6章

 ベッドに座って、クラウスは膝に乗るマーオを撫でていた。
 フルダと共に自分を夜の国から昼へ連れ戻してくれたマーオもまた疲れていたようで、クラウスの膝の上でぐっすりと眠っていた。
 ベッドからはフルダの静かな寝息が聞こえてくる。たまに、マーオが鼻を鳴らすのが見ていてかわいらしかった。
(マーオ、まじない犬だったんだ、だから、マーオはぼくよりしっかりしてて、夜の国のことも知ってたんだ)
 マーオの存在に気付いたのは、ティルに来てすぐ、酒に酔った男に襲われている時だった。近くで鳴いていて、ずっと猫の鳴き声だと、あの時は思ったのだ。ローレンに指摘され、マーオが犬だということを知った。それから、夜警犬としてホームに受け入れられ、犬嫌いのフルダにも認められ、ずっとクラウスのそばにいたのがマーオだった。
 ティルで出会ったものだとてっきり思い込んでいたが、実のところ、クラウスの記憶が封じられたせいでそう思い込んでしまっていたのだった。
 故郷のまじない師が子犬のマーオを道端で拾って持って帰ったのも、クラウスはきちんと覚えていた。自分が言っていたのだ。犬を飼ってみたいと。隣の家のように、犬を飼ってみたかったのだ。まじない師は、クラウスになんでも与えてくれていた。だから、捨て犬だったマーオをすぐに家に迎えてくれたのだ。
 それから、ずっと自分の遊び相手がマーオだったことも、あの頃からベッドにもぐりこんでまるで猫のように足もとで寝ていたことも、すべてクラウスは覚えていた。
 ふかふかの毛を撫でていると、何かが手に引っかかった。
「マーオ、首輪なんてしてたんだ」
 両手で伸びた毛を分けて押さえると、奥から銀の首輪が出てきた。とても細く、今まで気づかなかったことに納得をしてしまった。マーオの毛も伸びきっていたので、うまいように隠れていたようだ。
 よくよく見ると、何やら文字が刻まれている。それは、故郷の文字だった。
 今のクラウスなら、意味が分かった。
(夜のいとし子へ、幸せを願う――)
 たった、それだけの言葉だったが、クラウスは胸が苦しくなり、マーオの毛の中に顔を埋めた。
(ばあば、ありがとう。ばあば――)
 自分の嗚咽に気付いたのか、マーオが顔を上げ、クラウスの頬を舐めた。
「マーオもありがとうね。ぼくのためにまじない犬になってくれて」
 たっぷり撫でてやると、マーオは嬉しそうに尻尾を振った。
 そういえば、ローレンがマーオのためにとマーオの制服を作ってくれていたのを思い出した。窓際の机の上にちょこんと置かれているので、すっかり忘れてしまっていた。クラウスたちの外套と同じ生地を使った、犬用の外套だった。マーオに着せてやると、ひらめく外套が気になってマーオはぐるりと体を回転させた。喜んでいるようだ。
「――お似合いね」
「あ、うん。おはよう、フルダ」
 体を起こしたフルダは、マーオを見て、くすりと笑った。
「ごめんなさい、あなたのベッド、ずっと借りちゃってたわ」
「ううん、いいんだ。ぼく、長いこと寝てたから」
 フルダは時間を確認しようと、窓の外を見た。すっかり、日は西に傾いている。もう夜が近づいていた。
「カンテラは?」
「ずっと火を入れてる。まだ、ちょっと怖いから」
 クラウスは自分の影を見た。
 母にもらったヴェールは影の中にしまいこんでいた。そして、自分の一部も影の中にしまっていた。そこが、昼の中でも夜が存在できる唯一の場所だった。夜になれば、ゲルダが言うように、自分の夜がこの国の夜と混ざってしまうかもしれない。そうなってしまうだろうという自覚はあった。だから、ゲルダはカンテラを灯せと言っていたのだ。
「本当の自分に気付いて、これからがこっちで過ごす初めての夜だから……、まだちょっと、怖い。カンテラの光が弱かったらどうしようって。本当なら、自分が自分でどうにかすべきなんだけど。どうにかするって、お母さんにも言ったのに」
 杖を取り、カンテラを揺らすと、自分の影もゆらめいた。クラウスの不安を映すかのように、ぶるりと影は震えた。
「アイヴィン、風の精と契約したじゃない。その子が、私に教えてくれたの。夜はなんでもなれるって。どういう意味か分からないけれど、たぶん、何かのヒントになると思うわ」
「ありがとうフルダ。覚えとくよ」
 おなかすいた、とフルダが夜勤前の夕食を用意しようとベッドから出た時だった。
 ゆっくりと、分厚い雲が西日を覆い、部屋が陰る。
 マーオが低く唸った。
「何、どうしたの、マーオ」
 マーオがドアに向かって唸っている。
「何かあるのかしら」
 フルダが恐る恐るドアに近づき、ドアノブを回した。
 ゆっくりと開けると、小さな何かが揺れた。
「あれ?」
 からん、と聞きなれた音が聞こえる。
「リュートじゃない、なぜ、うちにいるの?」
 星空のドレスが、不安げにゆれた。妖精の入ったカンテラも、いつもより光が小さい。
「それはこちらが聞きたいわ、なぜ私は、昼のホームにいるの!? どういうこと!? 私、道なんて通ってないわよ!?」
 かつん、と怒ったように杖で床を鳴らした。
 揺れるカンテラの中で、妖精が身を震えさせた。
 
 
『あら、小人の街の最後の夜警じゃない。こちらに用事?』
 くすくすとエルティーニが笑いながらリュートに話しかける。すると、リュートは眉を吊り上げた。
「あなたは昼と夜の狭間の風の精ね。何、まんまと人間のまじないに引っかかっちゃったの? 別に用事なんかないわ、気付いたら、ここにいたの。私は確かに夜の国のホームで、まったりとお茶を飲んで、夜に備えていたわ。そうしたらちょっとだけ眠くなって、椅子の上で、ほんのちょっとだけよ、ちょっとだけ、目を閉じたの。そして、目を開けたらここよ。どういうことよ」
 苛立っているリュートをなだめるのはアイヴィンだった。まあまあ、というと、余計にリュートの眉が吊り上がった。
「あのね、これは、一大事よ」
 クラウスのベッドに腰かけるリュートは、さながら人形のようだった。昼の国におびえる光の妖精を安心させるために両の手でカンテラを持っているから、なおさらだ。
「一大事っていうと、それはどういうことなんだ?」
 アイヴィンが聞くと、リュートは声を低くして言った。
「夜と昼が混ざりつつあるってこと。昼と夜が混ざっているせいで、道を通らずして反する世界に行ってしまうことになるわ。今の私みたいにね。よく考えてごらんなさいよ。”取替子”のお話を」
 クラウスは思い出した。
 フルダの話では、取替子は確か、赤子がゆりかごの中で取り替えられるという話だった。クラウスの場合はその話とは違ったが、一般に伝わる話では、取り替えられる場面はゆりかごの中だ。
「ゆりかご?」
「そ。意図せぬ取替子が発生してしまう可能性があるわ。今の小人の街では、人身売買を禁止するために人為的な取替子は禁じられたの。でも、昼と夜が混ざった時、気付かぬうちに取替子が発生してしまうわ。赤子だから、気付くのも遅くなってしまうの。だから、昼と夜は混ざってはいけないって言ってるのよ。まあ、他にも理由はあるけれど……、とにかく、そうなってしまう可能性が高いってわけ。なにか――、あなた、何か、あった?」
 リュートが、クラウスの目を見た。
 その中に、夜を感じたのだろうか。
「それか、夜のあなたか。何かあったでしょ。私には、そう思えるんだけど?」
 カンテラが揺れ、クラウスの影が揺れた。
 察しがいいのは、リュートが夜の国の住民のせいだろうか。
 クラウスは自分のことを、リュートにすべてを話した。そして、夜のフルダのことやクラウスのことも話した。
 すべてを聴き終えたあと、リュートは「ははあ」と深く頷いた。
「それは一大事ね。昼は夜に帰りたくないと言い、夜は昼に帰りたくないと言うのね。それじゃあ、混ざってしまうのも、仕方ないわね。存在すべき場所に帰りたくないというのなら、そうなって当り前よ」
「当たり前って、どういうこと?」
 フルダが尋ねると、リュートはため息をついた。
「世界を調整しようとするのよ。あなたたちのために。クラウスが夜そのものだから。あなたが、そうしようとしてるの。だって、夜は、なんにでもなれるもの。あなたが、ここにいようと、してるのよ。あなたがね」
 あ、とクラウスは思った。
 影も、震えた。
 なんにでもなれるという言葉が、胸に突き刺さったような気がした。
(ぼくは、なんでもあることに憧れたけど……けど……)
 それが、今、ふたつの国を大変なことにしていることに気付いてしまい、クラウスは自分の杖を強く握りしめた。
「ま。あなた、夜警なんでしょ? じゃあ、あなた自身でどうにかしてみせなさいよ。夜警の仕事って、そういうことでしょ? 静かで、穏やかな夜を守るのが夜警でしょ? 私も夜警だけれど。今はまじないでどうにかしているつもりみたいだけど、私がここにいる時点で、まじないはとっくに破れてるわよ」
 そろそろ帰らなきゃ、とリュートはベルを鳴らしながらベッドから飛び降りた。
「私は夜の国の夜を守る夜警だから、夜の国にいるわ。狭間の精、送ってくれる?」
『ええ~、もう、しょうがないなあ』
 渋るエルティーニにアイヴィンが一言「頼む」と言うと、一瞬でリュートを夜の国へと送って行った。
 風が過ぎ去り、クラウスの部屋が静かになる。
「――、クラウス」
 杖を握りしめたまま動かないクラウスに、アイヴィンが声をかけた。
「クラウスったら」
 二度呼んで、ようやくクラウスは顔を上げた。
 その顔は、気付かぬうちに過ちを犯していたことにようやく気付いて怯えている顔だった。
「信じようじゃないか、その、”夜はなんにでもなれる”って言葉。なんにでもなれるということは、どうにでもなるってことだよ。お前次第ではあるが、いい方向にも、悪い方向にも、どちらにも進めるってことさ。いい方向に進める可能性があるっていうことだよ」
「うん」
「早く見つけよう、その、いい方向に進むための道をさ」
「うん」
「なんとかなるわ、だって、夜警だもの。夜には、詳しいわ、私たち」
 フルダはそう言って立ち上がり、夜警の帽子をかぶった。自分のカンテラにも火を灯し、外套を羽織って外へ行く準備を整えた。
「どこへ行くの?」
「リュートのように、こちらに来てしまった夜の住民がいないか見てまわらなきゃ。そのあたりに妖精が飛んでいたら、みんなびっくりするわ。それに、あの子も、こちらに来るような気がするのよ」
 まだ夜ははじまったばかりだった。
 カンテラを持って外へ出ると、いつもよりも星の数が多いような気がした。それこそ、夜の国の夜空に似ているような気がしたのだ。
(これが、”ぼく”が望んでることなのかな……)
 昼のものなのか、夜のものなのか分からない空を見て、クラウスは自分の問いに対して「違う」とはっきりと答えを持つことができた。
 自分はずっとこの世界に生きることに憧れていたし、今だって、ホームで夜警の一員として過ごしたいと願っている。そうしようと思えば思うほど、自分の”夜”は自分の願いをかなえようと膨らんでいくような気がしてならない。けれど、それは違うとはっきり自分に対して言えた。
 カンテラが輝けば輝くほど深まる自分の夜をどうすればよいのだろう。
 フルダとアイヴィンの後を追い、街を歩きながら、クラウスは黙って考えをめぐらせていた。

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