4章

 丸一日かかった航海は終わり、地面に足をつけた瞬間に、大きな安心感に包まれた。
 砂浜の向こうには森が見える。
 ゲルダは鞄とカンテラを持ち、エリアスとハルムに占い石の一つを渡した。
「今日はもう遅いし、森の入り口で野宿をしよう。獣と出会うための文字が刻まれた石。食べられそうな獣がいたら、ハルム、あなたが風を使って捕らえて。それから、川がないかも探してきてほしい」
 石はエリアスが受け取り、ハルムは了解、と頷いた。海に落ちてから、ハルムはゲルダに対しても素直になっていた。船を運んでいる時も文句一つ言わなかったし、エリアスとのことについても騒ぎ立てなかった。それがありがたかった。
 森の入り口で乾いた枝木と枯れ草を集め、火を起こす。エリアスとハルムが森の中に入ってくれて、ちょうど良かった。一人になりたかった。
 ぱちぱちと音を立てて揺らぐ火を見つめていると、船の上であったことを思い出し、胸の中がくすぐったくなる。
 エリアスは素直だ。思ったことをすぐ口にするし、気持ちを隠そうともしない。あまり他者と関わってこなかったのだろうか。偽ることを知らないのか、それとも記憶と一緒に忘れてしまったのか。それにしても、ゲルダの心をくすぐるには十分すぎた。
(森の香りがしたな……)
 思い出すのは、あの夢の中の森だった。顔まではよく見えなかったが、青年と一緒に過ごしていた気がする、あの夢。あの人がエリアスだったらいいな、と思った。
 膝を抱え、ゲルダは船を漕ぎ始める。
 エリアスがいいな、と思ったせいだろうか。森にいて、エリアスと一緒に遊んでいた。自分は幼かった。
 紅玉の間にいた。エリアスは幼い自分を抱いていて、それから、言った。
「美しいだろう――」
 ゲルダ、と呼ばれ、はっと目を覚ます。エリアスが肩を揺らしていた。
「疲れたのか」
「あ、ごめん……、食べれそうなの、あった?」
「あった、あった。これ、どうかしら。皮を剥げば食べれそう」
 エリアスが掴んでいるのは、一羽のウサギに似た生き物だった。似ているのだが、耳はもっと広く、大きい。
 エリアスが川も見つけたというので、そこまで行って、ゲルダは鞄の中に入れていたナイフを使い、調理を始めた。エリアスは我慢ができなかったのか、少し離れた所で体を流しはじめた。冷たいのによく我慢ができるな、と思ったが、湯を沸かすものがないので、仕方がない。ゲルダも朝になったら体を流すつもりだった。本当は、お湯を沸かして、エリアスの涙のあとも拭いてあげたかった。それが、一番いいのだと、ママ・アルパに教えてもらっていたからだ。
「エリアス、痣は拡がってない?」
 遠くから話しかけてみたが、返事がない。
「エリアス? 大丈夫?」
「あ、ああ。大丈夫。もう終わったのか」
「うん」
「では急ぐ」
 待っていると、髪の毛を絞りながらエリアスはゲルダの元に戻ってくる。
 肉は食べやすい大きさにカットし、ハーブで臭みを抑えた。枝に刺しておいたので、エリアスでも食べやすいだろう。焚き火で焼き色をつけ、皆で分かち合った。
 お腹がほんの少しだけ満たされたくらいで、満足とまではいかなかった。けれど、何かを口にしただけで、安心してしまう。温かい火を見ていると、また眠気が襲ってきた。
 ふ、と意識を手放したゲルダが、エリアスに寄りかかる。
「あ、ごめん」
 ゲルダが体を起こそうとすると、エリアスはゲルダの肩を持って抱き寄せた。
「そのまま寝ろ。俺は船で寝た。火は俺が見ておくから」
「あり、がと……」
 鼓動が早くなって、寝ようにも寝れず、ゲルダはしばらく火を見ていた。
「あのね、エリアス。私も、夢、見たんだ」
「どんな」
「紅玉の間で、私はエリアスといて、私は幼くて、一緒に過ごしてたの。それだけ」
 そう言って、ゲルダはエリアスの胸に額を当てる。エリアスの鼓動も少しだけ早いような気がする。
「私のまじないは、エリアスのためになってるかな……」
「なっているとも。森から出て、救われてばかりだ。ゲルダがいないと駄目なんだ」
 エリアスが言うと、ゲルダはそのまま静かに眠った。
 額に口づけをして、ゲルダを横にさせる。
 いい夜を、と、心の中で呟いた。
 ハルムがふわりとエリアスの肩に座る。楽しそうだ。
「いいお話になりそうだわ」
「他の妖精に言いふらしたら、お前との約束は無効にしようか」
「え、やだ」
 苦笑したあと、エリアスは火を見つめて、ため息をつく。
 ゲルダの夢と、自分の夢が重なっている気がする。ゲルダが見た夢が、まじないによって自分に流れてきたのだろうか。
「なあ、ハルム。聞いていいか」
「なあに?」
「夢とは何だ」
 ハルムは夜風に乗り、踊った。
「過去、未来、願望――、夜の女王からのメッセージ。大いなる夜は全ての民の夢を見る……」
 くるくると踊るハルムをよそに、エリアスは自分の膝を抱きかかえる。ゲルダの見る夢は、ゲルダの願望なのだろうか。それとも過去なのだろうか。あの幸せな夢は。母は知っているのだろうか。
「俺の中の何かが叫ぶ。人間はやめろと。その理由は知っているか」
「さあ、それは知らないわ」
「どうしようもできないんだ。いけないことだと……何かが叫ぶのに……」
「そうでしょうとも。実は、私たち風の妖精は、恋物語が一番大好きなの」
「本当に、他の妖精に言いふらしたら、お前との約束はなしにするからな」
 ハルムは面白そうに踊っている。船の上で茶化してこなかっただけいい。エリアスは隣で寝息を立てているゲルダの顔を見る。穏やかな顔だった。
 誰かを愛しいと想う気持ちを持ったのはこれが初めてだ――記憶がある中では。
 でも、初めてでもないような気もする。
 儀式以前のことを思い出そうとすると、頭が痛くなる。そもそも、自分のあの眠りは、儀式によるものだったのか。叔父の話すことは信じていいのか。
 全ての民の夢を見ている母に聞けば、分かるのだろうか。
 エリアスは空を見上げる。夜の帳は、母のドレス。夢では会えるのに、現実では会えない母。こんな出来損ないとは違う、偉大な母。この国の理。全てを愛する女王。ちっぽけな自分を夜の愛し子と言って、手ですくい上げる母。
 この時、初めて、エリアスは夢の外で母に会ってみたいと思った。
 本当に母は俺を愛してくれているのですか。そう聞いてみたかった。
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