瑠璃色の星
昔から周りを見ない子どもだったけれど、刺繡を初めてから手元しか見なくなった。
のめり込んでいる時間が長くなって、授業中ですら、ずっと図案を考えるようになってしまっていた。
自分の周りに何があって、誰がいて、何が起こっているのか。自分の外のことはちっとも分からなかったし、興味もないから分かろうともしなかった。
目に入ってくるのは、僕が綺麗だと思ったもの、刺繡したいと思ったものだけだ。
そんな僕の閉ざされた世界の中に、時たま入り込んでくる人がいる。
高校二年の夏の終わり。放課後になっても教室がざわざわしていて、何なんだろうと思いながら手を動かしていた。
突然、誰かに声をかけられた。
「椋くん、縫ってほしいのがあるんだけど」
女子の声だった。
顔を上げると、真っ白なスカーフが目に入ってきた。女子の胸元にある制服のスカーフだ。それを持った女子が目の前に立っていた。
誰だろう。同じクラスの人かな。それよりも、今、僕に縫ってほしいって言った?
疑問が一瞬にして浮かび上がったけれど、会話をほとんど忘れてしまっていたから、その後出た言葉は「僕に?」だけだった。
「うん。なんか、なんでもいい。見えにくいところに、ワンポイント」
「なんで?」
「気分。材料費がいるなら、お金は出すから」
断る前にスカーフを押し付けられてしまい戸惑った。
手元に残った真っ白なスカーフ。誰かのためになんか縫ったことがない。いつも自分がいいなと思うものばかり縫っていた。
真っ白なキャンバスのようなスカーフを目の前にして頭の中が真っ白になる。何も浮かばない、というのを久しぶりに経験した。
「断ればよかったのに」
また女子の声がした。
隣の席で肘をついて僕を見ていた。名札がちらりと見える。星さん。そんな人、クラスにいたっけ。
本当に周りに興味がない。クラスメイトのことが全然分からない。隣が誰なのかも分からなかった。
「断る隙がなかった」
「椋くん、静かだし、頼み事しやすそうって思われてるんじゃない?」
「あの人、誰?」
「同じクラスの藤原さんだよ。そいや、今度の文化祭で先輩に告白するとかなんとか言ってたな。お守りにでもするんじゃない?」
「ああ、そうなんだ……、ありがとう」
告白のお守りとしてなら……。ちょっとだけ考えて、真っ白なスカーフの中央、襟で隠れるところに、薔薇を縫うことにした。それがぱっと脳内に浮かんだからだ。
藤原さんがどういう人なのか分からないし、そこまで星さんに聞くようなことでもないと思ったからだ。頼まれるのは初めてだけど、僕がいいと思うものを縫えばいいと思って、すぐに取り掛かった。
完成はすぐにしたけれど、藤原さんに渡すタイミングがなかなか掴めなかった。
その時、また、隣から声がかかった。
「私が持っていってあげる。何円かかった?」
「えっと……材料費は……そこまで……」
「でもお金はちゃんともらっときなよ。時間かけてるんでしょ」
「じゃあ、ワンポイントだから、五百円くらいで」
「ん。渡してくる」
ふじわらー、と大きな声で呼びかけ、星さんは席をたった。藤原さんは「日奈子」と星さんを呼んでいた。そのとき、はじめて星さんの名前を知った。
藤原さんがちらりとこちらを見たから、僕は恥ずかしくなって手元に視線を落とした。手元には縫いかけたアイリスがある。藤原さんは僕に声をかけることなくスカーフを受け取った。
視界の中に白い手が入ってくる。
「五百円ね。きっちり」
「ありがとう……日奈子さん」
「ん」
手を止めて、隣を見た。日奈子さんも静かに席に座っていた。僕と違って、何かをしているわけではない。ただ、じっと座って、外を見ていた。
周りを見てみる。ざわついていたのは、文化祭の準備のためだった。でも、日奈子さんはそれには参加せず、傍観者でいる。
藤原さんのことを知っていたし、僕が刺繡を完成させていたことも知っていた。日奈子さんはそこの席からずっと周りを見ていたのだろう。手元しか見ない僕と違って、日奈子さんは周りがよく見える人なんだとその時すぐに思った。
星日奈子さん。星に、日だ。すごい輝きを持つ名前だった。
のめり込んでいる時間が長くなって、授業中ですら、ずっと図案を考えるようになってしまっていた。
自分の周りに何があって、誰がいて、何が起こっているのか。自分の外のことはちっとも分からなかったし、興味もないから分かろうともしなかった。
目に入ってくるのは、僕が綺麗だと思ったもの、刺繡したいと思ったものだけだ。
そんな僕の閉ざされた世界の中に、時たま入り込んでくる人がいる。
高校二年の夏の終わり。放課後になっても教室がざわざわしていて、何なんだろうと思いながら手を動かしていた。
突然、誰かに声をかけられた。
「椋くん、縫ってほしいのがあるんだけど」
女子の声だった。
顔を上げると、真っ白なスカーフが目に入ってきた。女子の胸元にある制服のスカーフだ。それを持った女子が目の前に立っていた。
誰だろう。同じクラスの人かな。それよりも、今、僕に縫ってほしいって言った?
疑問が一瞬にして浮かび上がったけれど、会話をほとんど忘れてしまっていたから、その後出た言葉は「僕に?」だけだった。
「うん。なんか、なんでもいい。見えにくいところに、ワンポイント」
「なんで?」
「気分。材料費がいるなら、お金は出すから」
断る前にスカーフを押し付けられてしまい戸惑った。
手元に残った真っ白なスカーフ。誰かのためになんか縫ったことがない。いつも自分がいいなと思うものばかり縫っていた。
真っ白なキャンバスのようなスカーフを目の前にして頭の中が真っ白になる。何も浮かばない、というのを久しぶりに経験した。
「断ればよかったのに」
また女子の声がした。
隣の席で肘をついて僕を見ていた。名札がちらりと見える。星さん。そんな人、クラスにいたっけ。
本当に周りに興味がない。クラスメイトのことが全然分からない。隣が誰なのかも分からなかった。
「断る隙がなかった」
「椋くん、静かだし、頼み事しやすそうって思われてるんじゃない?」
「あの人、誰?」
「同じクラスの藤原さんだよ。そいや、今度の文化祭で先輩に告白するとかなんとか言ってたな。お守りにでもするんじゃない?」
「ああ、そうなんだ……、ありがとう」
告白のお守りとしてなら……。ちょっとだけ考えて、真っ白なスカーフの中央、襟で隠れるところに、薔薇を縫うことにした。それがぱっと脳内に浮かんだからだ。
藤原さんがどういう人なのか分からないし、そこまで星さんに聞くようなことでもないと思ったからだ。頼まれるのは初めてだけど、僕がいいと思うものを縫えばいいと思って、すぐに取り掛かった。
完成はすぐにしたけれど、藤原さんに渡すタイミングがなかなか掴めなかった。
その時、また、隣から声がかかった。
「私が持っていってあげる。何円かかった?」
「えっと……材料費は……そこまで……」
「でもお金はちゃんともらっときなよ。時間かけてるんでしょ」
「じゃあ、ワンポイントだから、五百円くらいで」
「ん。渡してくる」
ふじわらー、と大きな声で呼びかけ、星さんは席をたった。藤原さんは「日奈子」と星さんを呼んでいた。そのとき、はじめて星さんの名前を知った。
藤原さんがちらりとこちらを見たから、僕は恥ずかしくなって手元に視線を落とした。手元には縫いかけたアイリスがある。藤原さんは僕に声をかけることなくスカーフを受け取った。
視界の中に白い手が入ってくる。
「五百円ね。きっちり」
「ありがとう……日奈子さん」
「ん」
手を止めて、隣を見た。日奈子さんも静かに席に座っていた。僕と違って、何かをしているわけではない。ただ、じっと座って、外を見ていた。
周りを見てみる。ざわついていたのは、文化祭の準備のためだった。でも、日奈子さんはそれには参加せず、傍観者でいる。
藤原さんのことを知っていたし、僕が刺繡を完成させていたことも知っていた。日奈子さんはそこの席からずっと周りを見ていたのだろう。手元しか見ない僕と違って、日奈子さんは周りがよく見える人なんだとその時すぐに思った。
星日奈子さん。星に、日だ。すごい輝きを持つ名前だった。
1/4ページ