2章

 門からホームへと戻ってきて、しばらくフルダは自分の部屋にこもっていた。何をしているかは分からなかったが、クラウスはこういう時は話しかけないほうがいいというのは分かっていたので、リビングでマーオのブラッシングをしていた。
「……、ねえ、マーオ。ぼくたちの見間違いだったのかなあ」
 クラウスのつぶやきに、マーオは鳴いた。
「だって、話が合わないじゃんか。アイヴィンだって見てないし、門番さんだって知らなかったよ。ぼくたちがさ、見間違えたのかなあ」
 ブラシの間についたマーオの毛を指で一本ずつ取りながら、クラウスはため息をついた。
「見間違いだったら、なんか、申し訳ないな。もう本当のことが分からなくなってきたよ」
 クラウスが首を振った時、フルダも部屋から出てきた。
「そうね、私もずっと考えてたけど、本当のことが分からなくなってしまったわ。頭が煮えちゃった。ねえ、マーオも一緒にお散歩行かない?」
「あれ、フルダ。ずっと考えてたの」
「ええ。そう。今までの材料だけでは解明は無理ということだけが分かったわ。どうする? 私、お散歩ついでにお買い物もしたいんだけど。行かないなら一人で行くわ」
 とたん、マーオがクラウスの手の中からするりと抜け出し、フルダの足もとへと寄った。
 とても行きたそうだ。
 そういえば、犬って散歩しないといけないんだっけ、とクラウスはその時になってようやく気が付いた。一緒に夜の街を歩いているのだから、昼は行かなくてもいいような気はしたが。
「ぼくも行く。今日のごはん考えるの?」
「そう。なるべく安いものを選んで、料理を考えるの。ホームは常にお金がないから」
 ホームを出ると、ちょうど目の前にある教会の鐘が鳴った。
 たそがれの時間を告げる鐘だった。
 金色の光がティルを包んでいた。あ、綺麗。クラウスは純粋にそう思う。
「ねえねえ、フルダ。ここって、どんな神様にお祈りをしてるの?」
 過ぎゆく教会の黄金に輝く塔を見上げながら、クラウスは興味津々にフルダに聞いた。
「この世界を造った神様よ。たった一人の神様が私たちと、私たちが住む世界を造ってくれたのよ。私も、もちろんティル生まれだから、その神様に毎日祈りを捧げてるわ」
「へえ。ぼくの故郷にも、教会ってあったのかな……」
「覚えてないの?」
「うーん、住んでた地区から出たことがなくて。……あれ? 違うな、あったような気がする。なんか大きな建物があったのは覚えてるけど。あれ?」
 思い出そうとすればするほど、記憶がどんどんかすんでいくような気がして、クラウスは頭を傾けた。
 思い出そうとしても、枯れた茶色の土地の色しか頭の中に出てこない。なぜなのか分からなかった。なんだかそれが怖いような気がして、クラウスは俯いた。
 口をつぐんでしまったクラウスの様子を見たフルダは、話題を移そうとある話を持ち出した。
「そうそう、クラウス。神様といえば、ティルにはこんな話があるのよ。昔、パパとママに教えてもらったの。聞いて」
「うん」
「神様は、昼と夜の世界をお造りになったんですって。昼は私たちが住む世界のことよ。夜は私たちとは違う――例えば、妖精とか、小人とか――が住んでる世界なのですって。昼と夜は出会ってはいけなくって、もし出会ってしまったら、争いが起こるって言われてるの。だから、もしそうなってしまった時のために、ある人に“まじない歌”を神様はこっそり教えたの。でも、まだその“まじない歌”を知っている人は、見つかってないのですって」
 語り終えてフルダがクラウスの顔を見ると、その目はきらきらと輝いていた。
「へえ~、すごいや。ティルって、やっぱりなんでもあるんだね! その“まじない歌”って歌うとどうなるの?」
「いろいろよ。それしか、分かってないわ」
「いろいろかあ。すごいね」
 もっと聞きたいという顔をしているので、フルダは続けた。
「これは団長に幼い頃教えてもらった話なんだけど……。夜警は、もともとはその“昼と夜”が出会わないために編成された自警団なのですって」
 まだフルダがホームの生活に馴染んでなく、なかなか夜寝付けなかった時に、ローレンが聞かせてくれた物語だった。
 その時を懐かしく思いながら、フルダはローレンから聞いた話をそっくりそのままクラウスにも話す。
「昼と夜が出会ったことによって起こる争いを避けるために、昼と夜が重なる時間――つまり、昼の世界にとっての夜に、世界を守るためにティルの人々が作った組織なの。夜の住民を見つけたら、すぐに夜の国へ返す。昼の住民が夜の国へ行きそうになったら、道を戻してあげる。その仕事が、夜警の本来の仕事だったの」
「ねえ、その昼と夜が出会うって、つまり、それぞれの国の人が出会ってしまうってこと?」
「そう。行ってはいけない人に、行ってはいけない場所に行ってしまうことを“昼と夜が出会う”って言うの。お互いの国はなにもかも特性が違うから、混ざりあってはいけないのよ。まあ、つまり、このお話って、夜は気をつけろ、って意味なんだけど。ほら、ティルは眠らない街って言うでしょ。夜、出歩く人が多いから、不審者とかに気をつけろって意味なの」
 沈みゆく太陽を見ながら、フルダは笑った。
「心配しないで。まだ誰も、夜の国になんか行ったことないし、出会ったこともないから。私もこの話を聞いた時はちょっと怖かったけれど、ローレン団長たちが守ってくれるって思って安心したわ」
「……怖くはないよ。夜警って、信頼されてるんだなって思った」
「そうね。由緒ある組織だから。さて、買うわよ。何があるかしら」
 もうちょっとで夜がくる。急がなきゃと、フルダは金袋とクラウスの手を掴んで、人の多い市の中へと入った。
 今日はどうやら売り出しの日だったみたいで、クラウスはたくさんの人に押され、ぶつかりながらもフルダに引かれるままに市の中をめぐった。ほとんどが女みたいで、目星のものを買おうと躍起になっている。
(夜の国の話より怖いかも)
 その中を果敢に進んでいくフルダもフルダで、強いんだなあとクラウスは思いながら、クラウスは恰幅のいい女の背中に鼻を勢いよくぶつけて涙目になったのであった。


 まだひりひりと痛む鼻をさすりながら、クラウスはカンテラに火を入れた。
「今日は私は事務作業があるから。気を付けて。また何か見つけたら教えて」
 帽子をかぶりながら、アイヴィンがフルダにウインクをする。
「大丈夫さ。俺がいるからな。そうだクラウス、お前、まだ角笛は吹けないのか?」
「うん……。練習はしてるけど」
 鳴らなくても形だけは、と思って肩から角笛を下げているが、まだ使えなかった。
「そうか。早くコツが見つかればいいな。じゃあ、フルダ、行ってくるよ」
「行ってきます」
 角笛を下げる紐と杖をぎゅっと握りしめ、クラウスはアイヴィンと一緒に歩く。ついさっきは綺麗だと思えた教会も、夜見るとやっぱり少しだけ不気味に見えた。
 あの小火から数日が経ち、もうティルハーヴェンの住民は小火のことなどなかったかのような雰囲気になっている。安心しきったように、酒場の多い地区は賑わいを見せ、市場も相変わらずの売り出しをしている。貧困区はその影になり、今日もひっそりとしていた。
「ねえ、アイヴィン。フルダから聞いたよ、なんだっけ、夜警ができた理由」
「ああ、夜の国の話? 俺も昔はよく両親に聞かされたぞ。ティル人は絶対に知ってる話だからな」
「なんか、その話聞いちゃったから、ちょっと怖くなっちゃったよ」
 なんて、フルダの前では言えなかったけど。恥ずかしそうに笑うクラウスに、アイヴィンはなるほど、と思った。
「だからお前はさっきから杖を大事そうに持ってたんだな。なに、幽霊と出会うわけじゃあるまいし」
「でもさ」
「俺もいるし」
「うん」
 ティルは夜も眠らない街だというのは、よく分かる。
 海を見ていても、数々の船の明かりでとても賑わい、海も眠っていないように思えた。
 たぶん、フルダが教えてくれたおとぎ話ができた頃から、ティルはそういう街だったのだろう。ずっと、ティルは本当の夜を知らないのだ。
(――本当の夜は、もっと暗くて、静かで……)
 クラウスは、そこではっとした。
(故郷のこと、なんだかぼんやりしてるのに、夜のことは、よく覚えてるな……)
 なぜ自分はこんなに故郷のことを忘れてしまっているのかは分からなかったが、夜の姿だけは、今、はっきりと分かる。
 思い出すと、目を闇が包んだような感じがする。
 何も見えなかったのだ。
 月がなければ何も見えない。それがクラウスの知る夜だ。あの森の闇を見た時思い出したのだ。
(それから、なんか聞こえてた)
 クラウスが着いてきていないことに気付き、アイヴィンは足を止めた。
「クラウス? どうした?」
 反応がない。
 カンテラでクラウスを照らすと、その目は空虚を見つめていた。
 足もとをうろうろとしていたマーオもクラウスの足を舐めたが、それでもびくともしなかった。
 しばらく待っていると、ようやくクラウスは瞬きを始めたかと思ったら、ぼそりぼそりと何かを言い始めた。
「クラウス?」
 ぼそりぼそり聞こえていたものが、次第にメロディーをもった歌に変わる。


おやすみ いとしご
 むなもと はなれ
 よるをわすれ
 いつか かえる
 あなたの くにへ
 おやすみ いとしご
 ふかい よるへ
 いつか かえる
 あなたの くにへ
 ひると よるに
 あいましょう
 

 アイヴィンが聞き取れたのは、短い詩のようなものだった。
「――あ、ごめん。ぼうっとしてた。なんか、頭の中がもやもやしてて」
 へらっと笑うクラウスに、アイヴィンは近づく。
「なあ、さっきの歌、なんだ?」
「え? ぼくなんか歌ってた?」
「なんか、子守歌みたいなの」
 しばらくしてクラウスははっとした。
「あ、なんか思い出した。故郷の歌かも。なんか聞いたことある。でも誰に教えてもらったんだろう」
 どうして、ぼくはこんなに故郷のこと、思い出せないんだろう。
 クラウスの言っていることが不思議で、アイヴィンは首を傾げた。
「お前、故郷のこと、短期間で忘れたのか?」
「……そうみたい。おかしいな。覚えてたはずなのに。病気かな……」
「帰ってフルダが何か知ってないか、聞いてみよう」
 始終クラウスは暗い顔をしているので、アイヴィンは歩いている途中に彼の肩をとんとんと叩いた。
 帰りながら、そういえばクラウスの口から彼の故郷の話を詳しく聞いたことがないなとアイヴィンは気づいた。
(分かってるのは、故郷は土地が枯れて何もなかったことだけか)
 ただ単に、彼にとって周りの人に話すことではなかっただけなのかもしれないが。
(夜の国――)
 ぼんやりしながら呟いていたが、クラウスはその内容をはっきり分かって言ってたのだろうか。それに、はっきりとメロディーのある歌だった。
 クラウスの故郷のことなど気に留めてなかったのに、どこか裏があるような気がして、アイヴィンはクラウスの落ち込む肩を撫でながら自分も落ち着かなかった。

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