2章

 大工の振り落とす金づちの音でクラウスは目が覚めた。
 今日から一階の修復が始まることを思い出しながらむくりとベッドから身を起こす。夜の番から帰り眠りについてまだ時間はそんなに経っていないような気がしたが、窓から差し込む光はとうに朝のものではなかった。
 足の上でマーオがふんぞり返って眠っていた。腹をくすぐって足の上からおろさせると、クラウスもベッドからおりた。
「ローレンさん」
 一階におりると、工事の様子を見ているローレンがいた。
 いつも昼はよれよれの白シャツなのに、今日はどういうことか皺ひとつなかった。
「ああ、おはよう少年。音で目覚めたかな」
「おはようございます。大きな音ですね」
 あまり眠れなかったなあと思いながらあくびをする。涙が浮かんだ目でよく見ると、数人の男たちが二階を支える柱を仕込んでいる最中だった。そのまま一階を崩すと、二階が落ちるからだろうというのは、さすがのクラウスにも分かった。
「ローレンさん、今日はどこかへ行くんですか?」
「ああ、ちょっと。事後処理がまだ終わってなくてさ」
 肩をすくめたローレンの顔はあまり乗り気ではなさそうだった。苦手なところに行くようなそんな表情をしている。
「アイヴィンを待っているのだが、もう少しかかりそうだ。クラウスも一緒に行ってみるかい?」
「行くって、どこに行くんですか?」
「警吏のところさ。夜警の監督といったところかな。私たちは自警団だが、警吏はれっきとした市の職員なんだよ。私の上官がいるんだが、一癖あってね……」
 苦笑しながら肩をすくめたローレンの姿を、クラウスは初めて見た。よっぽど変わった人なのだろうか。
「君も一度会ってみるといい。これから何度か顔を見ることになるだろうし」
「分かりました。ぼくも行きます」
 それからクラウスはローレンに言われた通り、フルダに皺ひとつないシャツを用意してもらい、ホームの玄関の前でアイヴィンを待った。なぜアイヴィンが共に行くのかが分からなかったが、きっと彼は彼の仕事があるのだろう。
 しばらくしてローレンが書類を持って出てきた。帽子を深くかぶっているせいで、ちょっとだけ身分が高く見える。高く見えるようにしないといけない相手だということをようやくクラウスは理解したが、警吏というのは、それほど身分が高い役職なのだろうか。
「なんだ、アイヴィンのやつ、来ないな。寝坊か?」
「どうでしょう」
 教会の塔にかかる太陽を見上げて、ローレンはため息をついた。
「フルダ、フルダ! すまない、アイヴィンが来たら先に行っていると伝えておくれ」
 ローレンが二階に声をかけると、階段の端からフルダの顔がするりと出てきて、こくりと頷いた。
「まったく、しょうがないやつだ。行こう、少年。オーウェン警吏も暇ではないから」
 クラウスの頭にぽんっと帽子を置き、ローレンはホームから出た。慌ててクラウスもローレンに着いていく。
 目的地はそう遠くないところにあった。ホームの目の前に広がる大きな広場には様々な建物や鐘楼が面しているが、ローレンが向かったのはそのうちの一つだった。教会もかなり大きなものだが、その煉瓦造りの建物もそれに負けないほどのものだった。高い塔がそびえ立っている。
「市庁舎だよ。役人と罪人がいる」
「罪人?」
 門をくぐりぬけホールに入ると、長く伸びる廊と扉が見えた。ただ、一つだけ、門番がついている薄暗い扉があった。
「あの向こうには罪人を入れる牢があるんだ。君に暴力をしたあの男もいると思うよ。まだ生きていればの話だけど。夜警は捕らえてここに連れてくるまでが仕事。それ以上のことは警吏と刑吏の仕事だから私にもその先のことはよく分からない」
 話しながらもローレンは奥へと進んでゆく。その間に見えたのは、立派な服を着ている人や、夜警に似た制服を着ている人だった。その一人一人が何をしているのかは、クラウスには全く分からない。
しばらく歩いた先にあった一室に、ようやくローレンは声をかけた。
「夜警団のローレンです。オーウェン警吏殿に用があって参ったのですが」
 クラウスが部屋の中を覗くと、大きなデスクに積み上げられた書物に埋もれるようにして座っている男がいた。顔には深い皺が刻まれている。
「夜警担当に先程客が参っておったぞ。どこかで話をしておろう。探してみるといい」
「ありがとうございます」
 へこりと頭を下げ、にこにことしながらローレンは部屋をあとにした。
「警吏長もご多忙のようだ」
「先客って誰でしょうね」
「予想はついてる」
 ローレンの後ろを歩いていると、今度は中庭へと出た。小さな池と、色とりどりの花が明るい光に照らされて輝いている、美しい庭だった。
 その中に、男二人が立っているのにクラウスは気づいた。アイヴィンだった。そしてもう一人のほうは、アイヴィンの体に隠れてクラウスからは見えなかった。
「ホームに来ないと思ったら、先に来てたのか。それならそうと言ってほしいものだな」
 懐から書類を出しながらローレンがアイヴィンに声をかける。
「ああ、団長。すみません」
 振り返ったアイヴィンの向こうには、仏頂面をした男が立っていた。先程、庁舎の中ですれ違った人と同じ制服を着ていた。この人が、目的の人であるオーウェン警吏なのだろう。ローレンの上官と話では聞いていたが、ローレンよりもずっと若かった。二十代――いや、アイヴィンとほぼ変わらない年齢のように見える。この人こそが夜警の監督であることが、クラウスには驚きだった。
 ローレンから書類を受け取ったアイヴィンが、それを警吏に差し出す。
「ホームの火災はすでに警吏にも話が伝わっているが」
 書類を受け取ったオーウェンは眉間に皺を寄せながら紐解いた。中には図が記されていた。
「被害の詳細です。とりあえず参考になるものをと思って」
「アイヴィンから聞いている。一階がかなり燃えたとか。修復費はどこから出ている」
「夜警団の中に建築を本業にしている者がおりまして。その者が修復しております。報酬はいらないと話を聞いております」
 なるほど、とオーウェンは頷いた。
「しかし、犯人を逃したのは大きい。再度同じことがないようにするのが夜警の仕事であろう」
 その話を聞いて、クラウスは気付いた。
(これ、ローレンさん叱られてる?)
 団長であるローレンが、犯人を取り逃した責任を今負っているのだということに、クラウスはようやく気付いた。頭を下げ、ローレンはすみません、と謝罪をする。
(逃したのは、ぼくなのに)
 アイヴィンの方を見ても、彼もまたそのように思っているような顔をしていた。
 ローレンもフルダも被害者なのに、被害者が謝らないといけないのはなんだかおかしな話だとクラウスは思う。けれど、それを口に出すことはしなかった。もやもやとした気持ちが胸の中で膨らむばかりだったが、正直にオーウェンに言わなかった。言えなかったのだ。
「オーウェン警吏、その話は先程したでしょう。私たちが必ずや捕まえると。夜警の誇りにかけて」
 アイヴィンが頭を下げるローレンの横で言うと、眉間に皺を寄せたままオーウェンはアイヴィンに目を向けた。
「お前たちの誇りなど、私は知らない。とにかく、一刻も早く捕まえることだ。市民の信頼にも関わる。それに、私の立場も」
 頼むぞ、と言い残し、オーウェンは中庭を後にした。
「結局そうなんだ、やつは立場しか考えてない」
 アイヴィンが唾を吐き捨て、深々と帽子をかぶった。その様子を見ながら、ローレンが申し訳なさそうに口を動かした。
「すまない、先に話をしてくれていたようだな」
「いいんですよ、団長の仕事は頭を下げることだけで。俺たちのために頭を下げてくれるだけで、いいんです。他のことは俺たちがやりますから」
 な、と言いながらアイヴィンはクラウスの背中を叩いた。
「ぼくが、逃したから……ごめんなさい、ローレンさん」
 うなだれるクラウスを驚いたようにローレンは見つめた。
「なんだ、クラウス、火をつけたやつを知っているのか」
「知ってるというか。なんか。声がしたんです。燃えるホームを見て笑ってるような。それをマーオと追いかけたんですけど、逃してしまいました」
 クラウスの話を聞いて、ローレンは納得したように顎髭をさすった。
「だから君たちの姿が見えなかったんだ。フルダを二階から出して外に出たときにいるかと思ったら、いなかったから。そういうことか。ということは、目星はついているということか」
 クラウスとアイヴィンは無言で目を合わせ、そして、首を横に振った。
「そうか。足跡を残さなかったか。しばらく警戒しなければな」
 ホームに戻ると、しばらくローレンは修復作業を外から見ていた。
 その背中が、どこか悲しそうで、クラウスは胸が痛む。
 アイヴィンもまた、その背中を見ていた。
「フルダのことがあって、団長も二度と同じことがおきないようにって、思ってたはずなんだ。二度と。あの時を思い出してしまうんだろうな」
 広場のベンチに腰掛け、アイヴィンは遠くを見つめていた。その瞳は、過去にあった事件を見ている瞳だった。
「そう、だろうね」
「フルダは家族を失ったが、団長もまた、団長を失ったんだ。前団長は夜警団をまとめあげる立派な人だったと聞く。尊敬していたって話、聞いたことがある」
 それなのに、なぜ――。クラウスは頭を下げるローレンの姿を思い出すたびに、もやもやとする。
 ホームに戻って、その気持ちをフルダにそのまま伝えたら、それはそうよ、とつぶやくように言った。
「長というものはそういうものなの。下に立つものを守り、責任を負うの。私たちは守られてるの。団長に……、私は何度も助けられてるわ。数え切れないほど。だから、逆に、助けたいのに、まだできないでいるわ」
 クラウスのカンテラに火を灯し、フルダは静かにその柔らかな明かりを見つめた。
「団長はいい人よ、私たちに灯火をくれたから」
「それはここに来た時から知ってるよ。ぼくだって、初めて会った時から助けてもらったし」
「そうね、あなた、最初、傷だらけでここに来たものね」
 机の上に用意していた帽子をフルダはかぶり、自分の杖を握りしめた。
「行きましょう。アイヴィンが適当なこと言ったんでしょ?」
「適当なことって?」
 カンテラの光が反射して、フルダの眼鏡が鋭く光った。
「なんかの誇りにかけて絶対捕まえるとか、そんなことを、口が滑って言っちゃったんでしょ」
「うわ、そのとおりだよ、フルダすごいね」
「昔からそうだもの。いい顔をして、とんでもないことを言うのがあの人よ」
 まあ、とフルダは胸元のリボンを整えて、フルダは杖で床を突いた。フックから下がるカンテラが揺れ、影も揺れる。
「捕まえるのは当然よ。私も見に行くわ、その、逃亡経路ってやつ。マーオも案内してくれるのでしょ?」
 クラウスの足元で出勤を待っていたマーオがのんびりと鳴いた。それは分かった、という意味なのだろうか。
「あのさ、フルダ、犬嫌いじゃなかったの?」
「マーオはいいわ、噛まないし、なんならクラウスより夜警っぽいから」
「あはは……」
 得意げな顔をするマーオを見て、クラウスはただ笑うだけだった。クラウス自身もそう思っているのだから、反論はできない。
「案内して。なんとかしてでも、尻尾を捕まえなきゃ」
「うん」
 徐々に街が夜に包まれていく。一階の修復工事をしていた大工たちは今日の作業を終え、静かな空気がティルハーヴェンを包み始めた。
 あの”声”といち早く再会しなければならない。なんとなく、クラウスはそう思いながら、森へと向かうのであった。
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