1章 

 カンテラが揺れて、走りにくかった。
 カンテラを杖から取って手に持ってクラウスは走った。
 姿は見えなかった。ただ、誰かが前を走っているのは分かる。マーオも確かに存在に気付いて走っていた。
 アイヴィンと歩いた道とは別の道を走っている。この道がどこに繋がっていようがクラウスは構わなかった。
 足がもっと速ければ、アイヴィンのように剣が使えたら――自分に足りないものをいくら数えたってこれ以上速く走れるわけがない。
(だめだ、また逃がしてしまう!)
 外套がはためいて、余計にうまく走れない。
 慣れないものをたくさん抱えていることに歯がゆさを感じてしまう。
「マーオ、先に行って!」
 足元を走るマーオに言うと、のんびり犬だとは思わせない勢いでクラウスの前へと飛び出した。
 マーオならあの足でなんとか追いついてくれるだろう。クラウスはマーオの背中を見失わないように必死に追いかけた。
(女の声だった、あれは……)
 なぜホームに火をつけたのか。謎の文を書いた本人なのか。聞かなければ分からなかった。
 女の恨みを買うようなことなど、ホームの誰かがしたのだろうか。
 とにかく分からない。取り押さえて聞かない限り。
「うわっ」
 足が上がらなくなってきたのだろうか、浮いたレンガに足をひっかけて、クラウスはごろごろと地面を転がった。
「いてて……マーオ?」
 鼻の先にふんわりとした毛玉があった。マーオの尻だ。
「どうしたのマーオ」
 立ち止まってしっぽを左右に振っているマーオに話しかけても、マーオは暗がりに向かって吠え続けている。
 地面に落ちた帽子をかぶりながら体を持ち上げて、クラウスもマーオの見つめる先を見た。
「あ」
 カンテラの光を消してしまうそこは、アイヴィンが前に言っていた“森”だった。
 城門の先には森の闇が広がっていた。
「この先に逃げたの?」
 息を荒げて、マーオがクラウスを振り返った。
 夜の森に行ってはいけない。誰もが言うフレーズが、クラウスに警鐘を鳴らしていた。
 手に持つカンテラを見つめて、クラウスはごくりとつばを飲んだ。
 転がった杖を拾い上げ、カンテラをフックに下げる。
 こんな闇の中に逃げるなど、信じられなかったが、マーオがこの先にいると言うのなら、それは確かだとクラウスは思う。
「よし」
 杖を地に着く。カンテラが揺れ、クラウスの影も揺れた。
 その時だった。
「おいバカ! 森に入るつもりか!」
「うわっ」
 突然肩を掴まれ、後ろに引っ張られた。
「あ、アイヴィン」
「カンテラ一つで無事帰れると思うな! 戻るぞ、今は犯人を追うべき時じゃない」
「でも! 逃げたんだ! この森の中に!」
 アイヴィンの手を振り払い、クラウスは森を見た。
 二人分のカンテラがあったとしても、闇が晴れることはなかった。
「この森に逃げるってことはよっぽど手慣れたやつだろ。森を知る者か、浅瀬で隠れてるかどちらかだ。森を知らないお前が入ったら、お前のほうが森に殺されてしまうぞ。それだけ分かったら十分じゃないか。行こう、フルダが心配だ」
「うん……」
 すたすたと歩くアイヴィンの後ろを、クラウスは黙ってついていく。
 確かにアイヴィンの言う通りだ。
 あの中に入ってしまえば、ティルハーヴェンに無事戻れるか分からない。
(また、逃げられちゃった……)
 杖を握りしめる。
 不甲斐なさを感じる。
 自分の無力さに、また、打ちひしがれる。
(ぼく、ホームのために、何もできてないや……)
 マーオが自分の顔を心配そうに見上げているのが分かった。
「ごめんねマーオ。無駄に走らせちゃった。帰ったら、水、飲もうね」
 返事はなく、マーオは黙ってとてとてとクラウスの足もとを歩いていた。
「フルダは無事なの?」
「クラウスをすぐに追ったから俺は分からない。団長が現場にいるから、大丈夫だとは思うが……、それにフルダだって、気付いてすぐに逃げてるはずだ。角笛が吹けたんだから。大丈夫」
「うん」
 それは、アイヴィンが自分自身に言っているような響きだった。クラウスだって、そう思いたい。
 不安な中、ふたりは黙って夜の街を急いで歩いた。
 煙の勢いはなくなっていることに気付き、ホームが近くなると二人は走り出した。
「落ち着け、お前は助かった、落ち着けフルダ」
 小火はすっかり消火され、水が滴る音が静かに聞こえてくる。あの喧噪は夜の空に吸われてしまったのではないかと思うほど、静かだった。
 その中で、ローレンがしゃがみこんで、フルダを抱きしめていた。
 隣で、アイヴィンが帽子のつばを引っ張り、目を覆ったのが見えた。
「お前は生きている」
 フルダの肩が、激しく動いているのが見えた。息を無駄に吸っているようだとクラウスは思った。
 ひゅう、と、乾いた空気の音が聞こえてくる。
 ローレンの外套にしがみつき、何かに耐えているようだった。
「アイヴィン」
 アイヴィンは何も応えなかった。そのかわり、見ていられない、と言うように、フルダから背を向けた。
 フルダが落ち着くまで、長い時間がかかったとクラウスは感じた。
「大丈夫」
 ローレンの最後の言葉に、フルダは頷き、握りしめていた眼鏡をかけた。
「階段と二階は無事だから。着替えて、もう休みなさい」
「……はい」
 ローレンとフルダが二階へと上がったあと、アイヴィンは噴水の前にあったベンチに腰掛けた。
「無事でよかった」
 心の底から、安心したような声だった。
 フルダのことを心配したり、無事だったことに安堵したりする彼の様子は、まったく他人事の様子ではなくて、クラウスは気になってつい尋ねてしまった。
「ねえ、アイヴィン。もしかして、フルダの、その、昔のこと、実際見たの?」
「ああ、見たさ。だって、俺の家の隣だったもの。だいたいは前話した通りだけど、フルダの親が殺されたそのあと、強盗はフルダの家を燃やしたんだ。俺は夜警の角笛に叩き起こされて無事命を取り留めたが、俺の家も燃えた。家が数件燃え、人が三人死んだ事件だった」
 帽子を顔の上に乗せ、空を仰いだ。
「え? 三人? 二人じゃなくて?」
「前団長。フルダを助けようとローレン団長と一緒に燃える家の中に入った。前団長はそのまま火の中に取り残されてしまった。ローレン団長がフルダを抱きかかえて無事助かったんだ」
 それから、団長はローレンに変わり、今のホームがあるのだとアイヴィンは帽子の中で語った。
「フルダは俺の幼馴染。あの時、フルダは四歳で、とても小さかった。フルダのことがずっと心配で、俺はそのまま夜警になってしまったよ」
 今回も助けたのはローレンだったけど、と、乾いた笑いと共にアイヴィンは言った。
 クラウスは想像する。
 家の中が煙で包まれて、火が自分を焼こうと襲ってくるところを想像した。
 怖い、では片付けられないほどの恐怖を味わっただろう。
 それを、もう一度、今日、フルダは味わって、思い出してしまったのだ。
「……、ぼく、やっぱり、犯人捕まえなきゃって思う」
「ああ、俺だってそうしたいさ。そうしたかった。最善を選ばなければ捕まえれたんじゃないかって思うよ。でもだめだ、確実でなければ」
 帽子をかぶり直し、アイヴィンは杖を持った。
「クラウス、たぶん、今の俺は、お前と同じことを考えている」
「うん」
「手がかりを見つけるぞ」
 カンテラと杖を手に立ち上がると、アイヴィンはあることに気付いた。
「ここに鼻がきくやつがいるじゃないか」
「あ」
 噴水の水を舐めるように飲んでいたマーオが、ぴくりと体を震えさせた。
「もうちょっと働いてもらおうか。なあ夜警犬」
「帰ったらぼくのパンあげるから」
 パンという言葉に反応したマーオは、噴水から飛び降りてホームへと歩き出した。マーオの動きを確認した二人は、犯人に繋がるものが残ってないか、ホームと逃走経路を念入りに探し始めた。


 夜の捜査を終えて帰っても、フルダの部屋の扉は静かに佇んでいた。
 気になってクラウスが何度も声をかけようとしたが、ノックする手が扉を叩くことはなかった。
「いつまでそこに立っているんだ少年。気になるなら声をかけたらいい」
「ローレンさんだって、そこに座ったまま動いてないじゃないですか」
 暖炉の前で椅子に腰かけ、じっと火を見つめていたローレンは何も言わなかった。
 しばらく二人は動くこともなく、じっと佇んだままだったが、ついにしびれを切らしたのかローレンが立ち上がった。
「少年がフルダの部屋に入れるきっかけを作ってあげよう」
 壁のフックにかけてあったエプロンをひっつかみ、ぶっきらぼうに着る。そしてそのまま無言でキッチンへと入っていった。
 今日はホームの一階が大変だからと、夜警の番だった男たちに朝食が提供されなかったことをようやくクラウスは思い出した。フルダもこの調子だし、ローレンも何も手がつかなかったので、クラウスたちも朝食はまだだった。
 リビングに甘い香りが流れてくる。
 さんざん働かされたマーオが、ひくひくと鼻を動かしていた。
 しばらくすると、プレートとコップをローレンが持ってきた。そしてそのままクラウスに渡す。
「ほら、行ってこい少年」
「え、ええ、それローレンさんの仕事じゃないんですか」
「いいから。フルダ、これ大好きだからさ。起きてくれるだろう。私は事後処理をしてくるから」
 クラウスの肩を押して、ローレンはそのまま燃えた一階へとおりていってしまった。
 マーオにはミルクがたっぷり入ったお皿が用意されている。マーオは自分の食事に一生懸命だった。
「う、ぼくひとりぃ?」
 女の子の部屋に入るのは気が引ける。けれど、ふっくらとしたフレンチトーストが冷めてしまうのは、もっと悲しいことだった。
 意を決して、クラウスは小さくノックをして、扉を押した。
「フルダ……、あの、ごはん……、食べる?」
 部屋の中をのぞくと、フルダはとっくにベッドから出ていた。窓際に座り、朝日に照らされている街を、じっと見つめていた。
「そこに、置いておいて」
「冷めちゃうから」
 そこまで言うと、フルダはため息をついてクラウスを見た。
 その顔を見て、クラウスの足が一歩下がってしまった。
「ぶさいくでしょ、私」
「その、ごめんね、フルダ……」
 ぽたりと雫がフルダの手に落ちた。
「――違うわ、生きていることが嬉しくて、朝を迎えれたことが嬉しくて、泣いているのよ」
 クラウスの持っているプレートを見て、フルダは顔を赤く染めて、大粒の涙を落とした。
「アイヴィンから聞いたよ、フルダのこと……」
 何を話せばいいのだろう。
 クラウスは一生懸命考えて、そして、ようやく言った。
「ぼく、ぜったい、犯人捕まえるから。だから、その、フルダ、泣かないで」
「新米のあなたが? 角笛も吹けないクラウスが捕まえるの?」
「そう、ぼくが。あのね、アイヴィンと一緒に昨日一生懸命探したんだけど、何も見つからなかったんだ。だけど、諦めれなくて」
 それだけ言うと、フルダは泣きながら目を細めた。
「そう、では、私も犯人を捜すわ――、あなたじゃ、頼りないもの。アイヴィンだって、捜索は苦手なはずよ。私、今度は、逃がさないわ。もう二度と、家は失いたくないから」
「それはぼくも同じだよ」
 頷いて、フルダは涙を拭いた。
 クラウスからプレートを預かり、そのまま部屋から出て行く。
「食べましょ。食べなきゃ、動けないから」
 フルダは、一口一口、味わうようにフレンチトーストを食べては、おいしいと呟いていた。
 甘いものを食べて、ようやくクラウスはほっとできた。
 心から、よかったと思う。同時に、自分だけが聞いたあの犯人と思わしき「声」は結局誰だったのだろうという疑問が頭の片隅に残ったのだった。
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