2章

「おや、今日はフルダも出るのかい?」
 一階におりると、アイヴィンがクラウスたちに声をかけた。彼もまた外套を羽織り、
カンテラを手にしていた。誰かを待っていたのだろうか。
「ええそうよ。やっぱり、現場を見てこそだわ」
 フルダが言うと、アイヴィンは目を細めて「そうか」と言った。フルダが行きたいところは、すぐに分かったようだ。
「俺もクラウスと一緒に歩いてみたんだが、特にこれといったものはなかったんだ。フルダから見てどう思うかが知りたい」
「うん、フルダなら何か気付くかも」
 クラウスはホームに来たばかりのことを思い出す。フルダの洞察力はすごい。クラウスの身なりや傷の付き方を見ただけで、状況を理解できるのがフルダだった。マーオとアイヴィンと共に歩いただけでは見つけられなかったものを見つけられるかもしれない。期待はあった。
 あの日、クラウスが走った道は、裏路地だった。クラウスとアイヴィンがフルダを案内しながら、森を目指して細い裏路地を歩く。誰一人とすれ違うことはなく、三人の足音とマーオの鼻息だけが聞こえる、寂しい道だった。
「この路地、かなり入り組んでいるのよね」
 フルダは周りをきょろきょろとしながら呟いた。
「いくつもの分かれ道があるし、中には行き止まりになるものもあるわ。その中から森へ出る道を選んで逃げたのだから、ティルハーヴェンをよく知る人、あるいは計画的な犯行だった可能性もあるわね」
 分岐のところでフルダは一本の道の先をカンテラで照らした。クラウスたちが歩いている道よりも幅がある道で、うっかり入り込んでしまいそうだったが、先は行き止まりだった。
「確かに。迷ったような感じはなかった。森に一直線に逃げていった感じだったよ」
「では、そういうことだわ。なぜホームを狙ったかは分からないけど、どちらにせよ、犯人は捕まらないように準備をしていたに違いないわ――許せない」
 フルダから静かな怒りのようなものを感じて、クラウスはきゅっと杖を握りしめた。
 フルダがこのように怒りを顕にしているのが意外だった。もっと冷静な人かとクラウスは勝手に思っていたが、そうでもないらしい。部屋から出てこないかと思ったら一人でこっそり泣いていたフルダを思い出すと、フルダは顔に表情が出やすいのかなとクラウスは思った。
「クラウスはホームの裏で声を聞いたのよね」
「うん。ホームの後ろから聞こえた。ぼくたちが焦ってるのを見て笑ってたような、そんな気がしたよ」
「だとしたら、確実ね。愉快犯だわ。それも計画的。警吏にそうだと報告しなければいけないわ。オーウェン警吏にどこまで伝えてるのか知らないけれど」
「ああ、まだホームの被害状況しか伝えてないよ。これからってところだ」
「じゃあそうして」
 分かった、とアイヴィンが頷くと、フルダは森を目指して再び歩きはじめた。東門は森に面しているのでさほど大きなものではなく、門番も一人と少ない。今日はしっかり見張りをしているようだが、あの日は門番の姿はなかった。そのことをフルダに伝えると、フルダは驚いて声を上げた。
「門番がいない? そんなことあるの? おかしいわよ、それ。門番は毎日必ずつけるようになっているのに。何かあったのかしら」
 ちょっと聞いてみましょうと、フルダは門番の男へと声をかけた。
 話を聞く限り、東門は人通りが少ないためか、一人体制らしい。夜も必ずつけることにはなっており、よほどの事件がない限り門から離れることはないという。ホームで火災が起こった日は記録では別の男が担当だったところまでは聞くことができた。
「あの日、たまたま”よほどの事件”があって門を離れていたか、何かもっと事件に巻き込まれたか……」
「その日の当番だった人に話聞けれないのかな」
 クラウスの提案にフルダは頷き、門に下げられていた当番表を見させてもらうと、明日がの昼過ぎからがその男の当番にあたっていた。
「出直しだわ」
「そうみたいだな」
 フルダは門の先に広がる闇を見つめた。相変わらずカンテラの光を吸い込む深い闇だった。
 とはいえ、クラウスはその色を知っていた。
(ぼくのふるさとでは、あたりまえの暗さだったな)
 光すらない、何もない夜を思い出す。月や星の明かりがない夜は、先に広がる森と同じ闇が故郷を覆っていたものだ。
 ティルハーヴェンが明るすぎるのだ。だから、忘れかけていた。夜の本当の姿は、この森にある闇のことなのかもしれないとクラウスはぼんやりと思った。
「また明日来てみましょう。それではっきりするわ。どこまで計画してたかがね」
 フルダは杖をついて踵を返した。もうここにいる必要はない、といった様子で来た道を戻っていく。アイヴィンとクラウスも共にホームへと帰っていくが、その中でこそりとアイヴィンがクラウスに耳打ちをした。
「お前はどう思う?」
「どうって。フルダの言うとおりだと思うよ」
「そうか」
「どうしたの? アイヴィン、何か思うことがあったの?」
「いや、これは一人だけの犯行だったんだろうかって思って。フルダの言うとおり計画的なものだったら、一人ではない可能性もあるんじゃないかって思ってさ」
 クラウスはなるほど、と頷いた。確かに、複数が絡んでいる可能性だって否めない。
 後ろの二人の会話が耳に入ったのか、フルダも振り返って「ありえない話ではないわね」と言った。
「でも、複数いたとしても、すべての尻尾はつかめないわ。まずは、クラウスが声を聞いたっていう女の人をとっ捕まえるのが先じゃないかしら」
「そのとおりだよ、フルダ。もちろん、それが先さ。さ、中央に戻ったらいつも通りの見回りをしよう。団長も万が一に備えるよう言っていたしな」
 アイヴィンの提案通り、三人はホームや市庁舎のある中央まで戻り、それからいつも通りの見回りをする。今夜はいつも以上に穏やかな空気が流れていて、逆にクラウスは不安になった。
 何もない夜など、今まであっただろうか。
 今までの出来事が大きなものばかりだったせいで、このような静かな夜を忘れただけだろうか。
 妙な感覚を持ったまま、クラウスはフルダとアイヴィンと一緒に務めたが、街の静けさには二人も違和感を覚えたようだった。
「みんな警戒しているのよ。あまりティルっぽくないけれど、これはこれでいいことだわ」
 自分の身を守れるのは自分だけである。備えをするのはいいことだと言いながら、フルダはカンテラの火を消し、その日の番を終えた。
「私は先にあがって、朝ごはん作るわ。何もなくてよかった。角笛も一度も鳴らなかったし。これが続くといいわね」
「うん」
ホームに上がっていくフルダを見送り、クラウスとアイヴィンは日が完全に見えるまで広場に残った。
「フルダの飯も久しぶりだな。俺も食って帰ろう」
「そういえばそうだね。ホーム大変だったから……」
 朝食が提供されるまで復活できたことは喜ばしかったが、でもクラウスはあまりほっとできなかった。
 火をつけた犯人が見つかるまで、自分も、フルダも、ティルハーヴェンに住む人みんなも、ほっとできないだろうなと、カンテラの火を消しながらクラウスは思った。


 そして、再びクラウスは大工たちの作業の音に叩き起こされ、重たいまぶたを擦りながらベッドから出た。マーオはといえば大きな音にも耐え抜き、すやすやと昼寝をしている。本当に猫なのでは? と思う。なんともゆっくりした犬だった。
 部屋から出ると甘くて香ばしい香りが部屋を包みこんでいた。なんで? と思う前に、キッチンからフルダが顔を出してクラウスを呼んだ。
「ホームを直してくれているみんなに、休憩用のクッキーを焼いたの。味見してくれる?」
 トレイに並んだまるまるとしたクッキーはこんがりと狐色に焼けていて、クラウスは目を丸くした。
「わ、クッキーなんてぼく初めて食べる」
「え? 初めて?」
「うん。おいしそう。いただきます」
 口の中でほろほろと崩れる食感が初めてで、クラウスは感激してしまった。上品な甘さで、ホットミルクやお茶と一緒に食べたくなる。
「あなたが何もないところから来たのは何度も聞いたけれど、クッキーも初めてなのね……」
 フルダはクッキーでこんなに感動している人を見たことがなく、なんだかおかしくて笑ってしまった。
「また焼いてあげるわ。じゃ、これは一階に置いておいて食べてもらいましょ。残りを包んで行きましょうか」
「え? どこか行く予定なんてあったっけ」
「何を言っているの、東門に行くのよ。確かめに」
 言われて、クラウスはそうだったと昨晩の話を思い出した。
 何も夜に聞きに行く必要はないのだ。もちろん番は夜だが、それ以外のことは昼からだってできる。昼に起きている人のほうが多いのだから、聞き込みに行くなら昼のほうがいいと当たり前のように言われてクラウスは初めて気がついた。
「さ、はやく行きましょう。私も気になって仕方がないから」
 小さな包みにクッキーを入れ、きゅっと紐でくくる。手土産でもあれば、話くらいしてくれるだろうとフルダは言った。
「覚えてくれてるといいね」
「もちろんよ。覚えてなかったら、証言がなくなってしまうわ」
 お茶をいれたポットとカップ、それからクッキーを一階のテーブルに置き、大工たちに挨拶をしたあと、二人は早足で東門へと向かった。
 今日も一人で番をしているようで、少しぽっちゃりとした男があくびをしながら立っていた。
「こんにちは、門番さん」
「ああ、こんにちは、お嬢さん。それから少年。森にご用かな? だったら引き返したほうがいい。昼といっても森だからね」
「いいえ、違うの。私たち、夜警で。聞きたいことがあって来たの」
 小包を渡すと、門番はさっそく紐をほどき、中のクッキーを口に入れた。
「ああ、これおいしいね。ありがとう。で、何が聞きたいんだい?」
「数日前、ホームで火災があったのはご存知ですか?」
 クラウスが聞くと、男は口をもぐもぐと動かしながら「ああ、知ってるよ」と答えた。
「ここからでも見えたよ。空に煙がのぼっていくからすぐ分かった。でも僕はここから離れるわけにはいかなかったから、ずっとここで無事を祈ってたよ」
「ずっと?」
 フルダが怪訝な顔をして聞き返した。
「ずっと、ここにいたんですか?」
「ああ、離れるわけにはいかないじゃないか。だって、ここ、森だよ?」
 門番はおかしな顔をしてフルダとクラウスを見た。
 クラウスも、門番の話と自分が見たことが違い、困惑している。
(話が合わない……、どういうこと?)
 アイヴィンがあれほど言っていたのに、門番はここにずっといたと言い張る。もちろんクラウスだって門には誰もいなかったことは確認済みだ。
(門番が嘘をつく必要があるの? それとも)
 クッキーをむさぼっている男は、のほほんとした顔だ。
(この男が、何か隠してる? それとも、本当にこの人はここにいたと記憶してる?)
「それが何か?」
「い、いいえ。あとついでに、ここに誰か来ませんでした?」
「うーん、誰も来なかったと思うよ? こんなところに人なんて来ないでしょ」
「そうですか。ありがとう門番さん。いい話でした」
 ぺこりと頭を下げ、フルダはクラウスの手をひっつかみ、来た道を戻った。
「ど、どういうこと?!」
「私が聞きたいわ! 話がちっとも合わないじゃない! クラウスとアイヴィンが来たことも知らなかったし……」
 アイヴィンが言った通り、この事件には複数が関わっているのだろうか。
 フルダとクラウスは、遠くから門を見た。
 森の茂みと一体している暗い門が、二人には奇妙に見えた。

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