Skeb
地下牢の見回り。これは看守、エルネスタ・アーレンスに課された仕事の一つだった。
地獄を思わせるかのような闇の中を、カンテラ一つ持って歩いていく。
ここに入った者たちは、もう二度と陽の光を見ることはできない。もちろん、地上にも新しい刑務所はあるが、そちらは刑が軽い者、もしくは脱獄の恐れがない者を収容する場所である。地下に送られるものはほとんどが終身刑を受けた者や、何度も脱獄を試みた者である。
地下牢は古くからあるものを再利用したものだった。その歴史は、この国ができるよりもずっと前に始まったとされる。深く深く掘られたこの穴からは、二度と人間を地上に出さまいという意思すら感じる。檻房は重たい鉄で固く閉ざされ、看守ですら開けるのが困難だった。
ぽつ、ぽつ、と水が滴る音と、エルネスタの足音が響く。長い廊下を歩いていると、本当にここに人間が存在するのか、と疑いたくなってくる。何度歩いても慣れない。
暑くもなく、寒くもない地下。唯一のぬくもりであるカンテラが頼りである。
そのカンテラで檻房の中を照らすと、囚人が暗闇の中からぼんやりと浮かぶ。大抵の者は両手足を投げ出すかのようにして地べたに座り、壁に背を預け、意識をどこかに飛ばし、虚構を見つめている。エルネスタが持っている僅かな光にも気が付かない。
そのうち、両腕を拘束された者がいる。彼だけは、他の囚人と違った。
檻房の中央で、足を屈めて座っている。光に反応し、眼鏡のレンズを反射させながらエルネスタを見上げた。ニヤリと笑う彼に、エルネスタはぞっとする。だがそれも一瞬のことである。
彼のプロフィールは諳んじることができる。
鬼呉。天皇を暗殺した罪で終身刑を言い渡されここにいる。エルネスタがここに配属される前から何度も脱獄を試みているため、両腕をベルトで拘束されている。ずば抜けた知能はすべて己の欲のために使う、狡猾な人物である。
「新しい仲間が増えたようだね。ここから南に部屋三つ分のところ」
彼から語りかけられることにうんざりしているエルネスタは、一度溜息をついた。逡巡ののち、相手してやることにした。
「他国からやってきたスパイのことか。三日前に入ったはずだが。それが何か」
ザ……ザザッ……といった雑音の入った音。無線機を通したような音声。それがエルネスタの”声”である。
過去の戦闘で負傷し、顔の下半分がないエルネスタは器具を通して言葉を発する。それを見るだけでも鬼呉は嬉しそうな顔をした。
「あれ、報告行ってない?」
「もったいぶるな」
鬼呉のニヤニヤ顔にイライラする。これが彼と関わりたくない理由である。会話の筋が波打って調子が狂うのだ。この地獄の中で意識を保っている人物はそうおらず、まともに会話ができるのは時にはありがたいこともあるのだが、彼の場合はそうは思わない。まるで自分がおもちゃにされているような感覚を抱く。
「戯言なら私はもう行く。交代の時間が近い」
「ああ、待って待って。君に伝えたいことがあるんだよ」
軽く足を振り上げ、勢いをつけて立ち上がった鬼呉は、ゆらゆらと揺れながら檻に近寄った。軽く腰を曲げ、視線の高さを合わせられる。語り始める前から笑いが込み上げ、く、く、と喉が鳴っていた。
こういうときは大抵、中身のない戯言だ。聞き流すつもりだった。
「ここに入ってから数分経ったあとかなあ。もう俺には時間感覚がないから、もしかしたら数時間後だったかもしれない。君が三日前だと言うのなら、その三日間の間のどこかだ。突然、叫びだしたんだよ。気が狂ったかと思った」
「それが常人の反応だ。何年もここにいるお前も、当然知っているはずだが。その時の看守にも、特別報告するようなことではないと判断されたから、私の耳に入らなかった。それだけのことだ。以上。私はもう行く」
一歩踏み出したところで、ガチャンと檻が鳴る。体をぶつけて、檻の隙間から顔を出そうとしている。
「待てって。話にオチは必要だろ?」
「私が先に結論付けたはずだが?」
「”出してくれ! ここから出してくれ!”」
突然叫びだした鬼呉にぎょっとする。彼の声量は、この地下牢全体に響き渡るほどある。いきなりの大声にエルネスタも驚いてしまった。
「おい、やめろ、静かにしろ」
隣の囚人をちらりと見る。この騒ぎにもぴくりともしなかった。
それも通常の反応である。もう慣れてしまって、いちいち反応しなくなる。そもそも、意識を飛ばしているから、感知すらしていないのかもしれない。
「”故郷に家族がいるんだ、妹が俺を待っているんだ、出してくれ!” ――だってさ。いやあ、俺、ちょっと泣いちゃったよ。そっかそっか、家族のためかあってね」
しょうもない。
それがエルネスタの感想である。そんなことを聞かされるためにここに留められたのか。
「それがしばらく続いて、途端に静かになった。生きているかどうか確かめたほうがいいんじゃない? 奥歯に自殺用の毒を仕込んでいるかも」
「その必要はない。毒がないことも確認済みだ。ここで自殺できる者はいない。全体通して、些細なことだった。私が出した結論は変わらない。それから、本人に話しても意味がないだろうから、お前に言っておこう」
カンテラを掲げ、鬼呉を照らした。
まるでこちらの反応を楽しんでいるかのような笑みが浮かんでいる。
「彼らは家族のため、とはよく言うが。本当にそうなら、こんなところに来ない。本当に何かやり遂げるものがあるのなら、捕まるなんてヘマをしない。つまり、大抵は嘘だ。そして、私は家族や仲間を使った嘘は、大嫌いだ。お前の戯言に点数をつけてやろうか。零点。まったく面白くない」
制服の外套を翻し、先を急いだ。交代の時間、エルネスタの勤務時間の終わりが迫っている。
「なら、なぜ、君はここにいるんだい?」
エルネスタの歩みが止まる。その背中を、鬼呉はねっとりとした笑みを浮かべて見ていた。
踵を返した彼女の瞳は、僅かに揺らいでいた。
「私のことを貴様に語る必要はない」
キッと睨みつけられた鬼呉は、わざとらしく「おお、怖い」と体を震わせた。
「面白かったよ。またね」
半月のような目をした彼はゆらりと闇の中に消えていった。地獄に静寂が訪れる。
彼との会話にはそれほどの時間は使っていないはずなのだが、長い時間を過ごしたようだ。ここにいると、エルネスタ自身、時間の感覚が狂う。懐中時計を取り出し、時間を確認する。もちろん、さほど時間は経っていない。交代に向けて、こなすべきことを着実に進めていく。
闇に意識を吸われた囚人たちは、死んでいるようで、生きている。彼らはもう娯楽を求めることはない。鬼呉だけが違った。
彼の”面白い”の基準は、エルネスタにはよく分からない。ただ、自分の反応が面白がられたということだけは分かる。おもちゃにされて不愉快だ。苛立ちを分かりやすく表に出してしまったことは反省した。
ザ……と器具のスピーカーから雑音が発せられる。溜息が「はぁ」とはっきりとした発音として出てくる。音声はすうっと闇の中に溶けていった。
その溜息は、呆れの溜息ではない。胸の奥に詰まった何か凝り固まったものを出すような、そんな溜息だった。
激しい雨が地を打ち付けていた。
ぐじゃぐじゃになった地面に伏せている。強烈な土と雨と、それから血のにおい。
視線の先には、最愛の妹、ロミルダが横たわっている。血と雨が制服をずぶずぶに濡らしていた。綺麗な顔は痛みに歪んでいる。
必死に手を伸ばそうとしても体は動かず、必死に声を上げようとしても代わりに出るのは血ばかりで、妹には何も届かなかった。
なぜ声が出ない。錯乱状態のエルネスタは分からなかった。何度も何度も叫ぼうとして血を吐いた。
次第に、降ってくる雨が血に変わった。鉄と土と火薬のにおいに変わった。
その瞬間、目の前の光景が消える。
ソファに横たわっていた。自室に戻ったあと、すぐにソファに横たわり寝落ちしてしまったようである。
エルネスタはおもむろに体を起こし、口元に手をやった。そこにあるのは柔らかい唇ではなく、冷たい器具だ。エルネスタに口はない。
嫌な夢を見た。手のひらに、べったりとした嫌な汗をかいている。かつて握った血の感触と似ていて気持ちが悪くて、シャワーに向かった。
節水せよとの命令が出ているが、ぼうっと長い時間熱い湯に打たれた。
夢の半分は、過去の現実である。
弾幕戦だった。当時、隊長を務めていたエルネスタと、その妹ロミルダは、仲間たちと共に前線の戦いに出た。射撃の腕に長けていた二人は何人もの敵を殺した。しかし、結果は、敗北。相手のほうが一枚上であった。
エルネスタは顔の下半分を撃ち抜かれ、ロミルダは脇と腹と頭を撃ち抜かれた。
雨が降ってきたのはそのすぐあとのことである。
戦いによる興奮で痛みを感じず、顔の下半分が飛んだことにすぐ気が付かなかったエルネスタは、何度もロミルダの名を呼ぼうとした。しかし噴き出してくるのは血で、そのあとすぐに意識を失ってしまったのである。
エルネスタは出血量こそ酷かったものの奇跡的に一命をとりとめたが、ロミルダは帰らぬ人となった。医者の話によれば、即死だったという。
地獄で鬼呉が自分にしてきた質問に対する答えは明瞭である。
戦地でヘマをしたからだ。
自分もヘマをしたから、地下にいる。それだけの話である。
シャワーをしたあと、今度はきちんとベッドに入って眠ろうとした。しかし、なかなか寝付けない。
当時のことを思い出すのはこれが初めてというわけではない。何度も夢に見た。そのたびに、フラッシュバックに苛まれた。
必ず起こるのは、失った顔の下半分の痛み。ないはずの口が痛む。撃ち抜かれた時は痛みを感じなかったくせに、後になってから逃れられない痛みとなって発現した。
デスクの上に放置していたはずの痛み止めはなかった。全て飲み切ってしまっていたようだ。頻繁にあるから多めに処方してもらっていたのだが。
懐中時計で時間を確かめ、エルネスタは制服に身を包み、自室を出る。
向かった先はエルネスタのカウンセリングを担当しているルアンナ・タイレという女性カウンセラーの部屋である。約束はしていないが、何かあれば来ればいいと言われていた。
棟が別なため、一度、外に出る必要があった。
空に浮かんでいるのは大きな満月である。明かりも不要なほど明るかった。
ルアンナの部屋のドアをノックすると、数秒後、内からドアが開けられた。グレーの美しい長髪はしっとりと濡れていて、簡単なワンピースの部屋着を着ていた。
「ああ、エルネスタさん。ごめんなさい、こんな格好で」
入って、と軽く言われるので、おずおずと入室する。
「いや、こんな遅くに、こちらこそ申し訳ない。勤務時間外だろう」
「私に勤務時間はあってないようなものですから。かけて待っていて」
エルネスタはこくりと頷いた。
カウンセリングを始めた当初は、表情に乏しい人だという印象を受けていたのだが、最近少し柔らかくなったような気がする。
椅子に腰かけ、テーブルの上にあるものを見る。ワイングラスには白ワインが、その横にはナッツバーがあった。テレビは静止した映像が映し出されている。彼女の趣味は映画を見ることであることは知っている。きっとこれから映画鑑賞をするつもりだったのだろう。多少、申し訳なく思った。
髪を軽くまとめたルアンナは、薬を入れた包みとカルテを手にしている。痛みに耐えられなくて来たということは既に察せられていた。
「薬がもらえるなら、それでいいんだ。ありがとう。すぐに帰る」
「待って。処方するには、一応、話をしないといけませんから。今日はどうしました?」
「いつも通り。痛い」
冷たい器具を指で摩る。もちろん、器具が痛いわけではない。ルアンナはそうですか、と簡単に相槌を打った。
「痛みが出てきた原因に心当たりは?」
「妹を失った日を思い出した。これもいつもと同じ」
「そうですか。奇遇ですね、私も今日は手足が痛むのです。満月の夜はほぼ必ずといっていいほど」
ルアンナは右の手を摩った。それは義手だった。
彼女もエルネスタと同じで、体の一部を失った者だった。右腕と右足を失った彼女は、戦いに出ることができなくなったため、こうやってカウンセリングを行っているのである。
「思い出すといっても、色んな思い出があるでしょう。痛みを発現させる記憶と、そうでない記憶があります。私が痛むのは、大抵、腕と足が飛んだ日です。今日と同じく、満月の夜でした。記憶と痛みが繋がっているのです。なぜか分かりますか」
「え。強烈な記憶だから……?」
「もちろん強烈ではあります。でも、それだけが理由ではありません。私は失った身体に対して、未練があります。私の身体への考えは今回のカウンセリングに重要ではないので、私の話はここまでにしておきましょう。エルネスタさんはどうですか。思い出に対する気持ち。今日はこのお話をしましょう」
問われて、エルネスタははじめてそのようなことを考えた。
「簡単に言えば後悔だろうか。なんで助けられなかったんだって思うことはある」
「そうですか」
また、ルアンナの顔に、僅かながらに微笑みが浮かぶ。
「自分も死ねばよかった、では、ないのですね。大抵の者は、死ねばよかった、と言います。でも、あなたは、助けられなかった、と表現しました」
その発言の意味がよく分からず、エルネスタは首をかしげる。
「どちらにしろ、私にあるのは、ロミルダを救えなかったという終わりなき後悔だ。自責、ともいうのか」
「いいえ、この違いは大きいですよ」
ルアンナはテーブルに置いた手をしきりに摩っている。
「死ねばよかったと思うのなら、死ねばいいのです」
その発言に、エルネスタは一瞬、どきりとした。
カウンセラーが発する言葉とは思えなかった。固まってしまったエルネスタを見たルアンナは「例えばの話ですよ」と断りを入れた。
「解決策が現在にありますから、解決できます。そうやって自死してしまう者がたくさんいました。まあ、私たちが死なせないようにするのですが」
「確かに」
「でも、貴女は、後悔を過去に置いてきてしまいました。助けられなかった。助けたいけど、その対象はもう過去の中。解決することが不可能です。ちなみに、夢の詳細をまだ聞いていませんでした。夢の中で、貴女は助けようとして、どうするのですか」
「呼ぼうとした。ロミルダ、ロミルダ、と何度も呼ぼうとした」
でも、顔から下半分がない。舌がない。声帯はあれど、言葉に変換することができない。溢れ出す血のせいで声が出ない。
もし、顔から下半分があれば、妹の名を呼んで、妹の意識を繋げることができていたかもしれない。
もし、声が出せたら、即死だったろうが、もっと早くに助けを求めることができたかもしれない。
数多の“もし”を考えれば考えるほど、幻の痛みが強くなる。エルネスタは無意識に顔元に指を伸ばしていた。
「口が残っていればって思えば思うほど、痛む」
「つまり、後悔と未練ですね。私と同じです」
「治そうとは思わないのか」
「治りませんよ。これはもう一生のものです。でも、貴女の痛みはまだ治る可能性があります」
カルテから視線を上げたルアンナは、エルネスタの瞳をじっと見つめた。
「質問を変えます。その痛み、本当に治そうと思っています?」
痛みを忘れるということは、過去の後悔も忘れるということになる。
忘れる、というより、受け入れる、といったほうが正しいのかもしれない。そうできなかった事実を認めるということだ。
それは難しい、とエルネスタは思った。
前線に出る前に、隊長権限で、ロミルダを除隊させようとした。大切な一人の妹を戦いに出すことに躊躇いが生じたからだ。
だが、ロミルダはエルネスタに対して、こう言った。
――隊長と一緒に行く。
まっすぐに、そう言ったのである。
何度か説得しようと試みた。ロミルダ一人いなくなったところで特に戦力が下がるわけではない。万が一、自分が倒れた時、ロミルダを頼りにしたい。なにより、ロミルダを失いたくない。正直に伝えたが、ロミルダは自分の決意を曲げることはしなかった。
彼女がこの世を去ってしまったのは、彼女のその勇気と正義のせいにしたくなかった。彼女を引き留められなかった自分のせいにしておけば、口を失ってしまった自分のせいにしておけば、彼女の勇気と正義はいつまでも美しいままでいられた。
今のエルネスタには、そうすることでしか、彼女の死を正当化することができないのである。
ルアンナの問いに対し、痛みを完全になくそうとは思っていない、と返した。
「今の貴女に必要なのは、痛み止めよりも、アルコールかもしれません」
エルネスタの前に置かれたのは、一本のボトルだった。赤ワインである。
「もう飲めますよね?」
「いや……、飲めるのだが、なぜ?」
「気休めです。私もよくそうするのです。あ、もしかして、白のほうが好みでしたか?」
「赤でいい」
ボトルを受け取り、退室しようとしたところで、エルネスタはルアンナに問うた。
「死ねばよかった、のくだりは、ルアンナ殿自身の経験談か」
「どうでしょう。そのあたり、記憶が曖昧なので」
ふふ、と軽く微笑んだ。その笑みは、誤魔化しであることを、エルネスタは知っている。
――もうその話は終わり! 隊長と一緒に行くって決めた。だからもう、二度とこの話はしないで。
――私が先に出る。大丈夫。私の腕前は、隊長だって知ってるでしょ。
破顔一笑。突撃前に見せた、ロミルダの顔を思い出す。
――姉上。生きて帰ろう。
自分の先を走るロミルダの背中は、たくましいなと思った。ロミルダは小柄で、背中もそんなに大きくないのだが、エルネスタから見た妹の背中は、たくましく、勇ましく、誇らしいものだった。
ずっとそのままでいてくれ。
赤ワインが注がれたグラスを掲げた。
室内の照明は一切ついていない。月光だけが頼りである。
彼女のその勇気と正義に、乾杯。
ストローで赤ワインを吸い上げる。胃に強いアルコールが入っていった。
地獄を思わせるかのような闇の中を、カンテラ一つ持って歩いていく。
ここに入った者たちは、もう二度と陽の光を見ることはできない。もちろん、地上にも新しい刑務所はあるが、そちらは刑が軽い者、もしくは脱獄の恐れがない者を収容する場所である。地下に送られるものはほとんどが終身刑を受けた者や、何度も脱獄を試みた者である。
地下牢は古くからあるものを再利用したものだった。その歴史は、この国ができるよりもずっと前に始まったとされる。深く深く掘られたこの穴からは、二度と人間を地上に出さまいという意思すら感じる。檻房は重たい鉄で固く閉ざされ、看守ですら開けるのが困難だった。
ぽつ、ぽつ、と水が滴る音と、エルネスタの足音が響く。長い廊下を歩いていると、本当にここに人間が存在するのか、と疑いたくなってくる。何度歩いても慣れない。
暑くもなく、寒くもない地下。唯一のぬくもりであるカンテラが頼りである。
そのカンテラで檻房の中を照らすと、囚人が暗闇の中からぼんやりと浮かぶ。大抵の者は両手足を投げ出すかのようにして地べたに座り、壁に背を預け、意識をどこかに飛ばし、虚構を見つめている。エルネスタが持っている僅かな光にも気が付かない。
そのうち、両腕を拘束された者がいる。彼だけは、他の囚人と違った。
檻房の中央で、足を屈めて座っている。光に反応し、眼鏡のレンズを反射させながらエルネスタを見上げた。ニヤリと笑う彼に、エルネスタはぞっとする。だがそれも一瞬のことである。
彼のプロフィールは諳んじることができる。
鬼呉。天皇を暗殺した罪で終身刑を言い渡されここにいる。エルネスタがここに配属される前から何度も脱獄を試みているため、両腕をベルトで拘束されている。ずば抜けた知能はすべて己の欲のために使う、狡猾な人物である。
「新しい仲間が増えたようだね。ここから南に部屋三つ分のところ」
彼から語りかけられることにうんざりしているエルネスタは、一度溜息をついた。逡巡ののち、相手してやることにした。
「他国からやってきたスパイのことか。三日前に入ったはずだが。それが何か」
ザ……ザザッ……といった雑音の入った音。無線機を通したような音声。それがエルネスタの”声”である。
過去の戦闘で負傷し、顔の下半分がないエルネスタは器具を通して言葉を発する。それを見るだけでも鬼呉は嬉しそうな顔をした。
「あれ、報告行ってない?」
「もったいぶるな」
鬼呉のニヤニヤ顔にイライラする。これが彼と関わりたくない理由である。会話の筋が波打って調子が狂うのだ。この地獄の中で意識を保っている人物はそうおらず、まともに会話ができるのは時にはありがたいこともあるのだが、彼の場合はそうは思わない。まるで自分がおもちゃにされているような感覚を抱く。
「戯言なら私はもう行く。交代の時間が近い」
「ああ、待って待って。君に伝えたいことがあるんだよ」
軽く足を振り上げ、勢いをつけて立ち上がった鬼呉は、ゆらゆらと揺れながら檻に近寄った。軽く腰を曲げ、視線の高さを合わせられる。語り始める前から笑いが込み上げ、く、く、と喉が鳴っていた。
こういうときは大抵、中身のない戯言だ。聞き流すつもりだった。
「ここに入ってから数分経ったあとかなあ。もう俺には時間感覚がないから、もしかしたら数時間後だったかもしれない。君が三日前だと言うのなら、その三日間の間のどこかだ。突然、叫びだしたんだよ。気が狂ったかと思った」
「それが常人の反応だ。何年もここにいるお前も、当然知っているはずだが。その時の看守にも、特別報告するようなことではないと判断されたから、私の耳に入らなかった。それだけのことだ。以上。私はもう行く」
一歩踏み出したところで、ガチャンと檻が鳴る。体をぶつけて、檻の隙間から顔を出そうとしている。
「待てって。話にオチは必要だろ?」
「私が先に結論付けたはずだが?」
「”出してくれ! ここから出してくれ!”」
突然叫びだした鬼呉にぎょっとする。彼の声量は、この地下牢全体に響き渡るほどある。いきなりの大声にエルネスタも驚いてしまった。
「おい、やめろ、静かにしろ」
隣の囚人をちらりと見る。この騒ぎにもぴくりともしなかった。
それも通常の反応である。もう慣れてしまって、いちいち反応しなくなる。そもそも、意識を飛ばしているから、感知すらしていないのかもしれない。
「”故郷に家族がいるんだ、妹が俺を待っているんだ、出してくれ!” ――だってさ。いやあ、俺、ちょっと泣いちゃったよ。そっかそっか、家族のためかあってね」
しょうもない。
それがエルネスタの感想である。そんなことを聞かされるためにここに留められたのか。
「それがしばらく続いて、途端に静かになった。生きているかどうか確かめたほうがいいんじゃない? 奥歯に自殺用の毒を仕込んでいるかも」
「その必要はない。毒がないことも確認済みだ。ここで自殺できる者はいない。全体通して、些細なことだった。私が出した結論は変わらない。それから、本人に話しても意味がないだろうから、お前に言っておこう」
カンテラを掲げ、鬼呉を照らした。
まるでこちらの反応を楽しんでいるかのような笑みが浮かんでいる。
「彼らは家族のため、とはよく言うが。本当にそうなら、こんなところに来ない。本当に何かやり遂げるものがあるのなら、捕まるなんてヘマをしない。つまり、大抵は嘘だ。そして、私は家族や仲間を使った嘘は、大嫌いだ。お前の戯言に点数をつけてやろうか。零点。まったく面白くない」
制服の外套を翻し、先を急いだ。交代の時間、エルネスタの勤務時間の終わりが迫っている。
「なら、なぜ、君はここにいるんだい?」
エルネスタの歩みが止まる。その背中を、鬼呉はねっとりとした笑みを浮かべて見ていた。
踵を返した彼女の瞳は、僅かに揺らいでいた。
「私のことを貴様に語る必要はない」
キッと睨みつけられた鬼呉は、わざとらしく「おお、怖い」と体を震わせた。
「面白かったよ。またね」
半月のような目をした彼はゆらりと闇の中に消えていった。地獄に静寂が訪れる。
彼との会話にはそれほどの時間は使っていないはずなのだが、長い時間を過ごしたようだ。ここにいると、エルネスタ自身、時間の感覚が狂う。懐中時計を取り出し、時間を確認する。もちろん、さほど時間は経っていない。交代に向けて、こなすべきことを着実に進めていく。
闇に意識を吸われた囚人たちは、死んでいるようで、生きている。彼らはもう娯楽を求めることはない。鬼呉だけが違った。
彼の”面白い”の基準は、エルネスタにはよく分からない。ただ、自分の反応が面白がられたということだけは分かる。おもちゃにされて不愉快だ。苛立ちを分かりやすく表に出してしまったことは反省した。
ザ……と器具のスピーカーから雑音が発せられる。溜息が「はぁ」とはっきりとした発音として出てくる。音声はすうっと闇の中に溶けていった。
その溜息は、呆れの溜息ではない。胸の奥に詰まった何か凝り固まったものを出すような、そんな溜息だった。
激しい雨が地を打ち付けていた。
ぐじゃぐじゃになった地面に伏せている。強烈な土と雨と、それから血のにおい。
視線の先には、最愛の妹、ロミルダが横たわっている。血と雨が制服をずぶずぶに濡らしていた。綺麗な顔は痛みに歪んでいる。
必死に手を伸ばそうとしても体は動かず、必死に声を上げようとしても代わりに出るのは血ばかりで、妹には何も届かなかった。
なぜ声が出ない。錯乱状態のエルネスタは分からなかった。何度も何度も叫ぼうとして血を吐いた。
次第に、降ってくる雨が血に変わった。鉄と土と火薬のにおいに変わった。
その瞬間、目の前の光景が消える。
ソファに横たわっていた。自室に戻ったあと、すぐにソファに横たわり寝落ちしてしまったようである。
エルネスタはおもむろに体を起こし、口元に手をやった。そこにあるのは柔らかい唇ではなく、冷たい器具だ。エルネスタに口はない。
嫌な夢を見た。手のひらに、べったりとした嫌な汗をかいている。かつて握った血の感触と似ていて気持ちが悪くて、シャワーに向かった。
節水せよとの命令が出ているが、ぼうっと長い時間熱い湯に打たれた。
夢の半分は、過去の現実である。
弾幕戦だった。当時、隊長を務めていたエルネスタと、その妹ロミルダは、仲間たちと共に前線の戦いに出た。射撃の腕に長けていた二人は何人もの敵を殺した。しかし、結果は、敗北。相手のほうが一枚上であった。
エルネスタは顔の下半分を撃ち抜かれ、ロミルダは脇と腹と頭を撃ち抜かれた。
雨が降ってきたのはそのすぐあとのことである。
戦いによる興奮で痛みを感じず、顔の下半分が飛んだことにすぐ気が付かなかったエルネスタは、何度もロミルダの名を呼ぼうとした。しかし噴き出してくるのは血で、そのあとすぐに意識を失ってしまったのである。
エルネスタは出血量こそ酷かったものの奇跡的に一命をとりとめたが、ロミルダは帰らぬ人となった。医者の話によれば、即死だったという。
地獄で鬼呉が自分にしてきた質問に対する答えは明瞭である。
戦地でヘマをしたからだ。
自分もヘマをしたから、地下にいる。それだけの話である。
シャワーをしたあと、今度はきちんとベッドに入って眠ろうとした。しかし、なかなか寝付けない。
当時のことを思い出すのはこれが初めてというわけではない。何度も夢に見た。そのたびに、フラッシュバックに苛まれた。
必ず起こるのは、失った顔の下半分の痛み。ないはずの口が痛む。撃ち抜かれた時は痛みを感じなかったくせに、後になってから逃れられない痛みとなって発現した。
デスクの上に放置していたはずの痛み止めはなかった。全て飲み切ってしまっていたようだ。頻繁にあるから多めに処方してもらっていたのだが。
懐中時計で時間を確かめ、エルネスタは制服に身を包み、自室を出る。
向かった先はエルネスタのカウンセリングを担当しているルアンナ・タイレという女性カウンセラーの部屋である。約束はしていないが、何かあれば来ればいいと言われていた。
棟が別なため、一度、外に出る必要があった。
空に浮かんでいるのは大きな満月である。明かりも不要なほど明るかった。
ルアンナの部屋のドアをノックすると、数秒後、内からドアが開けられた。グレーの美しい長髪はしっとりと濡れていて、簡単なワンピースの部屋着を着ていた。
「ああ、エルネスタさん。ごめんなさい、こんな格好で」
入って、と軽く言われるので、おずおずと入室する。
「いや、こんな遅くに、こちらこそ申し訳ない。勤務時間外だろう」
「私に勤務時間はあってないようなものですから。かけて待っていて」
エルネスタはこくりと頷いた。
カウンセリングを始めた当初は、表情に乏しい人だという印象を受けていたのだが、最近少し柔らかくなったような気がする。
椅子に腰かけ、テーブルの上にあるものを見る。ワイングラスには白ワインが、その横にはナッツバーがあった。テレビは静止した映像が映し出されている。彼女の趣味は映画を見ることであることは知っている。きっとこれから映画鑑賞をするつもりだったのだろう。多少、申し訳なく思った。
髪を軽くまとめたルアンナは、薬を入れた包みとカルテを手にしている。痛みに耐えられなくて来たということは既に察せられていた。
「薬がもらえるなら、それでいいんだ。ありがとう。すぐに帰る」
「待って。処方するには、一応、話をしないといけませんから。今日はどうしました?」
「いつも通り。痛い」
冷たい器具を指で摩る。もちろん、器具が痛いわけではない。ルアンナはそうですか、と簡単に相槌を打った。
「痛みが出てきた原因に心当たりは?」
「妹を失った日を思い出した。これもいつもと同じ」
「そうですか。奇遇ですね、私も今日は手足が痛むのです。満月の夜はほぼ必ずといっていいほど」
ルアンナは右の手を摩った。それは義手だった。
彼女もエルネスタと同じで、体の一部を失った者だった。右腕と右足を失った彼女は、戦いに出ることができなくなったため、こうやってカウンセリングを行っているのである。
「思い出すといっても、色んな思い出があるでしょう。痛みを発現させる記憶と、そうでない記憶があります。私が痛むのは、大抵、腕と足が飛んだ日です。今日と同じく、満月の夜でした。記憶と痛みが繋がっているのです。なぜか分かりますか」
「え。強烈な記憶だから……?」
「もちろん強烈ではあります。でも、それだけが理由ではありません。私は失った身体に対して、未練があります。私の身体への考えは今回のカウンセリングに重要ではないので、私の話はここまでにしておきましょう。エルネスタさんはどうですか。思い出に対する気持ち。今日はこのお話をしましょう」
問われて、エルネスタははじめてそのようなことを考えた。
「簡単に言えば後悔だろうか。なんで助けられなかったんだって思うことはある」
「そうですか」
また、ルアンナの顔に、僅かながらに微笑みが浮かぶ。
「自分も死ねばよかった、では、ないのですね。大抵の者は、死ねばよかった、と言います。でも、あなたは、助けられなかった、と表現しました」
その発言の意味がよく分からず、エルネスタは首をかしげる。
「どちらにしろ、私にあるのは、ロミルダを救えなかったという終わりなき後悔だ。自責、ともいうのか」
「いいえ、この違いは大きいですよ」
ルアンナはテーブルに置いた手をしきりに摩っている。
「死ねばよかったと思うのなら、死ねばいいのです」
その発言に、エルネスタは一瞬、どきりとした。
カウンセラーが発する言葉とは思えなかった。固まってしまったエルネスタを見たルアンナは「例えばの話ですよ」と断りを入れた。
「解決策が現在にありますから、解決できます。そうやって自死してしまう者がたくさんいました。まあ、私たちが死なせないようにするのですが」
「確かに」
「でも、貴女は、後悔を過去に置いてきてしまいました。助けられなかった。助けたいけど、その対象はもう過去の中。解決することが不可能です。ちなみに、夢の詳細をまだ聞いていませんでした。夢の中で、貴女は助けようとして、どうするのですか」
「呼ぼうとした。ロミルダ、ロミルダ、と何度も呼ぼうとした」
でも、顔から下半分がない。舌がない。声帯はあれど、言葉に変換することができない。溢れ出す血のせいで声が出ない。
もし、顔から下半分があれば、妹の名を呼んで、妹の意識を繋げることができていたかもしれない。
もし、声が出せたら、即死だったろうが、もっと早くに助けを求めることができたかもしれない。
数多の“もし”を考えれば考えるほど、幻の痛みが強くなる。エルネスタは無意識に顔元に指を伸ばしていた。
「口が残っていればって思えば思うほど、痛む」
「つまり、後悔と未練ですね。私と同じです」
「治そうとは思わないのか」
「治りませんよ。これはもう一生のものです。でも、貴女の痛みはまだ治る可能性があります」
カルテから視線を上げたルアンナは、エルネスタの瞳をじっと見つめた。
「質問を変えます。その痛み、本当に治そうと思っています?」
痛みを忘れるということは、過去の後悔も忘れるということになる。
忘れる、というより、受け入れる、といったほうが正しいのかもしれない。そうできなかった事実を認めるということだ。
それは難しい、とエルネスタは思った。
前線に出る前に、隊長権限で、ロミルダを除隊させようとした。大切な一人の妹を戦いに出すことに躊躇いが生じたからだ。
だが、ロミルダはエルネスタに対して、こう言った。
――隊長と一緒に行く。
まっすぐに、そう言ったのである。
何度か説得しようと試みた。ロミルダ一人いなくなったところで特に戦力が下がるわけではない。万が一、自分が倒れた時、ロミルダを頼りにしたい。なにより、ロミルダを失いたくない。正直に伝えたが、ロミルダは自分の決意を曲げることはしなかった。
彼女がこの世を去ってしまったのは、彼女のその勇気と正義のせいにしたくなかった。彼女を引き留められなかった自分のせいにしておけば、口を失ってしまった自分のせいにしておけば、彼女の勇気と正義はいつまでも美しいままでいられた。
今のエルネスタには、そうすることでしか、彼女の死を正当化することができないのである。
ルアンナの問いに対し、痛みを完全になくそうとは思っていない、と返した。
「今の貴女に必要なのは、痛み止めよりも、アルコールかもしれません」
エルネスタの前に置かれたのは、一本のボトルだった。赤ワインである。
「もう飲めますよね?」
「いや……、飲めるのだが、なぜ?」
「気休めです。私もよくそうするのです。あ、もしかして、白のほうが好みでしたか?」
「赤でいい」
ボトルを受け取り、退室しようとしたところで、エルネスタはルアンナに問うた。
「死ねばよかった、のくだりは、ルアンナ殿自身の経験談か」
「どうでしょう。そのあたり、記憶が曖昧なので」
ふふ、と軽く微笑んだ。その笑みは、誤魔化しであることを、エルネスタは知っている。
――もうその話は終わり! 隊長と一緒に行くって決めた。だからもう、二度とこの話はしないで。
――私が先に出る。大丈夫。私の腕前は、隊長だって知ってるでしょ。
破顔一笑。突撃前に見せた、ロミルダの顔を思い出す。
――姉上。生きて帰ろう。
自分の先を走るロミルダの背中は、たくましいなと思った。ロミルダは小柄で、背中もそんなに大きくないのだが、エルネスタから見た妹の背中は、たくましく、勇ましく、誇らしいものだった。
ずっとそのままでいてくれ。
赤ワインが注がれたグラスを掲げた。
室内の照明は一切ついていない。月光だけが頼りである。
彼女のその勇気と正義に、乾杯。
ストローで赤ワインを吸い上げる。胃に強いアルコールが入っていった。
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