1章 

 痛む頬に濡れた手拭を置き、クラウスはベッドへと入ったが、なかなか寝付けなかった。
 今にも泣き出しそうなフルダの声。そして、自分をあざ笑い逃げて行った男の顔。鳴らなかった角笛。頭の中で何度も昨晩の情景がめぐる。
 あの後、フルダはカンテラと杖を持ってアイヴィンと共に闇に消えた。きっと、あの男が殺めた罪なき人を弔いに行ったのだろう。そして“事後処理”をしたのだろう。詳しいことは知らなかった。クラウスはしばらく立ちすくみ、彼らと共に行動することはできなかった。
 マーオが自分の外套を噛んで引っ張り、我に返ったクラウスは為す術もなく、ホームへと戻ってきたのだった。
 もちろん、フルダもローレンも夜の街へと出ているので、誰もいなかった。暗がりの中、灯火を消し、着替えることもなくクラウスはベッドへと入ったのだった。
 それから朝を告げる鐘の音が鳴るまで、クラウスはじっと、身じろぎをせず、昨晩の情景を瞼の裏で見ていた。
 朝日が差し込み、クラウスはようやく瞼を持ち上げた。マーオが枕元でぐっすりと眠っている。
(マーオのほうが、夜警らしかったな)
 顔をゆるませて、だらりと眠っているマーオが、自分よりも頼もしくて、クラウスは寝がえりを打って枕に顔を埋めた。
(フルダの言う通りかも……)
 角笛すら鳴らなかった。あの時、怖いと思ってしまった。なんとも情けない。自分によくしてもらったローレンやフルダに申し訳なかった。
 でも、布団の中でうじうじしているのも、さらに申し訳なくなってきて、重たい体を持ち上げてクラウスは寝室から出た。
「……あ」
 ドアを開けると、目の前にはフルダが立っていた。
「フルダ、その」
「人が殺されて、私も動転してたの。ごめんなさい」
 フルダが言ったのは、それだけだった。
 そして、ゆっくりと自分の寝室へと入ってしまった。それからしばらく待っていたが、出てくる様子はなく、クラウスはリビングへと向かった。
「おはよう、新入り。気分はどうだい?」
 クラウスに気付いて声をかけたのは、アイヴィンだった。
 一仕事を終え、ゆっくりとスープをすすっていた。
「ちょっとだけ、よくなりました」
「クラウス、だったっけ。あまりいい顔はしてないけれど。フルダに言われたこと気にしてるの?」
 それだけ言って質問に対して何も答えないクラウスの様子を見て、長い前髪を耳にかけながら、アイヴィンは朗らかに言った。
「落ち込んでいる新入りくんに、先輩からいいことを教えてあげよう。ちょっと、このあと一緒にでかけようか」
 ごちそうさま、と、アイヴィンは空になった器にスプーンを入れ、クラウスに手招きをした。


「あの、どこ行くんですか?」
 海へと続く階段をおりながら、クラウスは早歩きのアイヴィンを一生懸命追いかけた。
「堅苦しい喋り方は嫌いだから、普通に喋ってくれないかい。見れば分かるだろう。この街自慢の港さ」
 軽快に階段をおりていくアイヴィンを追いかけていると、人の多い港へと出た。
 ホームからはだいぶ遠い。坂の上にある教会が空にそびえたっているように見えた。
「ティルハーヴェンは高台にあるんだ」
「そうそう、だから、海がきれいに見える。夏は陽射しが暑いけれど、風は気持ちいい。夜の賑やかさも好きだけど、俺は穏やかな昼も好きだ」
 ここはちっとも穏やかじゃないけどね、と、アイヴィンは笑いながら歩く。
 真っ黒に日焼けをした商人や、品物を買い求める人であふれていた。船からはたくさんの荷物が降ろされ、そして逆に積まれていくものもあった。
 人々の声にかきけされない海鳥たちの鳴き声。どれもクラウスは初めて見る光景だった。
「君、なんでホームに来て、夜警なんかやろうって思ったの?」
 歩きながらアイヴィンはクラウスに尋ねた。
「普通はさ、こんな仕事、誰もやりたくないって言うもんだよ。危険が伴うからね。それに、夜は働く時間じゃない。ティルハーヴェンにとっての夜は娯楽の時間だ。自分から進んでやろうなんて、滅多に言わないよ」
「え、じゃあ、アイヴィンはなんで……」
「先に先輩の質問に答えな」
 さえぎられ、クラウスはアイヴィンより少し後ろを歩きながら、ホームに来る前のことを言った。
「食べるものも、着るものも、何もなかったから、何でもあるっていうこの街に来たんだ。何でもあるなら、少なからず救われるかもって思って。そうしたらローレンさんに助けてもらった。食べるものも、着るものも、住む場所も、全部くれたんだ。生きる場所を与えてくれたんだ。もう失いたくない。そう思って、自分の生きる場所を守るために夜警になった――けど、何もできなかったな」
「そうか。フルダと同じか、君」
「どういうこと?」
「ここから先は、内緒の話だぞ。いいか、落ち込んでいる君に特別に教えてあげよう。優しい先輩だからな」
 歩いていると、海岸に出た。
 白い砂の上に二人は並んで座る。
「優しい先輩って」
「励ましてあげようとしてるんだから、優しいだろ?」
 白く浮かぶ雲を見上げながら、アイヴィンは足を伸ばした。
「フルダはさ、ホームに来る前は、家族がいて、立派な家に住んでたんだよ。親が立派な職人でさ。でも、ある日の晩、強盗に襲われた。フルダは助かったけれど、親は助からなかった。家をなくしてしまったんだ。だからフルダはホームにいる。だからフルダは、人が襲われることを許さない。クラウスに昨日きつく当たったのは、そういうことさ」
 しばらく、波の音だけが二人を包んでいた。
 腑に落ちた。すべてが。
 なぜあんなにも泣きそうになりながら叫んだのか。なぜあんなにも強く自分の頬を叩いたのか。
 言葉は出なかった。ただ、申し訳なさが、クラウスの胸に残った。
「フルダは、君にやめてほしいだなんて、思ってない。フルダは夜警として働く者すべて、ローレンと同じく仲間だと思ってるからね。ただ、防げるものを防げれなかったことに対して、憤りを感じただけ」
「でも、ぼくがいけないんだ。ぼくが角笛を吹けさえしたら……すぐに他の夜警がかけつけてくれたのに」
「なあに、新米なんてそんなもんさ。やってみなきゃ分からない。何も知らない君が、ろうそくを職人みたいに上手に作ることはできるかい? そういうことだよ。落ち込むことはない。先輩からのとっておきアドバイス、効いた?」
 アイヴィンの言葉が、すっと入ってくるような気がした。
「なんとなく……」
「ま、それでいい。時間がたてば、昨日のことも“ああ、そんなことがあったな”に変わっていくからさ。ところで、クラウスは何歳?」
「えっと、十六だけど」
「なんだあ、二つ下かあ。フルダと同い年かあ。もうちょっと下に見えたけど」
「落ち込むところなんてあった? ぼくも聞き返したいんだけど、アイヴィンはなんで夜警やってるの?」
 聞くと、アイヴィンは黙ってウインクをしてすっと立ち上がった。
「えっ、ずるい」
「なあんにもずるくない。さ、帰ろうか。眠くなってきたなあ」
 ふんわりとした三つ編みを揺らしながら、アイヴィンは来た道をすたすたと戻っていく。
フルダのことは分かったけれど、なんでフルダのことをそこまで詳しく知っているのか、気になって仕方なかった。さっきの話が“秘密”だと言うのだから、なおさら。
 しかしアイヴィンはまったく答える気がなく、ホームにたどり着く前にさっと別れてしまった。
(まあ、いい人ではありそうだけど。励ましてくれたし)
 ホームに戻ると、フルダがリビングの机に何やら書物を広げて静かに読んでいた。階段を上がってきたクラウスに気付き、眼鏡をくいっと上げながら顔を上げた。
「おかえりなさい。アイヴィンに何か吹き込まれたりしてない?」
「えっ、ええと、何も。励ましてくれただけだよ」
「あら、落ち込んでたの。あなた、気にしなさそうな顔してるけれど」
 ずばずばと言われて、クラウスは朝のフルダの様子は何だったのだろうと思ったが、初対面の時と変わらないフルダの様子に少し安心をした。
「まあいいわ。昨日の詳細をまとめたから教えてあげる」
 見て、と言われて、クラウスは書物に記されたものを見るが、虫がはいつくばっているようにしか見えなかった。
「……ぼく、字、習ったことがないんだった」
「そんな田舎から来たの?」
「田舎だったんだよ」
 はあ、とため息をつき、フルダは眼鏡をはずし、こめかみを揉んだ。
 それもそうだよな、とクラウスは思った。
 フルダは職人の娘だったのだから、もちろん教養はあって当然だ。ないほうがおかしい。だから、彼女にとって文字が読めないことは、驚きでしかないのだ。
「分かった、また教えてあげるわ。せっかくホームに住む人が増えたんだし、事務仕事、手分けしたいのよね。できてもらわないと」
「絶対?」
「ここに住む以上は」
 これは、昼にすることが増えたぞ、と思いながら、クラウスは書物の中を覗き込む。
 文字を指でなぞりながら、フルダは昨晩の状況を説明してくれた。
「あの男は、金銭狙いで、住宅地の一角を狙った。ズボンのポケットの中には硬貨が数枚入っていたからそれは確実だわ。狙った住宅地は貧民層が暮らすところで、比較的狙いやすい場所。守りも少なく、鍵が壊れているところもあって、侵入は簡単だった。よっぽど生活が苦しかったのか、苦し紛れの防犯だったのかは分からないけれど、明かりをつけていた形跡もなかったから、侵入には気づかなかったのでしょうね。残念ながら三人が犠牲になった。あなたから逃げている最中に斬りつけた女性の傷はそこまで深くなかったら大丈夫みたい――」
「ああ、だから、ぼく、あそこに行った時、すごい静かで真っ暗だと思ったんだ」
「ところで」
 書物を閉じ、フルダはクラウスにペンを向けた。
「あなたはなんで、あそこで、角笛が吹けなかったの」
「なんでって……“普通に吹けば”音は鳴るって思ってたら鳴らなかったんだよ」
「普通に吹くってどういう意味よ。少なくとも、一度は吹いておくべきだったわ。……まあ、角笛が吹けたとしても、三人は助からなかっただろうけど……、あの男がそのようなことをしてしまうことが、そもそもの原因なんだけど」
 フルダはそう言って、すたすたと一階へとおり、カンテラに入れるろうそくが大量に収められた箱を引きずりだした。
「さ、これ、今から配りに行くわよ」
「なんで?」
「あるべきものがない時、人は人を襲って奪おうとするのよ。だから、原因となるものは一つでも取り除く。夜を安心して過ごすためには、こういうこともしなくては駄目なのよ。何もしなければ、また同じことが繰り返されるわ。ほら、重たいから持って」
 ろうそくがぎゅうぎゅうに詰められた木箱を持ち上げると、ずしりとした。
(フルダのやってることは、ローレンさんと同じだ……)
 フルダが向かったのは、昨日、男が襲い掛かった地区だった。
 フルダの言う通り、身なりから貧しく、痩せこけた者たちでいっぱいだった。もしかしたら自分もこうなっていたかもしれないと思うと、ぞっとした。
自分は助かったのだ。助かったのだから、今度は助けないといけない。
(フルダは……フルダなりに、守ろうとしてるから――ぼくも――)
 今は何もできない。けれど、これから、何かできるようになりたい。
「さ、帰ったら、角笛吹く練習ね」
 空になった木箱を持って、フルダは眼鏡の奥で微笑んだ。
 そんな顔するんだ、と、クラウスは思ったが、それは口にはしなかった。
「やることはたくさんだわ」
「分かってるよ」
 アイヴィンを追いかけていた時と同じように、クラウスはフルダを追いかけた。
 近づきたい。そう思いながら。
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