6章

 ずどん、と地面が揺れた。フルダもアイヴィンも、そしてその場にいた夜警たち皆が、海を見る。
 飛沫が雨となり街に降りかかる。さあっとひとしきり降ったあと、港から大勢の人たちが街の中へと駆けこんできた。「津波だ!」と叫びながらたくさんの船乗りたちが押し寄せてきたのだ。
「今度は何?」
 フルダが目を細めて海の向こうにあるものを見る。
「何かいるな……」
 船のランプに照らされ、浮かび上がる大きな影に、街に緊張感が走った。
『巨人よ、巨人だわ! 小人の街のそばにある、巨人の谷から来たんだわ! たいへん! 乱暴な巨人よ!』
 怯えたエルティーニはアイヴィンの外套の中に籠ってしまった。そうこうしているうちに、影は大きな波を作りながら海岸へと歩みを進めている。突然海に落ちてしまい驚いたのか、大きな手をじたばたとさせて前へ急いで進もうとしている。
「たいへん、港が流されちゃう」
「でも、どうするっていうんだよ」
 大きな存在に驚くティルハーヴェンの民は、ただただその巨体を見つめるだけだった。驚きで体が蝕まれ、身動きができなかった。
 街に近づいた巨人はまるで岩山のようだった。ごつごつとした顔をよく見れば幼さが見えた。
(子どもの巨人?)
 フルダがそう認識をした途端、巨人は大きな声をあげた。
 耳が壊れそうな叫び。耳を手で塞ぎながら、フルダは巨人の顔を見る。
(知らないところに来てしまて、びっくりして、泣いてるんだわ……! ここで暴れられたら、街が壊れちゃう!)
「角笛を吹くんだよ! 今すぐ!」
 ゲルダが耳を押さえながら、夜警たちに叫んだ。
 その声は、しっかりとローレンの耳に届いた。
 肩から下がる角笛をすぐに取り、ローレンは力の限り角笛に息を吹き込んだ。しかし、その音は巨人の泣き声にかき消されてしまう。
「私たちも。今はそうするしかないわ」
 クラウスのあの痛みに耐える姿を思い出すと胸が痛むが、今は吹かなければいけない時だというのは、フルダにもよくわかった。
「吹け、吹け、街を守るんだ!」
 ローレンが叫ぶと、夜警たちも一度に角笛を吹き始める。
 クラウスと同じく、巨人も角笛の音が苦手なのか、痛みに耐えきれず空から大きな岩の塊のような手が降ってくる。
「危ない!」
 アイヴィンが叫ぶと、びゅっと強い風が吹き込んだ。
 風に押し返された拳は、民家へと直撃する。柱は砕け、塵が飛散した。
『巨人よ』
『巨人だ』
『泣いてる』
『危ない』
 少しだけ面白そうに、しかし、少しだけ不安そうな風の精たちが囁いている。空にはばたく精がアイヴィンを見つけた。
『あの子は?』
 エルティーニを知っているということは、夜と昼を結ぶ道にいる風の精たちだろうか。
 聞きなれた声に、エルティーニは外套から顔を出した。
『みんな!』
 エルティーニが嬉しそうに仲間たちに向かって飛ぶ。その様子を見たアイヴィンは、一つ提案をした。
「君たち、一時でいいから、俺と契約してくれないか」
 アイヴィンが風たちに叫ぶと、風の精たちはエルティ―ニを見て、頷いた。
 妖精たちは巨人の周りを旋回し、風を作る。暴れる巨人の手が風で押さえつけられた。
 鳴り響く角笛の音に耐えきれなくなった巨人は、いよいよ、意識を失ってしまった。倒れる巨体を風が支える。
「まったく、今晩はすごい夜だね。マダム・ゲルダ。おとぎ話の再現のまじないでもしたのかい?」
 額に浮かんだ汗をぬぐい、ローレンは角笛をおろした。
「まさか。これは本当の出来事だよ。昼と夜が混ざってるんだよ」
 星の数が増えている。ゲルダはレンガ敷きの道の上にただよう霧を見た。
 人の声が聞こえない。
「この霧」
 フルダが言うと、ゲルダは頷いた。
「もう半分、夜の国になってしまってるよ、ここは」
 ゲルダがため息をつくと、夜警たちに向かって言った。
「踏ん張りどころだと思う。夜警たちはとりあえず巨人の子を見てあげたほうがいい。目を覚ました時が怖いからね」
 そう言ったゲルダに対して、ローレンは「任せてくれ」と頷いた。
「なんでもしよう。我々はもともと、夜の国からこの街を守るために作られた組織なのだから。本来の仕事をできるのは誇りに思うよ」
 周りの夜警たちも、カンテラを揺らしながら頷いた。
「さ、では、クラウスくんが帰るのを待とうか。彼がきっとどうにかしてくれるよ。彼のまじないは、街中に響く、いい歌だからね」
 そう言った時だった。
 先ほどの衝撃音とはまた違った音が街に響く。
 火の柱が上がり、空が炎で照らされた。貧困区で、爆発が起こったようだ。
 ローレンたちがすぐに現場へ行こうとしたが、アイヴィンはそれを止めた。
「団長、俺が行ってきます」
「でも」
「あれ、今までの不審火の犯人ですよ。俺がずっと探してきたんです。俺が行く」
 エルティーニが何かを察したのか、アイヴィンのもとへすぐさま飛んでくる。
「団長たちは、巨人を見ててください」
 それだけ言って、アイヴィンは貧困区へと駆けた。
「私も行ってきます。心配しないで」
「分かった、頼むよ」
 火災現場へと駆けていく二人を見送ったローレンは、角笛とカンテラを手に、団員に声をかけた。
「夜は半分を超えた。もう少し、頑張ろうじゃないか、みんな」
 じわじわと、夜の国の住民が増える。空には星だけでなく、妖精の光があった。
「マダム・ゲルダ、あの者たちを集めるにはどうしたらいいんだい?」
「私も道具を使い果たしてしまったから、もうまじない歌しかない。歌うんだ。でも、ただ歌うんじゃだめだ。よく響く声で、ありったけの気持ちをこめて歌うんだよ、夜の歌……、いいや、夜警の歌をね。教えてやろう、このまじない師が」
 亜麻色の髪を揺らし、ゲルダは教えた。
 クラウスが歌うまじない歌を。
 
 
「クラウスをすぐ呼ぶことはできるかい?」
 走りながら、アイヴィンはエルティ―ニに尋ねた。
『どのくらいで?』
「一呼吸する間に」
『私を誰だと思ってるの』
 エルティーニはふふ、と笑い、いつものようにびゅっと風を切った。宣言した通り、一呼吸でアイヴィンの元に戻って来たエルティーニは、後ろから近づいてくる足音に気付き、アイヴィンの髪を引っ張った。足を止めて振り向くと、フルダが駆けてくるのに気付く。
「アイヴィン、待って! 私も行く!」
「来るのはいいが、きっと、夜のお前は妖精とは別の場所にいるぞ」
「なぜそう思うの」
「危ないから。危ないから離れたところにいるはずだ。フルダは夜のお前を探してくれ。そして、説得するんだ。こんなつまらんことをやめろってな。妖精のほうは俺に任せてくれ」
 それは、一人で行け、と言うのと同じだった。
 アイヴィンはフルダの帽子の上に、そっと手を置いた。
「お前が火に巻き込まれるのは、もう、ごめんだ。フルダ、俺が必ず、捕まえるから。お前は夜のお前を捕まえろ。もうティルを燃やすことができるのは今晩までだ。守らなければ。行くよ。いいか、絶対に、こっちには来るな」
 必ず捕まえると、クラウスと同じことを言ったアイヴィンに、フルダはもう何も言えなかった。
 そうしているあいだに、さらに火の柱が天へ突き刺さる。
 痛々しい光景に一瞬だけ、フルダは瞼を閉じた。
 そして、フルダは静かに歌った。会いたい、たったそれだけの想いをこめて。
 
 
 エルティーニに呼ばれてすぐに昼の国に帰ってきたクラウスは、驚いた。
 倒壊した家屋に、貧困区ではあちこち火の手が上がっている。
 自分がいない短い時間の間で何が起きたのかはエルティーニから聞いて分かっていたはずなのに、その光景を目にした途端、胸が苦しくなる。
(故郷が枯れた時と、同じだ――!)
 昼と夜が混ざるというのは、こういうことなのだと、クラウスはその時ようやく分かった。
 昼と夜が混ざった果てには、本当に”何もなくなる”のだ。ティルハーヴェンは、今、その一歩手前まで来ているのだ。あの”なんでもある”と謳われるティルハーヴェンから、輝きが消えつつある。クラウスは焦った。
「とにかく、夜の国のみんなを、戻さないと」
 しかし、それだけでは、何の解決にもならないことはクラウスは知っていた。
 自分が、夜の国に帰り、夜の国の夜にならない限り、この夜は続く。しかし、そうすれば、今度は夜の自分をまた苦しめてしまう。もう彼から彼の願いを奪うことはできなかった。考えても、解決策は、思い浮かばなかった。
「でも、できることから、しなきゃ……、マーオ、行こう!」
 明かりが多く見えるのは、夜警たちが集まっていたからだった。巨人の大きさに驚きながらも、クラウスはローレンに駆け寄った。
「少年!」
「団長。あの、この子はどうして倒れているのですか?」
 ゲルダがいるということは、まじないを使ったということだろうか。
「角笛を吹いたんだよ。この子を押さえ込むにはそうするしかなかったからね。相当暴れたんだ。今、夜警たちがまじないで妖精たちを夜の国に帰している途中なんだけど、この子だけは動かなくてね。まじないも通用しないんだ」
「分かりました。とにかく、夜に帰したらいいんですね」
 すぐに自分の影を広げ、クラウスは巨人に声をかけるが、声は巨人には届かなかった。
(違う、聞こえないんじゃなくて、聞こうとしてないんだ)
 夜に染み出る”痛い”という気持ち。その気持ちは、クラウスも知っていた。全身が痛い。動けなくなるほど痛い。耐えきれない痛みにすべての音から耳をふさいでいる。
 このまま夜を広げて、道を繋いだとしても、この子は動かない。
(あの時、お母さんは、ぼくに何をしてくれたっけ)
 自分を優しく包んでくれた、あたたかいヴェールだ。あれで、体を癒したのだ。
 母のヴェールは、母の夜そのものだった。
(ぼくも、ぼくの夜で、そうすれば……)
 しかし、この大きな体を前にして、それができるかどうかは、分からなかった。考えているうちに、クラウスの胸の中に、大きな響きが聞こえてきた。
 ――きみは?
 巨人の心の声のような、何かだった。
 その響きにどう返していいか分からず、クラウスは咄嗟に「ぼく」と言ったが、声はやはり届かないようだった。
(そうだ、ぼく、きみになる!)
 自分の心に直接話しかけてきたのは、きっと、巨人の持つ”夜”と、自分の夜が近くなったから。そう思ったクラウスは、巨人のごつごつとした肌にそっと触れ、瞼を閉じた。
 すると、巨人の感じている痛みが、クラウスの体を叩く。あの痛みが、再び体に戻ってきたような感じだ。逃げ出したくなるような痛みだったが、クラウスは逃げなかった。
「きみの痛み、ぜんぶぼくがもらうよ」
 治し方は自分はよく知っている。ならば、代わりにもらってあげればいい。そう思って、クラウスは巨人に話しかけた。
 ――きみは、いい夜だね……、小さな夜……。ありがとう。
 すべての痛みを受け入れ、クラウスは倒れた。マーオが寄り添う。
 ゆったりと、巨人は体を起こし、そして道を通って夜の国に自分で帰っていった。
 夜の中にあったヴェールをマーオがそっと体にかけてくれた。
「そっか。なんでもできるって、こういうことだったんだね」
 マーオの背中を優しく撫でて、クラウスは自分の体をそっと抱いた。
 これはもう一人の自分からもらった姿だった。なんでもなれることを知っていて、自分は、もう一人の自分になったのだ。
 なら――。
 痛みが完全に引いたのを確認して、クラウスは体を起こした。
「急いでぼくを探そう。今度は奪うんじゃなくて、与える側に、なるんだ!」
 それには、カンテラが必要だった。クラウスは夜の中から、フルダを探した。
 自分のカンテラの光は、ひときわ強い光を持っているのだ。今度は自分で見つけれる。そう思った。

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