瑠璃色の星

 他人のことを考えなさいとか言われても、よく分からなかった。だって、他人は他人。自分とは違う。
 分かりたいとも思わないし、自分も自分のことを他人に分かってもらおうとも思っていなかった。
 変な趣味を持っている、変なやつ。そう思われるのが怖いとか、そういうのじゃない。本当に、僕は興味の範囲の外のことはどうでもよかった。
 刺繡と出会うまでは、何もない人だったと思う。日々、ぼんやりと過ごしていたような気がする。ほとんど記憶がない。
 そんな僕の世界が色づいたのは、祖母の刺繡を見たときだった。趣味探しをしていた祖母が選んだものだった。その時はちょうどクリスマスだったから、クリスマスツリーとポインセチアの刺繡をしていた。とても綺麗だと思った。ただプレゼントをもらうだけの日じゃなくて、生誕祭としてのクリスマスを知った。
 祖母にそのクリスマスの刺繡をねだった。綺麗だから欲しいと。祖母は刺繡を額縁に入れて僕にくれた。今も自室の壁に飾ってある。僕の出発点だ。
 刺繡と出会って、この世にはこんなに綺麗なものがあるんだと感動した。綺麗なものを糸で表現することの素晴らしさを知った。僕は刺繡のために綺麗なものを知ろうとしたし、刺繡の腕をあげようと思った。それから僕が知りたくなったのは、この世の綺麗な形あるものだった。
 その形あるものに、形のない気持ちが入り込む瞬間を、僕はエンジェルさんをすることによって知った。
 僕にたびたび届く願いは、形のないものだった。形ないものを形にしようと思ったとき、どうしようかと思った。それから花言葉というものを知った。
 日奈子さんが依頼を持ってきてくれなければ、僕はそれを知ることができなかったし、表面にある綺麗なものしか見ない人になっていたことだろう。
 今までの依頼は知らない誰かの願いを、言葉というものに当てはめて、さらに花という形あるものに当てはめた。僕の気持ちは関係ない。僕はただ、ただ、綺麗に、綺麗に、と思って縫った。形骸化した何かになっていたと思う。
 でも今回は違う。はじめて、誰かのために何かを縫った。僕が彼女のために縫いたいと思った。
 刺繡に僕の願いが入り込んだ。
 今まで、とにかくうまく、綺麗に、としか思わなかったのに、叶いますようにと願いながら縫っていた。
 それを縫っている間、僕はいつも以上に周りが見えていなかった。いつもよりものめり込んでいた。
 白い生地に、たくさんの花が集まっていく。瑠璃色の小さな花がたくさん集まっていく。ワンポイントどころか、しっかりとした刺繡になってしまった。
 それだけじゃ足りないと思って、もう一枚用意して縫った。
 自分がやっていることが、結構、気持ち悪いことだと自覚したのは、完成したその日の晩だった。
 翌日はクリスマスイブで、終業式の日だった。
 僕は祖母と同じように、クリスマスに、刺繡を日奈子さんに贈った。
 なんか色々と恥ずかしくて、あれこれと口が滑ってしまったような気がしたけれど、日奈子さんはちゃんと受け取ってくれた。
 木立瑠璃草。ヘリオトロープ。瑠璃色の花。
 ギリシャ語で、「太陽に向かう花」という意味らしい。花言葉は「夢中」だ。夢中になれるものを願う日奈子さんにぴったりな花だと思う。
 その自分の思いが乗ったものを渡すのは、ひどく緊張した。気持ち悪がられて、受け取ってくれなかったらどうしようという不安を、初めて抱いた。でも杞憂だった。
 日奈子さんが嬉しそうな顔をしているのを見たとき、これが誰かのため、ということを知った。
 日奈子さんが僕の世界に入ってきてから、僕の世界は少しだけ広がった。日奈子さんが広げてくれた。
 その名前の通り、日奈子さんは星であり、太陽だった。
 ベツレヘムの星のようだ、日奈子さんは。僕の世界にぱっと誕生し、ずっとそこで光っている。自分の世界しか見ていない僕に、外の光を差し込んでくれる。
 ずっと一緒にいてほしい。その気持ちは自然と浮かんできた。
 駅前のカフェでケーキを食べて、日奈子さんが駅の中に入る前に、そのことを伝えた。
「もう、突然すぎるなあ」
 そう言いながらも、日奈子さんははにかんだ。
「やっぱり千尋の刺繡は、ちゃんと効果あるんだよ」
「そうだといいけど」
「そうなんだって。もう、叶ったよ」
 またね、と言って、改札を通っていった。
 日奈子さんがそう言った意味をちゃんと理解したのは、帰宅してからだった。
3/4ページ
スキ