5章

「ゲルダさん、どうしよう、クラウスが……!」
 本の上で泣きそうな顔をしているフルダの腕の中には、半透明な何かがあった。
「どういうことだい」
 手に持っていたカップを机の上に置き、ゲルダはフルダの腕の中を見る。
 星が瞬くヴェールに包まれたクラウスが眠っている。それを見て、ゲルダはフルダに説明を求めた。
「これは?」
「詳しいことは聞かないと分からないけれど……、クラウス、夜の女王様の子供だったの。夜を思い出すって言って、ヴェールに包まれて、それから、ずっとこうなの。呼んでも起きないし、このままじゃ、クラウス、本当に夜になっちゃうわ」
「夜の女王? この子、夜だったのか。それは――」
 夜の女王の存在は確かに知っていた。しかし、”夜”という存在を見るのは、ゲルダでも初めてだった。取替子であるところまでは見抜けたが、まさか夜だとは思わなかった。
 夜であるならば、日が出ているうちは姿を隠すのが本来の姿だ。だから、クラウスが朝を迎えるにつれて消えゆくのは、当たり前のことなのかもしれない。
 しかし、そうなれば、クラウスは昼の世界の夜と混ざってしまう――。ゲルダは焦った。
「とにかくフルダ。クラウスの名を呼んでおやり。私はその間、どうすればよいか考えるから。昼と夜が混ざってしまっては、大事だ。この子が、自分を取り戻すように」
「ええ、分かったわ」
 本の上からおりて、フルダはクラウスを暖炉の前に寝かせた時だった。
「フルダ! クラウス!」
 風とともにゲルダの家に来たアイヴィンが二人を呼んだ。
「アイヴィンじゃないか。それに、もう一人いるね」
 ゲルダの髪がふわりと揺れる。何かがいることはすぐに分かったが、その姿は見ることができなかった。
「まじないを使ったんだね」
「マダム・ゲルダ、その件はありがとうございました。その子に、二人を探してもらってたんです。ようやく帰ってきたんだな」
 ゲルダの髪で遊んでいた風がアイヴィンの元へと飛んでいく。風が少女の姿になり、アイヴィンの肩にとまった。
『あの子がまじない師のところに行きたいって言ってたの。アイヴィンも探してたし、夜と昼のはざまで迷ってたし、面白そうだったから助けてあげたの。はじめまして、まじない師。お前があのまじないをかけたのね。まんまとひっかかったわ。よほど腕のいいまじない師なのね』
「さすがに契約者以外の者には名を教えてはくれないか。ああ、そうとも。あなたもいい風をお持ちのようで。風の妖精なら知っているかな。夜のこと」
 フルダの腕の中にいるクラウスを見て、エルティーニは面白そうに笑った。
 この世で一番面白い物語を見つけたような、そんな笑みだった。妖精はフルダの耳に囁いた。
『悔しいから、まじない師じゃなくて、あなたにひとつだけ教えるわ。夜は、何にでもなれるのよ――』
「何にでも――?」
 風の妖精はすぐに風となり、ゲルダの家の外へと飛んで行ってしまった。
 フルダは腕の中のクラウスを見た。
(だから、クラウスは、人間のクラウスとまったく一緒の姿で、こっちの世界に来たのね。だったら、ゲルダさんの言う通り、クラウスが昼であったことを思い出せば……)
 夜の女王からもらった、夜のヴェールを取ろうとしたが、クラウスの体にぺたりとついてしまっていて、なかなかとれない。
 苦戦していると、マーオがクラウスの上に飛び乗った。
「マーオ?」
 フルダが呼ぶと、マーオはクラウスの頬を舐めた。すると、ヴェールの端が持ち上がり、マーオはそれを今度は噛んでゆっくりと剥がしていく。クラウスの顔が露になったところで、尻尾を振りながら、マーオはクラウスから降りた。
「マーオ、あなた」
 フルダが驚いていると、ゲルダは「なるほど」と小さく呟いた。
「どこかのまじない師の犬だろうね。フルダ、呼んでおやり。今なら声が届くだろう」
 フルダは頷いて、クラウスの肩に手をあて、耳元で静かに呼んだ。
「クラウス、朝よ。ねえ。もう、たくさん寝たわ。起きて。クラウス、ホームへ、帰りましょ。あなたの、家に――」
 そのままフルダは優しい親にしてもらっていたように、クラウスの頬に朝のキスをする。
 すると、クラウスは、まるで海の底から上がってきたかのように深く息を吸って、吐いた。
 ゆっくりと瞼を持ち上げ、クラウスは視界の中にフルダがいることに気付き、安心したかのように少しだけ微笑んだ。
「――おはよう、フルダ」
 まぶしくて、クラウスは目を細めた。
 まだ体は重たい。しかし、体を起こさなければまた夜に戻ってしまいそうな気がして、無理矢理体を起こした。
「よかった、もう、起きれないかと、思った……、フルダが、呼んでくれたのが、聞こえたんだ、って、うわ」
 体を包んでいた母のヴェールを取ろうとすると、フルダがいきなり抱き着いてきて、せっかく起こした体がまた倒れてしまった。
「よかったって、言いたいのは、私よ。消えちゃうかと思ったわ。また大切なものがなくなるかと思ったわ」
「うん――マーオも、ありがとうね」
 手を舐めるマーオに、クラウスはお礼を言ってマーオの頭と背中を撫でた。マーオはのんびりと「マーオ」と鳴き、クラウスに応えた。
 安心からか、自分に抱き着いてすすり泣いているフルダの背中に、クラウスは腕を回した。
「心配させてごめんね。ぼく、もう大丈夫だから。フルダがカンテラを持ってきてくれたから。だから、泣かないで、フルダ」
「違うわ、これは、嬉しくて、泣いてるのよ。あなたとホームに帰れるのが、嬉しいの」
 フルダの涙で、自分の頬が濡れる。
「ぼくも――」
 クラウスは、フルダの赤く染まった頬に、静かに朝のキスを返した。
 
 
「とりあえず、何があったのか、食べながら聞こうか」
 ゲルダが朝の紅茶を三人分いれてくれたので、ここで軽い朝食をとることにした。
「ゲルダさんの新しい家って、カフェだったんですか?」
 フルダが聞くと、ゲルダはウインクをしてプレートを三枚持ってきた。
 パンにレタスとトマトをはさみ、ソースをかけたサンドウィッチだった。
「そうでもしないと、また警吏に捕まっちゃうからねえ。それに、おいしいほうが客はくるだろう? 昼はカフェ、夜はバーだよ。夜にはもう少し大人になったらおいで」
 マーオには鶏肉と野菜を混ぜたごはんをあげる。マーオにとってはごちそうで、勢いよく食べ始めた。
 全員で朝の祈りをし、サンドウィッチを食べる。さっぱりとしたソースがおいしくて、体が重たいクラウスもこれは食べることができた。
「クラウスくん、君、夜に行って何か分かったのかい?」
 ゲルダに聞かれ、クラウスは食べかけのサンドウィッチを皿の上に置いた。
 クラウスは、自分の中にあった記憶を、すべて話した。分かったというより、思い出した、のほうが、正しかった。フルダもアイヴィンも、そしてゲルダも、黙ってクラウスの話を聞いていた。
「昼と夜が出会ってはいけないっていうのは、知ってた。けど、どうしても、ここに来たかったんだ、ぼく。いいなあって思った。昼にはなんでもあって。羨ましかった。だから、お母さんの反対を無視して、後のことは自分でどうにかするって言って、ここに来たんだ。だから、ぼく、夜のぼくに、謝らなきゃ。村のみんなにも……、ぼく、ぼくのわがままで、いろんな人から、いろんなもの、奪っちゃってたんだ……」
 フルダはクラウスの話を聞いて、納得した。
「だから、夜のクラウスは、あなたを警戒してたのね。夜で、会ったの。たぶん、彼もすべてを知ったんでしょうね。あなたから何もかも奪われたって……。強い、憎しみのような感情を、感じたわ。あなたを、殺そうとまでして……」
 そして、フルダは、夜の女王に教えてもらった、夜のクラウスとフルダの記憶を話した。
 家の外に行っていたエルティーニがいつの間にか戻ってきて、アイヴィンの肩の上夜であった出来事を面白そうに聞いている。
『知ってる知ってる。あの捨て子と火の妖精でしょ? 面白いから、風の妖精たちで、噂してたのよ。これからどうなるんだろうって。小人と人間の恋物語だったら面白いわ! ってね』
「今は黙ってろって」
『はあい』
 アイヴィンに言われて、エルティーニはひゅっと消えていなくなった。
「そっか。だから、夜のぼく、夜のフルダのことを”ぼくの”って言ってたんだ」
 ずっと一緒にいたのだ。捨て子同士で、生きようとしていたのだ。
 夜は夜に戻って、昼は昼に戻る。当たり前のことが、難しく感じてしまった。
「ぼくが夜に戻って、夜のぼくが昼に戻ったらいいって思ったけど、そうしたら、夜のぼくは、また、ぼくに奪われることになるんだ。どうしたら、いいんだろう」
 母には自分でなんとかすると、言ってしまったのだ。自分がそう言ったのだから、自分でなんとかしなければいけない。助けを誰かに求めるのも、いけない気がしてしまい、クラウスは紅茶の入ったカップを両手で包んだまま俯いてしまった。
 ゲルダはゲルダで何か考えているようだが、ぴったりのまじないがないようで、首を静かに横に振った。
「ごめんね、みんな。ぼくがいけないんだ。だから、ぼくだけでなんとかする。ぼくには、まじない歌があるし。お母さんにもなんとかするって言ったから、なんとかするよ。ゲルダさん、美味しかったです。ごちそうさまでした」
 紅茶を飲み干して、クラウスは立ち上がった。
 マーオと一緒にホームへ戻るクラウスを、フルダは追いかけた。
「待って、クラウス。カンテラ」
「ああ。また、忘れてた。ごめんね。これないと、いけないのに」
 フルダからカンテラを受け取り、クラウスとフルダは二人で並んでホームに帰った。その間、会話は一つもなかった。
 ホームに戻って、クラウスの部屋に戻り、ようやくフルダは口を開いた。
「夜に戻るなんて、言わないで――、あなたがホームからいなくなるのは、嫌なの」
「うん」
「夜に行ってから、ひとりで考えたわ。もし、あなたが、夜の国に帰ったらって。私……」
 言葉にはしなかったが、フルダの言いたいことは、分かった。
 言葉にしない代わりに、フルダはクラウスに身を寄せた。
 一晩眠っていなかったフルダは、そのままクラウスの横で寝息を立て始めた。話を聞く限り、危ない目にも遭ったようで、心身ともに疲れているのだろう。そのまま、ベッドに寝かせてあげた。
(夜のクラウスも、きっと、夜のフルダと一緒にいたいって、思ってる。ぼくたち、同じだから――)
 フルダの手を握る。それは、一晩中、自分を夜から守ってくれていた手だった。
 
 
「どこに行ってたの? 急にいなくなるから、心配したわ」
 小さな手が迎えてくれた。腕を背中に回そうとしても、小さな腕では、背中まで届かなかった。
「ごめんね、フルダ。夜の城に招かれてたよ。ぼくがここに来た理由、分かったんだ」
「そう、どうだったの?」
 クラウスはフルダを抱き上げて、力いっぱいに抱きしめた。フルダの髪から、アイヴィンがちらりと顔を出す。面白くないような顔をして、見守っていた。
「どうしたの?」
 フルダの問いに、クラウスは何も答えなかった。しかし、クラウスの胸の中は伝わってきて、フルダはクラウスの頬にキスをした。
「どうして、ぼくは、小人じゃないんだろう。どうして、ぼくは、最初からこの国に生まれなかったんだろう。どうしてぼくらは、昼と夜を間違えたんだろう。どうして……」
 この国では、自分は何もできない。この国において、人間とは、何の力も持たない存在だった。
 夜の自分に何をされるか分からない。今度はこの国から追い出されてしまうのではないか。また何か奪いに来るのではないか、そう思えて仕方がなかった。
「大丈夫よ。私とアイヴィンがいれば。ずっと一緒。ね、私たち、ずっと一緒って、誓ったわ。奪うものは、燃やしてしまえばいいのよ」
 フルダがクラウスを慰める。
 小さな腕では、クラウスのすべてを抱きしめることはできない。それでも、フルダは精一杯腕を伸ばして、抱きしめた。
 もう誰からも奪われない。奪わせない。フルダの気持ちはアイヴィンにも伝わり、小さな火が爆ぜたのだった。

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