1章 

「おや、新米くん、フルダに何教えてもらってんの?」
 クラウスとフルダの間に入り込んできたのは、たっぷりと寝たのかすっきりとした顔のアイヴィンだった。
「文字を教えてもらってるんだよ」
「読み書きができないと働けないから私が持ってたやつ使ってやってるの」
 フルダが出していたのは、幼子が文字を習い始める時に使う教書だった。クラウスは生まれて初めてペンを持ち、生まれて初めて文字というものを書いたところだった。ペンを持つ指は不慣れに力が入っていた。
「ふうん、まあいいけど、夜も近いぞ? クラウス、角笛は?」
 はっとして窓の外を見る。まろやかな橙がティルハーヴェンを染めていた。もうそんなに時間が経っていたのか。気づいた瞬間に、体の凝りと、ペンを握る手の痛みを感じた。クラウスは首を横に振って、アイヴィンに答えた。
「ああ、それもまだ」
「じゃあ、そっちが先かな。フルダ、すまないが、新米くんを借りるぞ」
 フルダに付き添ってろうそくを支給し終えたあと、すぐさまフルダが部屋から教書を持ってきてクラウスにペンを握らせたのだった。それからずっと椅子に座っていたため、尻が痛かった。
 アイヴィンと共にクラウスの部屋へと入った瞬間、クラウスはほっと息をついた。
「ありがとう、お尻が限界だったよ」
「フルダは一度熱が入るとああなってしまうからな。さ、夜が来るうちにやろう。これができないとまた同じことを繰り返してしまうから――今日も出るんだろう?」
 アイヴィンが何かを確かめるように尋ねてきた。
 クラウスはその問いに対して、すぐに頷いて答えた。
「分かった。いいか、角笛ってのは、息をそのまま入れても鳴らない。難しいことは省くけど、唇の振動で音を出すのがこの楽器。唇の振動を拡張するのがこの筒状の角笛なわけ。とりあえず口だけでやってみる。それができたら楽器を当ててみよう」
「え、ええと……」
 アイヴィンが手本としてやっているように、唇を横に引いて鳴らそうと思っても、クラウスにはそれが難しかった。唇が変に歪む。
 一瞬唇がこすれるような感覚はあるのだが、それが継続してくれない。
「……、だめみたい」
「だめかあ」
 アイヴィンはため息をついて、クラウスのベッドに腰を下ろした。
「それができたら、こんな音が出るんだけどな」
 自分の角笛に口を当てて、大きく息を吹き込む。
 部屋いっぱいにその振動が広がり、クラウスは皮膚だけでなく、体の奥までもが震えたような感覚を味わった。確かに、それを鳴らせば寝ていても音に気付くだろうとクラウスは思う。だから必要なのだ。寝ている人に危険を教えるには、ちょうどいい楽器なのだ。
「まだ時間じゃないから手加減したけど、本気で吹けばもっと音は出る。これが吹けなければ夜警とは言えないから……まあ、日々頑張ろう、新米」
 アイヴィンはベッドの上に畳んで置いてあった紺色の帽子と外套をクラウスに渡した。
「角笛が吹けないとクラウスの身も危ないだろうし、しばらくは俺もクラウスと一緒に歩こう。さ、用意して。今日はフルダは非番だったかな。俺も準備してくるよ」
 リビングに集合な、とだけ言って、アイヴィンはベッドから立ち上がりクラウスの部屋から出て行った。
 外から、フルダと何やら話をしている声が聞こえてきたが、外套などすべてホームに置いているのだろうか。
(アイヴィンがいたら、ちょっとは安心かな……)
 でも、と思う。
 やっぱり、何もできない自分が、少し情けなかった。すぐにできるはずがない。アイヴィンに朝そう教えてもらったが、いつまでもこのままではいけないと思っている自分がいた。
 唇を動かしながら身支度をしていると、足に何かがすり寄ってきた。
「あ、マーオ。今日も行くの?」
 聞くと、のんびりと鳴いた。どうやら、今日も着いてくるらしい。
「そっか。ありがとう、マーオ」
 外套をはおり、帽子を深くかぶり、杖とカンテラを持って、クラウスは深呼吸をした。
 昨日のようにならないように、祈り、息を吐きだす。
「よし、じゃあ、行こうか」
 薄暗い自分の部屋から出ると、暖炉の前の机に数人の夜警が集まっていた。
 なにやら、机の上に置いているものを見ているようだった。
 ローレン、アイヴィン、そしてフルダもいる。今日の番に来ている夜警たちも神妙な顔をしながらローレンの話を聞いていた。ざっと数えて十数人はいるだろうか。
「ローレンさん」
「ああ、クラウス。ちょっとこれを見てくれないか。置き手紙みたいなんだが、読めなくてね。君の故郷ではこういう字を見たことはないかい?」
 ローレンが差し出したのは、古めかしい紙だった。よく見ると、青っぽいインクでミミズが這うような字が書かれている。
「うーん、すぐには思い出せれません。そもそも、ぼく、今まで文字を習ったことがありませんでしたし」
「そうか。では、この中では読める者はいないということか」
 夜警たちは、ううん、と唸る。誰も見たことがない字だった。そもそも、それを字と認識してよいのかも分からないようだった。
「団長、それ、落書きとか、いたずらとか、そういうのではないのか?」
 一人がそう言うが、ローレンは首を横に振ることはなかった。
「もちろんそういう考えはあっていいが、それで話を終えてしまうと、何かあったときにすぐ対応できないだろう。みんな、しばらくは万が一に備えるように。角笛とカンテラは忘れずに持って出ることと、灯し火を絶やさないように。なるべく人通りがない場所もまんべんなく行ってくれ。では、今晩もよろしく頼むぞ」
 ローレンの言葉に夜警たちは頷き、それぞれ自分のカンテラのろうそくに火を灯し、薄暗くなっていくティルハーヴェンの街へと出ていった。
「フルダ、では、これを預けておくよ。ホームに何かあったら、すぐ角笛を吹くんだよ」
「分かっています。ここは私が見ていますから、団長も気を付けて」
 ローレンから手紙を受け取り、フルダは丸い眼鏡をくいっと上げて文字をまじまじと見つめた。
「じゃあ、クラウス、俺たちも行こうか……ん? その犬は?」
「マーオ。ぼくを守ってくれるんだって」
「ははは、そりゃ面白い」
 アイヴィンは膝を折って、マーオの背中を撫ぜた。マーオ、とのんびり鳴いたのは、挨拶なのだろうか。
「お前はクラウスの番犬ってやつなんだな。頼むぞ」
 アイヴィンは帽子をかぶり、杖を手にした。
「さあ行こう。今日は何もなければいいが」
「うん」
 階段をおり、夕暮れの街へと出る。
 ホームの目の前にある、高くそびえる教会の塔の影が、どことなく、怖いなとクラウスは思った。


 歩いていると、フルダとろうそくの支給に回った地区へと出た。
 さっそく住民たちはろうそくに火を灯し、窓辺に置いていた。昨日のことがあったので、警戒しているようだった。空気自体が警戒しているように感じる。か細い光ではあったが、ないよりはましだと、クラウスは思った。
「この地区は貧困層が住むからなあ。事件が絶えないんだよ。クラウスが出会ったのが初めてだというわけではないんだ」
「そうなんだ」
「ここ、表通りに比べたら暗いだろ? だから強姦事件もなかなか多い。気をつけろよ」
「ゴーカンって、何?」
「……あとで教えてやる」
 そんなに言いにくいものなのかな、と思いながら、クラウスはあたりを見回す。
 都市の家はクラウスのふるさとに多かった家の形とは違っていた。狭いところにたくさん敷き詰め、そして屋根が高い。昨日は気づかなかったが、あれだけ高いと思っていた教会の塔も見えないわけだと納得した。フルダと一緒に来た昼の様子とはまた違っていて、やはり一人で歩くには心細い道だった。
 アイヴィンが隣にいるだけで、ほっとしている自分がいた。
(本当は、ひとりで回れたらいいのにな)
 それは角笛が立派に吹けてからだろうなあと、クラウスはざらざらとした角笛の胴を撫でた。
「うん、このあたりは何もなさそうだね。またあとで来ようか。クラウスはまだ歩いていないところはある?」
「ええと、それも、わかんないんだ……」
「……帰ったらフルダに地図をもらおうか。ホームにも大きい地図があるから、確認したらいい。じゃあ海沿いを行くかな。俺の好きな道」
 裏路地から出て、表通りへと出る。教会を背にして歩いていると、じきに遠くに海が見えてきた。
「ティルは円状の都市で、中心には教会がある。だから、教会を背にして歩いていれば海や森に出る。海に出るのは西。東に歩けば森へと出る。森はあまり近づかないほうがいい。明かりが全くない世界だからな」
「うん、それはなんとなく分かるよ。ふるさとでも森には行くなって言われてたからさ――ここは綺麗だね。昼も夜も。ここは」
 クラウスの胸元までの高さに積み上げられたレンガの城壁の向こうには、きらきらと光る海が広がっている。何度見ても、美しいと思えた。
「そうさ。ティルハーヴェンはなんでもあるから、綺麗なものだって山ほどある。こういう景色とかもね。俺の大好きな風景」
 足を止めて、城壁に身を預け、アイヴィンは風を大きく吸った。
「ぼくも、好きになれそう」
「それはよかった」
 アイヴィンの深い海のような瞳が笑った時だった。
 遠くから、空気の波が伝わってきて、クラウスの肌を撫でた。
「鳴った。行こう!」
 城壁にかけていた杖を掴み、アイヴィンは走った。
「――煙だよ、アイヴィン!」
 教会がほのかに赤く光っている。まさか、と思った。
「小火にしては大きいな、まさかホームじゃないだろうな!」
 走っていると、今日の街へ出ていた夜警たちと合流する。
 何人もが何度も角笛を吹いているのが聞こえる。走るうちに、ざわざわとした人の声も聞こえてきた。角笛に気付き、避難をしたのだろう。
「水を回せ! 早く!」
 ローレンの太い声が夜の街に響いていた。
「なんでホームが燃えてるの!」
 クラウスが叫ぶと、アイヴィンは「そんなこと知るか!」と声を上げながら杖を投げ出し、消火活動に加わった。火が出ているのは一階のようだった。早く消し止めればまだ間に合うくらいの大きさだ。
 マーオがクラウスの足にかみつき、クラウスもはっとして杖を置いて桶を回す。ちょうどホームの目の前に小さな噴水があったので、そこから水を回しているようだった。
 騒ぎに気付いた街の人たちが協力して桶を回している。
(フルダ、大丈夫かな……)
 ホームにはフルダしか残っていなかった。
 最初の角笛はフルダが吹いたものなのだろう。しかし、二階にいたとすれば、煙に行く道を塞がれているかもしれない。
 不安になりながらもクラウスは桶を運ぶ。
『ああ、面白い』
「――?」
 小さな声が聞こえたかと思った。
 クラウスは動きを止めて、声がしたほうを見る。マーオも、動きを止めた。
 何かいる。ホームの影に、何かがいた。
「クラウス?」
「――あいつだ」
 ちょうど回ってきた桶をアイヴィンに押し付け、クラウスは地に置いていた杖とカンテラを持った。
「あいつが火をつけたんだ!」
「待てよクラウス! どういうことだよ!」
 アイヴィンの声を無視して、クラウスはマーオと共に走った。
 誰も気づいてないなら、自分が行かなければ。今度は逃がしてはいけない。
 クラウスは歯を食いしばり、ホームに向かって走った。
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