瑠璃色の星
三年生になっても、日奈子さんはずっと僕の隣にいた。同じクラスで、少しほっとしている自分がいた。日奈子さんがいれば、周りのことを知ることができるから。
それから、たびたび日奈子さんからスカーフを渡されるようになった。
なんでも藤原さんが晴れて先輩と付き合うことになったらしく、僕の刺繡にお守りの効果があったのだと言いふらしているらしい。それを聞いた人たちが、僕に依頼をしてくる。日奈子さんを通して。
なんでも僕は「エンジェルさん」と呼ばれているらしい。願いを叶えてくれるエンジェルさんなんだそうだ。そんな大したものは縫っていないし、趣味の延長だし、スピリチュアルでもなんでもないのに。そう思うのなら勝手にそう思ってくれればいいが、期待はほどほどにしてほしい。技術もまだまだだし。
千尋という名前が女子っぽいというのもあって、僕の顔を知らない人からは女子だと思われているのも日奈子さんに聞いた。日奈子さんが依頼を受け取ってくるし、届けてもくれるから、僕のことを知らずに頼む人の方が多かった。
一回、お礼の手紙を受け取ったことがある。それも日奈子さんから渡された。
でも僕は全然興味がなくて、一回読んで捨てた。依頼主のことなんか、どうでも良かったのだ。とにかく綺麗なものをうまく縫う。それだけのためにやっていたことだったから。感謝されたくてとか、誰かのためにとか、そういうのはまったくなかった。依頼はただのネタだった。
僕がやっていることは感謝されているんだというのも、日奈子さんから聞いた。
僕の周りのことは、僕より日奈子さんのほうがよく知っている。僕は僕の外の世界を、日奈子さんからでしか知ろうとしなかった。
その日奈子さんはほとんどの時間を自分の席にいた。刺繡している僕にぽろぽろと独り言を呟くように話しかけてくることがある。僕は適当に相槌を打っているだけ。
僕が話をちゃんと聞いていないのは日奈子さんもよく分かっている。分かっていながら、僕に話しかけてくる。
依頼のやり取りをしてくれているほどだから、日奈子さんはもっと社交的な人なのだと思っていたけれど、どうも違う。
周囲を見ない僕だけれど、日奈子さんのことが気になって、こっそりと視線を上げて隣を見る。
長い前髪が、長いまつ毛にかかっている。頬杖をついていた。時たま、溜息のようなものも聞こえてくる。
日奈子さんはずっと僕の隣に座って、周りを見ていた。まるで、何かを羨んでいるような眼差しで。その眼差しが僕に向けられているのを感じることもあった。刺繡をしているとき、日奈子さんがこちらを見ているのを感じるのだ。
なぜ周囲を羨むように見ているのに、ここに座ってじっとしているのだろう。
何か日奈子さんもすればいいのに。そう思って出た言葉は「暇そうだね」だった。あまりにも口下手だった。違うそうじゃない、と思う前に、日奈子さんはうなづいた。
「うん。暇だね。暇だからここにいる」
「日奈子さんは、恋したいなとか、趣味持ちたいなとか、思わないの」
「夢中になれるものは、あったらいいなとは思う。羨ましいとも思うよ。けど、まだ出会ってない」
日奈子さんは、僕の手にあるものを褒めた。
ずっと夢中になってやっているものがあるのはすごいことなのだと。
そんなこと、考えたこともなかった。好きだからやっていることなのに。
夢中になれるものがほしい。そんな願いを持つ人もこの世にはいるんだ、と思った。だって、僕の元にやってくる願いは、たいてい、恋とか進路とかそういうものだったからだ。
日奈子さんは周りをよく見ることができる。僕と反対で、周りばかり見ている。だからなのかもしれない。たくさんのことが見えるから、その中から夢中になれるものを探すのが難しいのだ。
最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。
「あ、雪」
日奈子さんが立ち上がって外を見る。もう薄暗い。
「珍しいね」
「まあもう十二月も下旬だしね。もうすぐ、クリスマスだよ、クリスマス」
「あれ、もう?」
「ほんと千尋は……。もう二学期も終わるよ。日付くらい気にしてなって」
「いつも何か教えてくれる日奈子さんがいるから」
手元に視線があったから、その時、日奈子さんがどんな顔をしていたのかは分からない。ただ、なんかすごい、恥ずかしいことを言った気がした。
「電車止まらないでほしいな」
厚手のコートを着て、その上に白のマフラーを巻き、日奈子さんは教室を出ていった。
僕も帰ろうと思って立ち上がったとき、視界の隅に白いものが見えた。スカーフが落ちている。長さを調節するために中央が結ばれていた。何年も使っているからか、ほつれがひどい。
日奈子さんのスカーフだった。
それを手に取って、日奈子さんの机の上に置こうとして、やめた。
罪悪感を感じながらも、綺麗に畳んで、自分のカバンに入れた。
このとき、僕ははじめて、誰かのためのエンジェルになろうと思った。
それから、たびたび日奈子さんからスカーフを渡されるようになった。
なんでも藤原さんが晴れて先輩と付き合うことになったらしく、僕の刺繡にお守りの効果があったのだと言いふらしているらしい。それを聞いた人たちが、僕に依頼をしてくる。日奈子さんを通して。
なんでも僕は「エンジェルさん」と呼ばれているらしい。願いを叶えてくれるエンジェルさんなんだそうだ。そんな大したものは縫っていないし、趣味の延長だし、スピリチュアルでもなんでもないのに。そう思うのなら勝手にそう思ってくれればいいが、期待はほどほどにしてほしい。技術もまだまだだし。
千尋という名前が女子っぽいというのもあって、僕の顔を知らない人からは女子だと思われているのも日奈子さんに聞いた。日奈子さんが依頼を受け取ってくるし、届けてもくれるから、僕のことを知らずに頼む人の方が多かった。
一回、お礼の手紙を受け取ったことがある。それも日奈子さんから渡された。
でも僕は全然興味がなくて、一回読んで捨てた。依頼主のことなんか、どうでも良かったのだ。とにかく綺麗なものをうまく縫う。それだけのためにやっていたことだったから。感謝されたくてとか、誰かのためにとか、そういうのはまったくなかった。依頼はただのネタだった。
僕がやっていることは感謝されているんだというのも、日奈子さんから聞いた。
僕の周りのことは、僕より日奈子さんのほうがよく知っている。僕は僕の外の世界を、日奈子さんからでしか知ろうとしなかった。
その日奈子さんはほとんどの時間を自分の席にいた。刺繡している僕にぽろぽろと独り言を呟くように話しかけてくることがある。僕は適当に相槌を打っているだけ。
僕が話をちゃんと聞いていないのは日奈子さんもよく分かっている。分かっていながら、僕に話しかけてくる。
依頼のやり取りをしてくれているほどだから、日奈子さんはもっと社交的な人なのだと思っていたけれど、どうも違う。
周囲を見ない僕だけれど、日奈子さんのことが気になって、こっそりと視線を上げて隣を見る。
長い前髪が、長いまつ毛にかかっている。頬杖をついていた。時たま、溜息のようなものも聞こえてくる。
日奈子さんはずっと僕の隣に座って、周りを見ていた。まるで、何かを羨んでいるような眼差しで。その眼差しが僕に向けられているのを感じることもあった。刺繡をしているとき、日奈子さんがこちらを見ているのを感じるのだ。
なぜ周囲を羨むように見ているのに、ここに座ってじっとしているのだろう。
何か日奈子さんもすればいいのに。そう思って出た言葉は「暇そうだね」だった。あまりにも口下手だった。違うそうじゃない、と思う前に、日奈子さんはうなづいた。
「うん。暇だね。暇だからここにいる」
「日奈子さんは、恋したいなとか、趣味持ちたいなとか、思わないの」
「夢中になれるものは、あったらいいなとは思う。羨ましいとも思うよ。けど、まだ出会ってない」
日奈子さんは、僕の手にあるものを褒めた。
ずっと夢中になってやっているものがあるのはすごいことなのだと。
そんなこと、考えたこともなかった。好きだからやっていることなのに。
夢中になれるものがほしい。そんな願いを持つ人もこの世にはいるんだ、と思った。だって、僕の元にやってくる願いは、たいてい、恋とか進路とかそういうものだったからだ。
日奈子さんは周りをよく見ることができる。僕と反対で、周りばかり見ている。だからなのかもしれない。たくさんのことが見えるから、その中から夢中になれるものを探すのが難しいのだ。
最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。
「あ、雪」
日奈子さんが立ち上がって外を見る。もう薄暗い。
「珍しいね」
「まあもう十二月も下旬だしね。もうすぐ、クリスマスだよ、クリスマス」
「あれ、もう?」
「ほんと千尋は……。もう二学期も終わるよ。日付くらい気にしてなって」
「いつも何か教えてくれる日奈子さんがいるから」
手元に視線があったから、その時、日奈子さんがどんな顔をしていたのかは分からない。ただ、なんかすごい、恥ずかしいことを言った気がした。
「電車止まらないでほしいな」
厚手のコートを着て、その上に白のマフラーを巻き、日奈子さんは教室を出ていった。
僕も帰ろうと思って立ち上がったとき、視界の隅に白いものが見えた。スカーフが落ちている。長さを調節するために中央が結ばれていた。何年も使っているからか、ほつれがひどい。
日奈子さんのスカーフだった。
それを手に取って、日奈子さんの机の上に置こうとして、やめた。
罪悪感を感じながらも、綺麗に畳んで、自分のカバンに入れた。
このとき、僕ははじめて、誰かのためのエンジェルになろうと思った。