3章
目覚めはあまりよくないものだったが、なんとか一晩、無事過ごすことができた。日の出と共にゲルダは目を覚ました。
徐々に明るくなる空には、雲一つなかった。立ち上がり、伸びをした。
しばらくするとエリアスも目を覚まし、船の中から出てきた。
「ここで寝てたのか」
一晩砂の上で寝させてしまったことに、エリアスは申し訳ないと謝った。
「いいのよ。私は我慢できるけど、エリアスは今まで王子としての暮らしをしてきたから、そっちのほうがいいと思っただけ」
「俺はそんなに頼りなく見えるか」
ゲルダは、何その質問、と思い、もう一度エリアスの顔を見た。
どこか悔しそうな表情だ。
「そうさ、俺は森から出たことがなくて、身の回りのことも、家臣たちにさせてきた。けれど、俺は森から出るために、剣を持ち、もともと貧弱な体を少しでも強くしようと、森を走った。叔父から逃げる訓練として」
「何が言いたいの」
「俺は、まじないも魔法も使えないし、慣れないことや知らないことのほうが多すぎる。けれど、だからといって下に見られるような覚えはないということだ」
エリアスは眉を寄せながら、絞り出すように言った。
ああ、とゲルダは思った。ママ・アルパに歯向かう自分を見ているようだ。認められようと必死になっている自分を重ねた。
「分かった。じゃあ、これからすること、手伝って。船を出すのは一人じゃ無理だわ」
「分かった。何でもやろう」
海に出る前に、ゲルダは持ち物を確認した。鞄の中にはきちんと占い石と水晶が二つ。ありすぎるほどのハーブ。痛み止め、血止め、解熱、香草。潮風にさらされないように、鞄の口はしっかりと閉じた。
それから、カンテラ。街に行けば蝋燭の補充ができるだろう。正直、このカンテラに光を入れていないと、夜が心配だった。夜からゲルダを守ってくれるまじないを施しているから、お守りのようなものだった。
ハルムの話によれば、一日あれば、向こう岸に着けるようだった。次の夜こそ、野宿ではなく、宿のようなところで休みたいとゲルダは思っていた。蝋燭も入手し、安心して夜を過ごしたい。
エリアスと二人で帆を張り、風を受けられるようにする。帆船を使うのは、ゲルダも初めてだった。船に乗って海に出るということが初めてだった。ゴンド島には港があり、そこに小さな船が停まっているのは知っているが、ゲルダはゴンド島から出ることは一度もなかった。
ゴンド島から一番近い街は、ティルハーヴェンという名の都市だった。その都市からやってくる人にまじないを売ったことがあった。その人は「あそこは、夜も眠らない都市だ」と話をしていたのを覚えている。
これから向かう小人の街も、そのティルハーヴェンのような都市なのかなと想像をした。
ママ・アルパの話では、小人は非力で、その分、他の者の力を借りることに優れているという話だった。人間と小人を取り替え、人間の力を手に入れていたという伝説も残るほどだ。昼の国に伝説を残す小人たち。人間と接点のある可能性のある種族だ。不安はあるが、夜警リュートと会うことには少しだけ期待をしていた。
ロープがしっかり結ばれているか確認をしたゲルダは、エリアスに言って共に船体を押し、海に出した。ぐらつきながらも、海の上に浮かぶ船に乗るのは非常に困難だったが、なんとか這いつくばってゲルダが一番に船に乗る。
戸惑うエリアスに手を差し伸べ、引っ張り上げる。二人は向かい合う形でベンチに座った。
オールはなく、船を進めるものは風しかなかった。
「ハルム、お願い」
ゲルダが頼むと、どうしよっかな、とくねくね悩む。そのハルムの様子に、エリアスも頼むよ、と声をかけると、今度は素直に頷いた。
この妖精は主人よりも、顔がいいエルフの方の言うことを聞くのか、と苛立ちはしたが、ゲルダはぐっと堪えた。ハルムの機嫌が悪くなれば、船は進むことができず、波にさらわれてしまうだろう。確実に海を渡りたい。ゲルダは深呼吸して、天を仰いだ。占い通りの快晴である。そのまま向こう岸に渡るまで、快晴でいて、と心の中で天に願いをかけた。
ハルムはマストの先端に座り、足をぶらぶらとさせ始めた。すると、心地よい潮風がゲルダとエリアスの頬を撫で、帆を膨らませた。
ゆっくりと船は進む。
波に揺れ、エリアスはすぐに顔色を変えた。
「ひっくり返らないのか、これは」
「大丈夫でしょ。この船、何故か分からないけれど、綺麗だもん」
両手を組み、じっとしているエリアス。少し震えているようだ。怖いのだろうか。
手袋が目につき、ゲルダは軽い調子で話しかけた。
「それ、作業中も外さなかったね」
「いついかなる時も、外さない。これが外れた時は、痣が消えた時だ」
エリアスは手を広げ、そして握った。
「いつからあるのかは分からないが、この痣が広がるのを、俺は恐れている。たまに夢を見る。そう、今日も見た。この痣が全身に拡がって、ついに夜になってしまう夢だ。夜になってしまった俺は、母上――夜の女王に喰われるんだ。どろどろの夜になってしまった俺は、女王のドレスの生地になってしまう。逃げようと思っても、逃げられない。だから、こうやって手袋で隠し、見えないようにしている」
家臣の話を聞いてしまったせいなのだろうとゲルダは思った。命を狙われている身だから、そのような夢を見てしまうのだろう。
ゲルダは鞄を開けて、香りのよいハーブを取り出し、揉んだ。それを乾いたハンカチで包み、エリアスに渡す。
「これ、不安を取り除く香りがするハーブ。気分が悪くなった時にも効くから。匂いかいでみて」
言われた通り、エリアスはハンカチを鼻の前に持っていき、匂いをかいだ。
すうっとする香りだった。
「ああ、本当だ」
「ね」
ほっと微笑んだゲルダの顔を見て、エリアスもまた、強張った顔が緩んだのだった。
徐々に明るくなる空には、雲一つなかった。立ち上がり、伸びをした。
しばらくするとエリアスも目を覚まし、船の中から出てきた。
「ここで寝てたのか」
一晩砂の上で寝させてしまったことに、エリアスは申し訳ないと謝った。
「いいのよ。私は我慢できるけど、エリアスは今まで王子としての暮らしをしてきたから、そっちのほうがいいと思っただけ」
「俺はそんなに頼りなく見えるか」
ゲルダは、何その質問、と思い、もう一度エリアスの顔を見た。
どこか悔しそうな表情だ。
「そうさ、俺は森から出たことがなくて、身の回りのことも、家臣たちにさせてきた。けれど、俺は森から出るために、剣を持ち、もともと貧弱な体を少しでも強くしようと、森を走った。叔父から逃げる訓練として」
「何が言いたいの」
「俺は、まじないも魔法も使えないし、慣れないことや知らないことのほうが多すぎる。けれど、だからといって下に見られるような覚えはないということだ」
エリアスは眉を寄せながら、絞り出すように言った。
ああ、とゲルダは思った。ママ・アルパに歯向かう自分を見ているようだ。認められようと必死になっている自分を重ねた。
「分かった。じゃあ、これからすること、手伝って。船を出すのは一人じゃ無理だわ」
「分かった。何でもやろう」
海に出る前に、ゲルダは持ち物を確認した。鞄の中にはきちんと占い石と水晶が二つ。ありすぎるほどのハーブ。痛み止め、血止め、解熱、香草。潮風にさらされないように、鞄の口はしっかりと閉じた。
それから、カンテラ。街に行けば蝋燭の補充ができるだろう。正直、このカンテラに光を入れていないと、夜が心配だった。夜からゲルダを守ってくれるまじないを施しているから、お守りのようなものだった。
ハルムの話によれば、一日あれば、向こう岸に着けるようだった。次の夜こそ、野宿ではなく、宿のようなところで休みたいとゲルダは思っていた。蝋燭も入手し、安心して夜を過ごしたい。
エリアスと二人で帆を張り、風を受けられるようにする。帆船を使うのは、ゲルダも初めてだった。船に乗って海に出るということが初めてだった。ゴンド島には港があり、そこに小さな船が停まっているのは知っているが、ゲルダはゴンド島から出ることは一度もなかった。
ゴンド島から一番近い街は、ティルハーヴェンという名の都市だった。その都市からやってくる人にまじないを売ったことがあった。その人は「あそこは、夜も眠らない都市だ」と話をしていたのを覚えている。
これから向かう小人の街も、そのティルハーヴェンのような都市なのかなと想像をした。
ママ・アルパの話では、小人は非力で、その分、他の者の力を借りることに優れているという話だった。人間と小人を取り替え、人間の力を手に入れていたという伝説も残るほどだ。昼の国に伝説を残す小人たち。人間と接点のある可能性のある種族だ。不安はあるが、夜警リュートと会うことには少しだけ期待をしていた。
ロープがしっかり結ばれているか確認をしたゲルダは、エリアスに言って共に船体を押し、海に出した。ぐらつきながらも、海の上に浮かぶ船に乗るのは非常に困難だったが、なんとか這いつくばってゲルダが一番に船に乗る。
戸惑うエリアスに手を差し伸べ、引っ張り上げる。二人は向かい合う形でベンチに座った。
オールはなく、船を進めるものは風しかなかった。
「ハルム、お願い」
ゲルダが頼むと、どうしよっかな、とくねくね悩む。そのハルムの様子に、エリアスも頼むよ、と声をかけると、今度は素直に頷いた。
この妖精は主人よりも、顔がいいエルフの方の言うことを聞くのか、と苛立ちはしたが、ゲルダはぐっと堪えた。ハルムの機嫌が悪くなれば、船は進むことができず、波にさらわれてしまうだろう。確実に海を渡りたい。ゲルダは深呼吸して、天を仰いだ。占い通りの快晴である。そのまま向こう岸に渡るまで、快晴でいて、と心の中で天に願いをかけた。
ハルムはマストの先端に座り、足をぶらぶらとさせ始めた。すると、心地よい潮風がゲルダとエリアスの頬を撫で、帆を膨らませた。
ゆっくりと船は進む。
波に揺れ、エリアスはすぐに顔色を変えた。
「ひっくり返らないのか、これは」
「大丈夫でしょ。この船、何故か分からないけれど、綺麗だもん」
両手を組み、じっとしているエリアス。少し震えているようだ。怖いのだろうか。
手袋が目につき、ゲルダは軽い調子で話しかけた。
「それ、作業中も外さなかったね」
「いついかなる時も、外さない。これが外れた時は、痣が消えた時だ」
エリアスは手を広げ、そして握った。
「いつからあるのかは分からないが、この痣が広がるのを、俺は恐れている。たまに夢を見る。そう、今日も見た。この痣が全身に拡がって、ついに夜になってしまう夢だ。夜になってしまった俺は、母上――夜の女王に喰われるんだ。どろどろの夜になってしまった俺は、女王のドレスの生地になってしまう。逃げようと思っても、逃げられない。だから、こうやって手袋で隠し、見えないようにしている」
家臣の話を聞いてしまったせいなのだろうとゲルダは思った。命を狙われている身だから、そのような夢を見てしまうのだろう。
ゲルダは鞄を開けて、香りのよいハーブを取り出し、揉んだ。それを乾いたハンカチで包み、エリアスに渡す。
「これ、不安を取り除く香りがするハーブ。気分が悪くなった時にも効くから。匂いかいでみて」
言われた通り、エリアスはハンカチを鼻の前に持っていき、匂いをかいだ。
すうっとする香りだった。
「ああ、本当だ」
「ね」
ほっと微笑んだゲルダの顔を見て、エリアスもまた、強張った顔が緩んだのだった。