1章 

 教会の鐘の音に、クラウスは飛び起きた。
 ベッドの脇にある窓から、夕暮れのやわらかい光が差し込んでいる。日没のはじまりを告げる鐘だった。
(そんなに寝てたんだ……)
 マーオがずしりと腹の上に乗ってくる。寝すぎだと言うかのように鳴いた。
「分かったよ、起きるよ」
 少し埃っぽいが、温かくて大きなベッドで寝れたことにひどく安堵したのだろうか。夢も見ないくらい長い時間寝てしまっていた。昼のごはん時にも起きず、自分でも呆れるくらいよく寝たと思う。
 ベッドを軋ませながら起き上がり、窓の外を見る。この部屋に来た時にはあまり詳しく外の景色は見なかったが、よくよく見てみると、ちょうど目の前に大きな教会があった。だからこんなに鐘の音が大きく聞こえてきたのだと納得をした。
 ローレンにもらったばかりの制服を着たまま寝てしまっていたので、少ししわになってしまっている。申し訳なくて、手でしわを伸ばしたあと、寝室から出た。
「やあ、少年。いい時間に起きたね」
 カンテラの中にろうそくを入れながら、ローレンはクラウスに声をかけた。
「すみません、寝すぎました」
「疲れが取れたのならいい。君もこれから働かなければいけないからね。君のカンテラにも火を灯そう。カンテラと杖を持っておいで」
 催促されるまま、クラウスはローレンからもらったばかりのカンテラを渡すと、慣れた手つきで大きなろうそくを一本入れた。暖炉の中から持ってきた火を使って、火を灯す。ぱっと明るくなったカンテラの取っ手を、杖の先についてあるフックに引っ掛け、持ち歩きやすくした。
「この杖は、万が一襲われた時には君の武器にもなる。槍のようになっているだろう。本当に危ないと思った時、これを使うといい。私はあまり血を見るのは好まないから、こっちをつかうけれど」
 ローレンは笑いながら、杖でとんとんと床を叩いた。杖の尻で腹を突く姿は、暴漢から助けてくれた時に実際にクラウスも見ていた。
「あと角笛。それは、寝ている市民に火災を伝えたり、危険を伝えたりするときに使うんだ。早く逃げろってね。夜、何が一番怖いかというと、やっぱり火災なんだよ。木造の家が多いから一度火がつけば、あっという間に燃え広がってしまう。夜警は寝ている市民にその角笛の音で危険を知らせ、いち早く逃げるように促すのも仕事。もちろん、悪事を行う者を捕まえるのも仕事だけれどね。それからもう一つ、その角笛は、仲間を呼ぶ時にも使うんだ。一人では対応できないことがあれば、迷わずそれを吹いてほしい」
 思い出すのは、ローレンが角笛を高らかに吹いたあと、駆け寄ってきた夜警たちだった。ローレンの音で皆が集まり、暴漢を牢へと連れていく姿は鮮明に記憶に残っていた。
「分かりました。やってみます」
「外套と帽子を忘れずにね。それじゃあ、俺はもう行くよ。気負わず。まず君は街の構造を覚えたほうがよさそうだ。よい夜を」
 帽子を軽く頭に乗せ、ローレンは杖を持って夜の街へと出て行った。
(フルダはどうするのかな)
 物音のしないフルダの寝室を覗き込むわけにもいかず、クラウスはゆっくりと外套を羽織り、帽子を頭に乗せた。つばの広い帽子は少し大きめで、頭を動かすとずるりと落ちてくる。もう少し小さめの帽子が欲しかったが、ローレンはもう出ていってしまったし、フルダもいるかいないか分からない。クラウスはあきらめて杖を持って階段をゆっくりと降りた。
「マーオも一緒に行くの?」
 足元をとてとてとついてくるマーオは、何も言わなかった。
 ただ、クラウスの横を歩く。本当に犬なのか疑ってしまうが、クラウスから離れず歩く様子はさながら番犬のようだった。もしかしたら、マーオも夜警の一員になったと思っているのかもしれない。
 マーオがいないよりは、ましかもしれない。そう思いながらクラウスは玄関から夜の街へと出た。


 ホームの前に広がっていたのは、噴水のある広場だった。
 ティルハーヴェンは“夜も眠らない海の街”と言われていることがよく分かる。大きな明かりが灯されて、一面が明るかった。近くからがやがやとする声が聞こえる。声に呼ばれるまま歩くと、大きな市場へと出た。たくさんの商人が夜になっても店を開いているし、誘われるまま商品を手にする市民がたくさんいた。
(全部船で持ってきたものだ、これ)
 見慣れない商品が並んでいた。
 遠い遠い海の果てにあるとされる香辛料、きらびやかな布、宝石――噂に聞いていた通りここには何でもあった。見たこともないものが並び、クラウスはここがそれだけものに溢れている場所であることを再確認する。
 故郷とは大違いだ。
 何もない場所だった。食べるものも、着るものも。唯一あったのは、痩せた土地と、雨を凌ぐことができるぼろの家だけ。
 故郷の姿と、この街の姿の違いに打ちのめされた気持ちになり、クラウスは静かに市から離れた。
 カンテラの明かりだけを頼りに、クラウスはぼんやりと街の様子を見ながら歩く。
 市から離れると、今度は酒のにおいが漂う地区へと出た。
(ぼくが襲われたのって、ここだったんだ)
 店の中からは酒に溺れる者たちの豪快な笑い声が聞こえてくる。時たま、店の者が裏路地に積んでいる酒樽を取りに来ては、店へと戻っていく様子が見られた。酒場が並ぶこの地区も、一晩中起きているのだろうなと思いながらクラウスは歩く。
 酒場の並ぶ地区から出ると、今度は人の声が一切しない暗い地区へと出た。家だけが静かに並んでいる。
「ここは、どこだろう、マーオ」
 カンテラで辺りを照らしてみるが、民家しか見ることはできなかった。なのに、人の気配が一切ない。
 夜に入ってからあまり時間は経っていないはずだ。眠りに入るにはまだ少し早いとも言える時間だ。
 マーオは何も言わず、ただ鼻をひくひくとさせながら歩いていた。
「なんか、ここだけ違うね」
 市や酒場の並ぶ地区とはまったく違う街に来てしまったのかと疑うほどの違いに、クラウスは少し心配になってくる。
 戻ろうかと思ったが、目印である教会がどこにあるかすら見えなかった。街の中央はあんなに明かりが灯されていたのに、当たりは一面真っ暗である。そんなに遠くまで来ていないと思っていたはずなのに、と、クラウスは杖をきゅっと握った。
 恐る恐る歩いていたが、急にマーオがクラウスから離れて歩きはじめた。
「あ、マーオ! どこに行くの!」
 鼻をひくひくとさせながら、民家の間をとてとてと早歩きで歩いていく。その後ろを、クラウスは必死についていった。今、マーオから離れてしまうと、いよいよ朝になるまでホームに戻れない気がしたからだ。
「ちょっと、ちょっと! マーオったら! 走らないでよ!」
 置いて行かれそうになりながら、クラウスはカンテラを揺らしながら走る。
「うわっ」
 マーオが声を上げるのと同時だった。
 何かにどんっとぶつかり、クラウスは倒れてしまった。
「え、何!?」
 マーオが鳴き叫んでいる。犬とも思えない鳴き声で、必死に鳴く。クラウスはずり落ちた帽子を上げて、カンテラを掲げた。
「ちっ……夜警か」
 カンテラの明かりに一瞬ひるんだその男の姿を見て、クラウスは息を飲んだ。
 全身、血まみれの男だった。
 クラウスは叫びそうになりながらも、なんとか立ち上がり、その男の様子を見た。
(ナイフを持ってる……、ということは、人殺し!?)
 ぞっとした。
 返り血を浴びた男の姿にではなく、今度は自分が殺されるのではないかという恐怖が、全身を駆け巡った。
 動けないクラウスを前に、男は薄ら笑いをした。
「情けねえやつだな、新米か?」
 男は踵を返し、走り去る。
 いけない。逃してはいけない。その気持ちとは裏腹に、体が動いてくれない。
 マーオが、クラウスの角笛を噛んだ。
「そ、そうだ、これ」
 震える手で角笛を持ち、その中に息を入れるが――。
「え、出ないんだけど!? なんで!?」
 何度も何度も息を入れても、音が鳴らない。息だけが抜けていく。思い描くような音は一つも出てこなかった。
 焦るクラウスを見たマーオは、今度はクラウスの背中に突進した。
 その勢いでクラウスは飛び上がり、ようやく立ち上がれた。
「追いかけよう!」
 カンテラを頼りに、クラウスは男が逃げ去ったほうへと走りはじめる。しかし、男はとっくに逃げ去ってしまっていた。
 マーオが何かに気付いて、クラウスの外套を噛む。
「足跡だ。まだ乾いてない」
 べっとりとついた血は、男の足取りを描いていた。それをカンテラで照らしながらクラウスは走る。
 走っていると、薄暗い住宅地から出て、さっきクラウスが訪れた市へと出た。もしかしたら、一周したのかもしれないと思いながらクラウスは人込みをかきわけ足跡をたどる。
 遠くから、女の叫び声が聞こえる。
「あっちだ」
 マーオと共に走ると、人の塊にぶつかった。
「おい、人が斬られたぞ! 医者を呼べ!」
 男の人が、女の人を抱いて叫んでいる。
 もしかしたら、さっきのナイフを持った男が逃げる時に斬りつけたのかもしれない。クラウスは女の人の無事を祈りながら、さらに走る。
(なんで角笛が鳴ってくれないの! すぐに他の夜警を呼べたのに!)
 遠くにあの血まみれの男の姿をやっととらえることができた。けれど、クラウスの足では到底追いつけない距離だ。
 マーオが叫ぶ。
 その時だった。
 男の前に、一人の夜警がぱっと踊り出た。男が夜警に気付き、足を止める。
「……夜警だ!」
 ざわめきに気が付いて、来てくれたのだろうか。
 クラウスと、一人の夜警に挟まれた男は、胸の前にナイフを構えた。
「お前、人を殺したな?」
 夜警の問いに、男はナイフを振り回しながら叫んだ。周辺にいる人々がざわめく。
「うるせえ! じゃなきゃ、俺はやっていけねえんだ!」
「ティルハーヴェンは人を見捨てたりはしない。たとえ金がなかろうとも。お前は、他に手段があったにも関わらず人を殺すことで救われることを自分で選んだ、重罪人だ」
 夜警はカンテラを静かに置き、杖を両の手で握った。
「人殺しはその場で処理せよという決まりだ。許せ。罪なき者を殺めた罪は重い」
「お前が死ね!」
 男がナイフで夜警を斬りつけようとしたその時、夜警は杖を両手で握った。
(仕込み剣だ……! 杖が剣になってる!)
 細い切っ先がなめらかに動く。
 そして、男は、静かに倒れた。
「……ふう。やあ、新米夜警。市が騒がしいと思ったから来たら、とんでもない事件があったみたいだね」
 剣を杖へしまい込み、男はクラウスに話しかけた。
 帽子から出てきたのは、柔和な顔立ちをした男だった。歳はクラウスに近いが、少し上のように見えた。フルダと同じく、金の髪が夜の街に輝いている。背中まで伸びる金髪を三つ編みに結っていた。
「あの、ありがとうございます……」
「助けあうのが夜警さ。さて、事後処理はフルダにお願いしないと」
 男は置いたカンテラを杖に下げ直し、フルダの名を呼んだ。すると、店の影からフルダがぶっすりとしながら出てきた。
 フルダもどうやら、今日は夜の街に出ていたようだ。リボンのついた女性用の外套と帽子をかぶっている。そして、手には男と同じく、杖とカンテラがあった。
「フルダ、じゃあ、これ、頼むよ」
「分かったわ、アイヴィン。でもね……でもね……」
 かつん、かつん、と足音を響かせながら、フルダはクラウスの前に立った。
「……っ!」
 乾いた音が、夜の街に響く。
「夜警なんて、やめてしまえばいいのよ、あなた!」
 頬を押さえるクラウスに、涙目で、フルダは叫んだのだった。
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