹が空いた。
 豊崎さんへのギフトではなく、個人的に買い込んでいたクロワッサンを食べる。
 私たちは黙々と食べた。会話せず、ひたすら食べた。
 あっという間にクロワッサンも、ジャムも、バターもなくなった。カフェオレを半分ほど飲んだあと、やっと豊崎さんは一息ついた。
「お、美味しかった……」
「それはよかった。もしよかったら、買いに来て。工場に直売所があるから……」
 それから少し考えて、私は提案した。
「それか、私が買ってこようか。代金は預かることになるけど」
「え、いいんですか」
「気に入ってくれたのが、とても嬉しいから」
 それからだ。豊崎さんの表情が急に曇ったのは。
「でも、ご迷惑です。それにわたし、あまりお金がなくて」
「何の仕事してるの?」
 豊崎さんはぽつぽつと今の状況を教えてくれた。まだ数回しか会って話をしていないのに、このクロワッサンの件で少し信頼してくれたんだと思う。
 豊崎さんは高校を出てから、家出のような形でここに来たそうだ。親からの干渉からとにかく逃げている最中なのだという。俗に言う、毒親なのだろう。
 仕事は単発のバイトをしているのだという。鬱病というわけではないが、気持ちが不安定なことが多く、メンタルクリニックにも定期的に通っているのだそうだ。
 大学に行けるのであれば、行っていたのだろう。話がまとまっていてわかりやすかったから、学力もあるはずだった。
 見た目が派手なのは、親に見つからないようにしたかったから、というのが理由だそうだ。別に好きでやっているわけではなく、変装の一種なのだという。
 家庭環境のせいで、何もかもがぐちゃぐちゃになってしまったタイプの子だった。今の話を聞いて、私は彼女にも原因があるとはまったく思わない。
 話を聞いていると、なんだか、どうにかしてあげたくなる。どうしてだろう。
「ならさ。うちで働いてみない? バイトもパートも正社員もいつでも募集しているんだけど。私が話をしてあげるよ。隣の部屋の人が同じ職場だということが気にならないのなら」
 豊崎さんはとても分かりやすい。
 不安になれば表情が曇るし、嬉しくなれば表情が晴れる。
 そういうわけで、豊崎さんは、私の隣人であり、後輩となった。
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