Skeb
古代日本において、双子というのは忌み嫌われていたらしい。
貧しい地域では口減らしのために父母自ら片方を手にかけていたそうだ。かの有名なヤマトタケルも双子で、兄を殺したという話が残っている。双子は諍いの元となるから嫌われていたのかもしれない。これは俺の考えであって、本当のことは知らないが。
どちらを兄にし、どちらを弟にするかも、古代では今と少し違っていた。先に生まれたほうが弟で、後に生まれたほうが兄だった。
先に生まれたほうが弟なのは、後に生まれる兄のためだとかいう話を聞いたことがある。弟は兄を守るために先に生まれるのだという。
俺が死んだ理由を考える。
もしその話が本当ならば、俺は弟を守るために死んだことになる――本当にそうなのか?
自分のことは自分にしか分からない。だが、俺は、俺自身が分からない。
生まれる時の記憶なんかない。母の胎の中にいたことも覚えていない。死んだときのことも覚えていない。俺の記憶のはじまりは、現世に足をつけた瞬間だ。
死んだときの俺は、本当に自ら望んで死んだのか? 弟、暁のために?
そんなわけあるか。
双子の片割れのために命を捧げたと言えば、お涙頂戴物語になるかもしれないが、そういうのは生まれた後に育まれる感情だ。関係性が良くて、本当に片割れのことを愛しているなら、そういう感情も芽生えるのだろう。俺は生憎、そんな感情は持っていない。
先に生まれた片割れが、後に生まれる片割れのために命を捧げたなんていう話は、大人たちが都合よく子どもの死を解釈していただけにすぎない。
むしろ、俺は、弟を殺したい。
大学生となった暁は一人暮らしをしている。いたって普通の学生アパート。モノクロのシンプルな家具で統一されている。
狭い部屋なのに、さらに本棚が狭くしている。棚には本がぎっちりと詰まっていた。勤勉な文系学生のような部屋だ。真面目というわけではないが、読書や勉強が好きなタイプ。俺は奴の趣味が理解できない。だが、奴の選書センスは一度だけ褒めたくなったことがある。
この本棚の中に、一冊だけ気になる本があった。双子について書かれている新書である。古代の双子について知れたのは、この本のおかげである。
暁が不在のときに、俺はこうして部屋に上がり込む。
部屋は少し暖かかった。さっきまで暖房がきいていて、人がここにいたことを物語っている。
午後七時。暁はバイトに行っている。最近、飲食のバイトを始めたらしく、今頃厨房であくせく働いているのだろう。お前には家庭教師のほうがお似合いだと思うんだけどな。
本棚の前で佇んでいると、チャイムが鳴った。俺が声をかける前に玄関のドアが開く。
「さむっ……、なんで暖房入れてないの? 外、雪だよ、雪。めっちゃ降ってる」
もー、と言いながら上がり込んできたのは女だった。
幸幸小雪。暁の恋人である。たびたび夜にアパートに上がり込んでくる。
俺が暁でないことに気付かない鈍感女。手には何か入ったビニール袋があった。
部屋の主のことなどお構いなしにエアコンを点け、設定温度を上げた。
「雪でテンション上がってるの?」
「だって滅多に降らないだろ! 口開けて、雪食ってた」
がはは、と豪快に笑う小雪。外で口開けて歩いている女。間抜け面を想像した。小学生みたいなことすんなと言いたくなる。
だが、今の俺は、暁である。思っても言わない。かわりに少しだけいたずらしてみることにした。
「知ってる? 雪虫ってのがいるらしいんだけど。ふわふわで、ぱっと見、雪なの。口に入ったの、虫だったりして」
「えっ、嘘……おえぇ……」
「嘘。このへんには生息していません」
このやろ~、と拳をぶつけてくる小雪を無視して、ビニール袋の中を見た。菓子袋とアルコールの缶が入っている。飲みに来たのか。
「クリスマスはバイト入っちゃったからさ」
「そっかあ。残念」
「弟たちともパーティーできないのつらい」
それでもケーキは予約したのだと喜々と語る小雪。今年はブッシュドノエルなんだと報告される。
きょうだいを愛する気持ちは、俺には理解できないし、クリスマスに誰かと一緒にいたいという気持ちもない。だから、適当に相槌を打つ。
もし暁だったら、心から残念がるのだろう。
小雪が持ってきた酒はどれも甘かった。カクテルのようなものだ。度数は低め。飲んでも酔っている感覚があまりない。なんとなく、気持ちが軽くなる程度だ。
一方、小雪はすぐにべろべろになる。顔も真っ赤だった。こんなジュースのような酒でも酔えるのが少し羨ましい。
男の部屋に上がりこんで、べろべろに酔うなんて、あまりにも危機感がなさすぎる。そんな彼女にまだ手を出していない弟に拍手を送りたい。――それはそれで男としてどうなんだとも思うのだが。
気付いたら、小雪は床に横になってうとうととしていた。猫のように丸くなっている。
ふにゃふにゃになった小雪を抱き上げ、マフラーを首にかける。
「もう帰りなよ。弟たちも寝る頃でしょ」
「やぁ~」
首を横に振って駄々をこねる小雪。仕方なく、机の上にあったコップで水を飲ませてやった。
熱を孕む小雪の身体。室温も高い。俺の身体も火照っていた。
別に小雪に対して、恋愛感情は一切持っていないのだが、このとき、不意にもキスしたくなった。暁なら絶対にしないであろうことをしたくなってしまった。
なぜしたくなったのか、はっきりとした理由は分からない。人間の本能が働いたのか、暁からこの女を奪いたかったのか。それとも、もっと別の理由があったのか。
分かろうとする前に身体が動いた。
小雪ははっとして、俺の顔面を手で押さえる。押さえるというより、叩きつけられる。「バチン」というオノマトペが似合う音が鳴った。
「ぶふっ」
間抜けな声が出た。顔がひりひりとする。特に鼻。グーじゃなかっただけマシだった。鼻血が出ていたかもしれない。
「タイミング今じゃない、ばーか」
小雪はふらふらしながらも、俺の手から離れる。
顔が真っ赤だった。もともと酒で真っ赤だったのが、さらに赤くなっている。
「今じゃなかったら、したの?」
「そんなの聞くな! 酔い覚めたわ! 帰る!」
バタン、と勢いよくドアが閉まった。
なんだ、照れ隠しかよ。小雪の覚悟がなかったってだけか。つまり、暁とやろうと思えばできたということだ。
暑すぎる。エアコンを切って、窓を開けた。冷たい空気と一緒に、雪が部屋に入ってくる。
ベランダに出る。街灯で照らされた部分は白くなっていた。雪が積もっている。
今日にでも暁を殺してしまおう。そう思った。
暁が帰ってくるまで、俺はクローゼットの中に潜むことにした。暗闇の中で物音を聞く。
奴の帰宅後の動きは決まっている。課題のレポートの執筆をしたあとに長めの入浴、明日の講義の準備をしたあと、ベッドで読書、そのまま就寝。
深い眠りに入るのは午後一時頃。
気付かれないようにクローゼットから出て、枕元に立つ。
常夜灯のあたたかなオレンジの光に包まれ、安らかに寝息を立てていた。エアコンはオフになっていた。寒いのか、口元まで羽毛布団に包まれている。
布団を胸下までずらすと、寝がえりを打って、仰向けになった。気付かれたかと一瞬ひやりとしたが、またすぐに一定の呼吸に戻る。
俺と同じ顔。憎たらしい顔だ。今すぐその顔を歪ませたい。
ベッドに膝をつくと、軋む音が部屋に響いた。暁は何も気付いていない。
そのまま、馬乗りになった。
首に手を当てる。全体重をかける。
俺のために死んでくれ。
息苦しさに気付いた暁は、片手で俺の手首を掴んだ。少しだけ身をねじらせ、目を開いた。
「な、ん」
逃げようともがくものの、俺が馬乗りになっているので、その抵抗は無意味に終わった。そのかわりに、枕元にあったリモコンで明かりを点けた。俺の顔がはっきりと照明に照らされる。
俺の顔を見た暁は、目を丸くした。
「……っ、やっと会えたね。俺のそっくりさん」
そのセリフには少し驚いた。俺は今までこいつの前に姿を現していなかったからだ。いつどこで気付かれていたのか。
暁は首を絞められながら、僅かな笑みを浮かべていた。そのへらへら顔が気に入らない。
ただ、少しだけ、会話してやろうという気になった。
「気付いてたのか」
「薄々。辻褄の、合わない……連絡が……小雪から、たびたび、来てたから」
苦しそうにしながらも大きく酸素を吸い、話を続ける。
「金縛りかと思った、けど、違ったね。ほんとに……そっくりだ。ドッペルゲンガー、が、死の、予兆とは、言うけど、ほんと、かもね」
「なんだそれ」
「言葉の通りだよ。ドッペルゲンガーと会ったら、死ぬんだ」
まさか、絞首で殺されるとは思わなかったけど、と笑う。
なぜ笑っているのか、俺には理解できなかった。
「小雪を、奪おうとでも?」
「違う」
「俺を、殺して、俺の代わり、になるの?」
「さあ」
「動機が、ない殺人は、鬼の、すること、だよ」
「語る必要がないだけ」
「……でも、ドッペルゲンガーの、っ、ほうが、似合うかもね」
「じゃあ、それでいい」
「理由は分からないけど、やるなら、一気に、やってくれよ。そろそろ、苦しい」
「逃げようとしないのか」
「状況からして、逃げるのは、無理、かもねえ」
へらへらと答えるので、俺は我慢できずに腕と手にぐ、と力をこめる。
余裕のあった顔が、次第に歪んでいく。目尻には涙が浮かんでいた。
瓜二つの顔。俺自身が苦しんでいるように見える。
古代の伝承が本当なら、俺は本当に、こいつのために死んだのか?
俺は自ら望んで、先に産道を通ろうとして死んだのか?
弟に安全な道を進んでもらうため、自ら危険な道を先に行ったのか?
俺は生まれる前から、そんな善良な人間だったのか?
もしそうだとして、こいつが死んだら、俺の死の価値は、どうなるんだ?
俺が死んだ理由がなくなったら、俺はもう一度死ぬのか?
――今、俺は、俺が俺を殺しているのか?
手を離した。
咳き込む暁を目の前にして、俺は硬直していた。
今の感覚に、正直、驚いていた。
殺そうと思えば殺せたのに、俺は、それができなかった。殺したかったはずなのに、できなかった。なぜだ。
戸惑っていると、暁が身体を起こし、向き合う形になる。喉元を摩っていた。
「っ、なんなんだよ、お前。最後までやれよ。中途半端にしやがって」
ようやくここで怒りが湧いてきたのか、俺を睨んでくる。
ぞくりとして、ベッドから離れる。
暁は、明らかに俺を今、敵視している。俺たちはもう、二度と“仲良しの双子”にはなれないのだと確信した。
「……いつか、殺す」
それだけ言い残して、ベランダから飛び降りた。
逃げるようにして、雪の中を走った。
あの時の感情は、簡単に、恐怖という言葉で表されるものだったのかもしれない。
あの時、俺は、もう一度死ぬことに恐怖を覚えた。
弟を通して、自分の死を見た。自分で自分の首を絞めていた。
ここではっきりしたのは、俺は、死に対して、ひどい恐怖感を抱いているということだった。俺は死にたくない。
俺は俺であるという理由がほしい。
だから弟を殺したい。
あいつは言った。動機のない殺人は鬼のすることだと。
断じて違うと言いたい。俺の殺人動機はちゃんとある。
◆
「お前と俺が、別人の別人格で、俺の幻覚でないって、どうやって証明したらいいか。というのをずっと考えてたんだ」
コーヒーを飲みながら、暁はそう言った。
いつものようにアパートに来ると、暁と鉢合わせてしまった。講義が急に休みになってしまったらしい。
テーブルにはノートパソコンが置かれていたので、レポートの最中だったのだろう。
殺しに来たのか、と問われ、俺は違うと答えた。
小雪と適当に絡んで、暇つぶしをしようと思っていただけだ。殺す気分ではない。
だから、少しだけ会話をすることにした。
「ドッペルゲンガーってさ。あれから改めて調べたんだけど。幻覚、怪奇現象とされてるんだってね。死の予兆とも言われる。それに関しては知っていた。で、大事なのは、お前が幻覚、怪奇現象なのか、そうでないのかなんだ」
「どっちでもいいじゃないか」
言われてみれば、俺は怪奇現象なのかもしれない。俺でも説明ができない力で、この現世に降り立ったのだから。
もうなんでもいい。いちいち考えていられない。この世には、説明ができない力が働いている。それが分かっているだけでじゅうぶんだ。
人間の暁は知らなくていい事実。その点において、俺のほうが優位だった。
「お前も暇人だよな。そんなことばかりずっと考えてるんだ」
「暇人とは失礼な。真面目に学生やってるんですぅ。そもそも考えるのが好きだしね」
マグカップに唇をつけたまま、彼はしばらく思索した。
「――俺のことを暇人と評価するということは、俺とは違う何かか……、いや、俺が俺を無意識のうちに客観視した感想を幻覚が語ってる可能性も……」
「病院に行けばいいんじゃないか?」
「ああ、それ、いいアイデアだね。確かに。精神科がいいかな」
「その必要はないけどな。俺は幻覚ではないことは確かだ」
ははは、と乾いた笑いをする暁。相変わらず、へらへら顔をしている。頭の中ではご立派に物事を考えているのだろうが、外面がこれだから、少し残念である。
「ああ、そうだ。一つ手があるよ」
「何の」
「俺とお前が、別の存在だということをはっきりさせる、線引きみたいな行為がひとつある」
ぱちん、ぱちん、と指を鳴らす。そうだそうだ、それだ、と言っているような仕草だった。
「お前に名前をつければいいんだ」
名推理をしている探偵のようなドヤ顔。
「名前をつけてやれば、俺とお前ははっきりと分離する。そうだそうだ」
「得意になっているところ残念なんだけど、それは無理だよ」
「は?」
「だって、俺はちゃんと名前がある」
「先にそれを言えよー!」
母親と父親しか知らないが。
親が暁に対して、俺の存在を隠している理由は知らない。暁を悲しませないようにするためとか、そういった理由だろうが。
この現世に降り立って、一度も、俺は俺の名前を読んだことがないし、誰からも呼ばれたことがない。
自分の名前は知っているが、知っているだけで、使ったことがなかった。
「で? なんていうの?」
一瞬、名乗ろうとした。口が開きかけ、そして閉じた。
逡巡ののち、名乗るのはやめた。
「教えるつもりはない。でも、お前の近くに、答えはある」
「なんだそれ」
「必要とするなら、必死に探してみな。じゃ、俺は帰る」
また遊びに来いよ、と言われる。
あいつが俺にどういう心情を抱いているのか知らないが、その言葉に、また俺は驚いた。
俺に殺されそうになったことを忘れているのではないかとも思ってしまった。
外に出ると、満開の桜が目に入った。アパートの玄関前に立っている、立派な桜である。
この世の全てを祝福するかのような花だ。春は、そういう雰囲気が漂っている。
俺ももし、暁と同じように、正当にこの世に生まれ落ちることができたら、たくさんの祝福を浴びていただろう。名という贈り物も親から直接渡されていただろう。
俺には名がある。あるのはあるが、親の記憶の中に封じられている。
別にあいつに教えてもよかった。俺は知っているから。
あいつが双子の兄の存在を知って、どんな反応をするか、それを見てみたかった。
俺はあいつのために自ら望んで死んだんじゃない。それは確かだ。ただ、あいつが俺の死をどう思うかが知りたかった。俺の殺人動機に気付くかどうか知りたかった。俺の口からではなく、親から聞いた反応を見てみたかった。
それを見てから、あいつを殺しても遅くはないだろう。
俺が納得する結果になるか、ならないか。
まだ答えは出なくていい。しばらくはせっかく与えられたこのふわふわの人間の皮を被ったような “俺”を使ってこの世を楽しむことにする。
貧しい地域では口減らしのために父母自ら片方を手にかけていたそうだ。かの有名なヤマトタケルも双子で、兄を殺したという話が残っている。双子は諍いの元となるから嫌われていたのかもしれない。これは俺の考えであって、本当のことは知らないが。
どちらを兄にし、どちらを弟にするかも、古代では今と少し違っていた。先に生まれたほうが弟で、後に生まれたほうが兄だった。
先に生まれたほうが弟なのは、後に生まれる兄のためだとかいう話を聞いたことがある。弟は兄を守るために先に生まれるのだという。
俺が死んだ理由を考える。
もしその話が本当ならば、俺は弟を守るために死んだことになる――本当にそうなのか?
自分のことは自分にしか分からない。だが、俺は、俺自身が分からない。
生まれる時の記憶なんかない。母の胎の中にいたことも覚えていない。死んだときのことも覚えていない。俺の記憶のはじまりは、現世に足をつけた瞬間だ。
死んだときの俺は、本当に自ら望んで死んだのか? 弟、暁のために?
そんなわけあるか。
双子の片割れのために命を捧げたと言えば、お涙頂戴物語になるかもしれないが、そういうのは生まれた後に育まれる感情だ。関係性が良くて、本当に片割れのことを愛しているなら、そういう感情も芽生えるのだろう。俺は生憎、そんな感情は持っていない。
先に生まれた片割れが、後に生まれる片割れのために命を捧げたなんていう話は、大人たちが都合よく子どもの死を解釈していただけにすぎない。
むしろ、俺は、弟を殺したい。
大学生となった暁は一人暮らしをしている。いたって普通の学生アパート。モノクロのシンプルな家具で統一されている。
狭い部屋なのに、さらに本棚が狭くしている。棚には本がぎっちりと詰まっていた。勤勉な文系学生のような部屋だ。真面目というわけではないが、読書や勉強が好きなタイプ。俺は奴の趣味が理解できない。だが、奴の選書センスは一度だけ褒めたくなったことがある。
この本棚の中に、一冊だけ気になる本があった。双子について書かれている新書である。古代の双子について知れたのは、この本のおかげである。
暁が不在のときに、俺はこうして部屋に上がり込む。
部屋は少し暖かかった。さっきまで暖房がきいていて、人がここにいたことを物語っている。
午後七時。暁はバイトに行っている。最近、飲食のバイトを始めたらしく、今頃厨房であくせく働いているのだろう。お前には家庭教師のほうがお似合いだと思うんだけどな。
本棚の前で佇んでいると、チャイムが鳴った。俺が声をかける前に玄関のドアが開く。
「さむっ……、なんで暖房入れてないの? 外、雪だよ、雪。めっちゃ降ってる」
もー、と言いながら上がり込んできたのは女だった。
幸幸小雪。暁の恋人である。たびたび夜にアパートに上がり込んでくる。
俺が暁でないことに気付かない鈍感女。手には何か入ったビニール袋があった。
部屋の主のことなどお構いなしにエアコンを点け、設定温度を上げた。
「雪でテンション上がってるの?」
「だって滅多に降らないだろ! 口開けて、雪食ってた」
がはは、と豪快に笑う小雪。外で口開けて歩いている女。間抜け面を想像した。小学生みたいなことすんなと言いたくなる。
だが、今の俺は、暁である。思っても言わない。かわりに少しだけいたずらしてみることにした。
「知ってる? 雪虫ってのがいるらしいんだけど。ふわふわで、ぱっと見、雪なの。口に入ったの、虫だったりして」
「えっ、嘘……おえぇ……」
「嘘。このへんには生息していません」
このやろ~、と拳をぶつけてくる小雪を無視して、ビニール袋の中を見た。菓子袋とアルコールの缶が入っている。飲みに来たのか。
「クリスマスはバイト入っちゃったからさ」
「そっかあ。残念」
「弟たちともパーティーできないのつらい」
それでもケーキは予約したのだと喜々と語る小雪。今年はブッシュドノエルなんだと報告される。
きょうだいを愛する気持ちは、俺には理解できないし、クリスマスに誰かと一緒にいたいという気持ちもない。だから、適当に相槌を打つ。
もし暁だったら、心から残念がるのだろう。
小雪が持ってきた酒はどれも甘かった。カクテルのようなものだ。度数は低め。飲んでも酔っている感覚があまりない。なんとなく、気持ちが軽くなる程度だ。
一方、小雪はすぐにべろべろになる。顔も真っ赤だった。こんなジュースのような酒でも酔えるのが少し羨ましい。
男の部屋に上がりこんで、べろべろに酔うなんて、あまりにも危機感がなさすぎる。そんな彼女にまだ手を出していない弟に拍手を送りたい。――それはそれで男としてどうなんだとも思うのだが。
気付いたら、小雪は床に横になってうとうととしていた。猫のように丸くなっている。
ふにゃふにゃになった小雪を抱き上げ、マフラーを首にかける。
「もう帰りなよ。弟たちも寝る頃でしょ」
「やぁ~」
首を横に振って駄々をこねる小雪。仕方なく、机の上にあったコップで水を飲ませてやった。
熱を孕む小雪の身体。室温も高い。俺の身体も火照っていた。
別に小雪に対して、恋愛感情は一切持っていないのだが、このとき、不意にもキスしたくなった。暁なら絶対にしないであろうことをしたくなってしまった。
なぜしたくなったのか、はっきりとした理由は分からない。人間の本能が働いたのか、暁からこの女を奪いたかったのか。それとも、もっと別の理由があったのか。
分かろうとする前に身体が動いた。
小雪ははっとして、俺の顔面を手で押さえる。押さえるというより、叩きつけられる。「バチン」というオノマトペが似合う音が鳴った。
「ぶふっ」
間抜けな声が出た。顔がひりひりとする。特に鼻。グーじゃなかっただけマシだった。鼻血が出ていたかもしれない。
「タイミング今じゃない、ばーか」
小雪はふらふらしながらも、俺の手から離れる。
顔が真っ赤だった。もともと酒で真っ赤だったのが、さらに赤くなっている。
「今じゃなかったら、したの?」
「そんなの聞くな! 酔い覚めたわ! 帰る!」
バタン、と勢いよくドアが閉まった。
なんだ、照れ隠しかよ。小雪の覚悟がなかったってだけか。つまり、暁とやろうと思えばできたということだ。
暑すぎる。エアコンを切って、窓を開けた。冷たい空気と一緒に、雪が部屋に入ってくる。
ベランダに出る。街灯で照らされた部分は白くなっていた。雪が積もっている。
今日にでも暁を殺してしまおう。そう思った。
暁が帰ってくるまで、俺はクローゼットの中に潜むことにした。暗闇の中で物音を聞く。
奴の帰宅後の動きは決まっている。課題のレポートの執筆をしたあとに長めの入浴、明日の講義の準備をしたあと、ベッドで読書、そのまま就寝。
深い眠りに入るのは午後一時頃。
気付かれないようにクローゼットから出て、枕元に立つ。
常夜灯のあたたかなオレンジの光に包まれ、安らかに寝息を立てていた。エアコンはオフになっていた。寒いのか、口元まで羽毛布団に包まれている。
布団を胸下までずらすと、寝がえりを打って、仰向けになった。気付かれたかと一瞬ひやりとしたが、またすぐに一定の呼吸に戻る。
俺と同じ顔。憎たらしい顔だ。今すぐその顔を歪ませたい。
ベッドに膝をつくと、軋む音が部屋に響いた。暁は何も気付いていない。
そのまま、馬乗りになった。
首に手を当てる。全体重をかける。
俺のために死んでくれ。
息苦しさに気付いた暁は、片手で俺の手首を掴んだ。少しだけ身をねじらせ、目を開いた。
「な、ん」
逃げようともがくものの、俺が馬乗りになっているので、その抵抗は無意味に終わった。そのかわりに、枕元にあったリモコンで明かりを点けた。俺の顔がはっきりと照明に照らされる。
俺の顔を見た暁は、目を丸くした。
「……っ、やっと会えたね。俺のそっくりさん」
そのセリフには少し驚いた。俺は今までこいつの前に姿を現していなかったからだ。いつどこで気付かれていたのか。
暁は首を絞められながら、僅かな笑みを浮かべていた。そのへらへら顔が気に入らない。
ただ、少しだけ、会話してやろうという気になった。
「気付いてたのか」
「薄々。辻褄の、合わない……連絡が……小雪から、たびたび、来てたから」
苦しそうにしながらも大きく酸素を吸い、話を続ける。
「金縛りかと思った、けど、違ったね。ほんとに……そっくりだ。ドッペルゲンガー、が、死の、予兆とは、言うけど、ほんと、かもね」
「なんだそれ」
「言葉の通りだよ。ドッペルゲンガーと会ったら、死ぬんだ」
まさか、絞首で殺されるとは思わなかったけど、と笑う。
なぜ笑っているのか、俺には理解できなかった。
「小雪を、奪おうとでも?」
「違う」
「俺を、殺して、俺の代わり、になるの?」
「さあ」
「動機が、ない殺人は、鬼の、すること、だよ」
「語る必要がないだけ」
「……でも、ドッペルゲンガーの、っ、ほうが、似合うかもね」
「じゃあ、それでいい」
「理由は分からないけど、やるなら、一気に、やってくれよ。そろそろ、苦しい」
「逃げようとしないのか」
「状況からして、逃げるのは、無理、かもねえ」
へらへらと答えるので、俺は我慢できずに腕と手にぐ、と力をこめる。
余裕のあった顔が、次第に歪んでいく。目尻には涙が浮かんでいた。
瓜二つの顔。俺自身が苦しんでいるように見える。
古代の伝承が本当なら、俺は本当に、こいつのために死んだのか?
俺は自ら望んで、先に産道を通ろうとして死んだのか?
弟に安全な道を進んでもらうため、自ら危険な道を先に行ったのか?
俺は生まれる前から、そんな善良な人間だったのか?
もしそうだとして、こいつが死んだら、俺の死の価値は、どうなるんだ?
俺が死んだ理由がなくなったら、俺はもう一度死ぬのか?
――今、俺は、俺が俺を殺しているのか?
手を離した。
咳き込む暁を目の前にして、俺は硬直していた。
今の感覚に、正直、驚いていた。
殺そうと思えば殺せたのに、俺は、それができなかった。殺したかったはずなのに、できなかった。なぜだ。
戸惑っていると、暁が身体を起こし、向き合う形になる。喉元を摩っていた。
「っ、なんなんだよ、お前。最後までやれよ。中途半端にしやがって」
ようやくここで怒りが湧いてきたのか、俺を睨んでくる。
ぞくりとして、ベッドから離れる。
暁は、明らかに俺を今、敵視している。俺たちはもう、二度と“仲良しの双子”にはなれないのだと確信した。
「……いつか、殺す」
それだけ言い残して、ベランダから飛び降りた。
逃げるようにして、雪の中を走った。
あの時の感情は、簡単に、恐怖という言葉で表されるものだったのかもしれない。
あの時、俺は、もう一度死ぬことに恐怖を覚えた。
弟を通して、自分の死を見た。自分で自分の首を絞めていた。
ここではっきりしたのは、俺は、死に対して、ひどい恐怖感を抱いているということだった。俺は死にたくない。
俺は俺であるという理由がほしい。
だから弟を殺したい。
あいつは言った。動機のない殺人は鬼のすることだと。
断じて違うと言いたい。俺の殺人動機はちゃんとある。
◆
「お前と俺が、別人の別人格で、俺の幻覚でないって、どうやって証明したらいいか。というのをずっと考えてたんだ」
コーヒーを飲みながら、暁はそう言った。
いつものようにアパートに来ると、暁と鉢合わせてしまった。講義が急に休みになってしまったらしい。
テーブルにはノートパソコンが置かれていたので、レポートの最中だったのだろう。
殺しに来たのか、と問われ、俺は違うと答えた。
小雪と適当に絡んで、暇つぶしをしようと思っていただけだ。殺す気分ではない。
だから、少しだけ会話をすることにした。
「ドッペルゲンガーってさ。あれから改めて調べたんだけど。幻覚、怪奇現象とされてるんだってね。死の予兆とも言われる。それに関しては知っていた。で、大事なのは、お前が幻覚、怪奇現象なのか、そうでないのかなんだ」
「どっちでもいいじゃないか」
言われてみれば、俺は怪奇現象なのかもしれない。俺でも説明ができない力で、この現世に降り立ったのだから。
もうなんでもいい。いちいち考えていられない。この世には、説明ができない力が働いている。それが分かっているだけでじゅうぶんだ。
人間の暁は知らなくていい事実。その点において、俺のほうが優位だった。
「お前も暇人だよな。そんなことばかりずっと考えてるんだ」
「暇人とは失礼な。真面目に学生やってるんですぅ。そもそも考えるのが好きだしね」
マグカップに唇をつけたまま、彼はしばらく思索した。
「――俺のことを暇人と評価するということは、俺とは違う何かか……、いや、俺が俺を無意識のうちに客観視した感想を幻覚が語ってる可能性も……」
「病院に行けばいいんじゃないか?」
「ああ、それ、いいアイデアだね。確かに。精神科がいいかな」
「その必要はないけどな。俺は幻覚ではないことは確かだ」
ははは、と乾いた笑いをする暁。相変わらず、へらへら顔をしている。頭の中ではご立派に物事を考えているのだろうが、外面がこれだから、少し残念である。
「ああ、そうだ。一つ手があるよ」
「何の」
「俺とお前が、別の存在だということをはっきりさせる、線引きみたいな行為がひとつある」
ぱちん、ぱちん、と指を鳴らす。そうだそうだ、それだ、と言っているような仕草だった。
「お前に名前をつければいいんだ」
名推理をしている探偵のようなドヤ顔。
「名前をつけてやれば、俺とお前ははっきりと分離する。そうだそうだ」
「得意になっているところ残念なんだけど、それは無理だよ」
「は?」
「だって、俺はちゃんと名前がある」
「先にそれを言えよー!」
母親と父親しか知らないが。
親が暁に対して、俺の存在を隠している理由は知らない。暁を悲しませないようにするためとか、そういった理由だろうが。
この現世に降り立って、一度も、俺は俺の名前を読んだことがないし、誰からも呼ばれたことがない。
自分の名前は知っているが、知っているだけで、使ったことがなかった。
「で? なんていうの?」
一瞬、名乗ろうとした。口が開きかけ、そして閉じた。
逡巡ののち、名乗るのはやめた。
「教えるつもりはない。でも、お前の近くに、答えはある」
「なんだそれ」
「必要とするなら、必死に探してみな。じゃ、俺は帰る」
また遊びに来いよ、と言われる。
あいつが俺にどういう心情を抱いているのか知らないが、その言葉に、また俺は驚いた。
俺に殺されそうになったことを忘れているのではないかとも思ってしまった。
外に出ると、満開の桜が目に入った。アパートの玄関前に立っている、立派な桜である。
この世の全てを祝福するかのような花だ。春は、そういう雰囲気が漂っている。
俺ももし、暁と同じように、正当にこの世に生まれ落ちることができたら、たくさんの祝福を浴びていただろう。名という贈り物も親から直接渡されていただろう。
俺には名がある。あるのはあるが、親の記憶の中に封じられている。
別にあいつに教えてもよかった。俺は知っているから。
あいつが双子の兄の存在を知って、どんな反応をするか、それを見てみたかった。
俺はあいつのために自ら望んで死んだんじゃない。それは確かだ。ただ、あいつが俺の死をどう思うかが知りたかった。俺の殺人動機に気付くかどうか知りたかった。俺の口からではなく、親から聞いた反応を見てみたかった。
それを見てから、あいつを殺しても遅くはないだろう。
俺が納得する結果になるか、ならないか。
まだ答えは出なくていい。しばらくはせっかく与えられたこのふわふわの人間の皮を被ったような “俺”を使ってこの世を楽しむことにする。