5章
教会の時を刻む鐘の音で、フルダは目をさました。
隣には、まだぐっすりと眠っているクラウスがいる。マーオも自分たちに挟まれてすやすやと寝息と立てていた。相変わらず、猫のような犬である。そこが、犬きらいなフルダがマーオを許せる理由の一つなのだが。
「クラウス、クラウス、起きて」
揺さぶってみるが、クラウスは深い眠りにまだいるようで、ひとつも身動きをしなかった。マーオがフルダに気付いて目をさまし、クラウスの頬を舐めるが、それでも目覚めなかった。
「マーオ、私、お昼作るから、もう少しクラウスを見ててくれる?」
人の言葉を解しているのだろうか。マーオの背中を撫でてやると、マーオはクラウスの顔に乗って頬を前足で踏み始めた。それが少しだけ面白くて、フルダはふふ、と笑いながら着替え、部屋へと出る。
ローレンが既にスープの具材を切っていたので、沸いた湯の中にそれを入れて、味付けをする。小さなウインナーをいくつか焼き、プレートに盛る。野菜を添えて、三人分の昼食を用意する。
クラウスは食事が大好きだから、きっと匂いに気付いて起きてくれるだろう。フルダの考えは、的中した。自分の部屋へと戻り、部屋の中にスープとソーセージの香りを漂わせ、マーオに踏まれ続けていたクラウスを呼ぶと、ぱちりと目を覚ました。
「あ、おはよう、フルダ……、よかった、起きれた……」
安心したのか、クラウスは、胸の中に溜まった息を深く吐いた。マーオを抱き上げ、クラウスはのそりと体を起こす。夢を見ないほど熟睡していたはずなのに、体にはまだだるさが残っていた。
「本当にぐっすりだったのね」
「ぼく、フルダのベッドで寝ちゃったの……? ごめん、フルダ、どこで寝たの?」
申し訳ないようにクラウスはベッドからおりて、フルダに聞いた。
「え、一緒に寝たわ」
「よかったの!?」
「そんなに驚くことなの? 私は、べつに……、ほら、お昼できたから、あったかいうちに食べましょ!」
クラウスが顔を真っ赤にしているのを見て、急に恥ずかしくなったフルダはせかせかとリビングに戻った。マーオも喉が渇いたのか、フルダの後を追っていく。
(心配、してくれてるんだよな、フルダ……)
部屋にひとり残され、ベッドに残った二人と一匹のぬくもりを感じながら、クラウスはそう思った。
フルダは優しい。優しい以上に、何かあるような気がするのだが、クラウスにはそれを言い表すことができなかった。
もやもやとしながらリビングに向かうと、既にローレンとフルダは食事をはじめていた。
「おはようございます、ローレンさん」
挨拶をして、クラウスも席について、フォークを持った。食欲は大いにあるのに、なんだか手が重たい。フォークも重たく感じて、クラウスは自分の手を見つめた。
「ん? 少年、どこか体調が悪いのかい?」
「いえ……、なんでも……。いただきます」
重たい手を動かし、クラウスはウインナーを口に運んだ。むしょうにお腹がすいて、よく噛まずに、飲むようにして食べる。その様子を見て、ローレンは「そうか」と言った。
もともとクラウスはよく食べるほうだった。ホームで出せる量はいつも決まっているのだが、もし余りが出ればそれはクラウスが全て食べてしまっていた。
しかし、今のクラウスの食べ方は、いつもの様子とは違った。ローレンは疑問に感じていないようだが、少なくともフルダにはそう感じたのだ。
鍋に残ったスープを飲み干し、クラウスは再び自室に戻ってしまった。
フルダが部屋を覗けば、クラウスは再び布団の中に戻っていた。
「クラウス、体調悪いの? やっぱり」
「眠い……、すごく、眠い……。それに、だるい……。ねえ、フルダ。また起こしてくれる?」
「分かった。また、夜に……。でもクラウス、今日は休んだほうがいいわ。休みましょうよ。私も一緒にいてあげるから」
「うん」
マーオを抱きしめ、クラウスはまた、眠りに入る。
やはり、夢は見なかった。
しかし、クラウスは闇をずっと見ていた。いや、夢は見ているのかもしれない。自分は、どこかにいた。
(これ、ぼくが知ってる、本当の夜だ――)
そして、響く、あの歌。
いつか帰る。
また会いましょう。
言葉が、闇の中に響く。クラウスは、じっと、その歌を聴いていた。
(夜の国へ、帰るんだ、ぼく――、ぼく、ぼくのお母さんに――)
そこで、クラウスははっと目を覚ます。
気持ち悪い汗をかいていて、クラウスはべっとりとした額を手で拭いた。
マーオがぺろりと頬を舐める。
「ありがとう、マーオ……。ねえ、マーオ。ぼく、夜の夢を見たよ。なんでか分からないけど、あれは、あの歌は、ぼくのお母さんの歌だと思ったんだ……」
自覚する。自分が夜の住民であることを。自分の中にある”夜”を感じる。確かに、自分の中には”本当の夜”があった。それはまだ、眠りの時にしか感じることができないが。
しかし、クラウスは苦しかった。
「なんで、ぼく、ここにいるんだろう。ぼく、なんでここにきたんだろう。マーオ、あのね、なんとなくだけど、ぼくは、取り替えられたんじゃないと思うんだよ。なんでだろうね」
マーオはクラウスの頬を舐め終え、ベッドから下りる。がりがりとドアを爪でひっかくと、ドアが開いた。
「クラウス。自分で起きたの?」
フルダが顔を見せ、クラウスに声をかけた。
「うん。フルダ、ありがとう。たぶん、もう大丈夫。なんかすっきりしたよ」
窓の外を見ると、もう日が暮れかけていた。リビングから、夜に向けて準備している夜警たちの声が聞こえる。今日の巡回の打ち合わせをしているのだろう。
ベッドから出て、リビングに向かおうとすると、ドアのところでフルダに遮られてしまった。
「でも、今日は休みましょう。お願い、私が、心配なの」
「大丈夫だよ? 一日寝てたし」
「お願い」
フルダはクラウスに懇願した。これ以上、クラウスのしんどそうな姿は見たくなかったのだ。夜の国へ行った帰りは、いつもだるそうで、いつも眠そうで、それが不安だった。
フルダがこのように言うのなら、休んだほうがいいのだろうか。クラウスはそう思って「分かった」と頷いた。
久しぶりの休日だった。夜に街へ出ないと、クラウスはそわそわとする。
夜警たちがいなくなったリビングで、暖炉の火をゆっくりとみる。ゲルダがいれば話し相手にもなったが、そのゲルダはもうホームにはいない。
(ゲルダさんのあの感じ、なんか、ぼく、知ってるんだよなあ。故郷に似た人がいたのかなあ)
抱きしめた時に感じたなつかしさ。夢に出てきそうな感じがする。
フルダの事務作業が大変そうだったので、クラウスも手伝うことにした。仕事を待つ昼の間、フルダに仕込まれたので、書類の仕分けくらいはできるようにはなっていた。
「何もないといいね」
角笛が鳴れば、ホームにも聞こえてくるだろう。そうなったら、クラウスはすぐにでも出て行くつもりだった。
「そうね。でもティルって、なんでもあるから、何かはあるのよね……」
クラウスが仕分けた書類をとんとんとフルダがまとめた時だった。
どこかから角笛の音が響き、ホームまで届く。近いようだ。びりびりとした振動をクラウスは感じた。
「あ、痛い……!」
クラウスは、咄嗟に耳をふさいで、机に伏せてしまった。フルダは驚いて、クラウスを呼んだ。
「クラウス? どうしたの?」
「音が、痛い……! 耳が……!」
耳だけではない。
振動に当たる全身が痛い。頭の奥まで音が響き、頭を割るような痛みを感じ、クラウスはバランスを崩して床に倒れてしまった。
「クラウス!?」
今まで角笛の音を聞いてもなんともなかったのに、なぜ。フルダははっとして、壁に立てかけてあるカンテラを見た。クラウスのカンテラには、火がついていない。
いけない、とフルダは急いでクラウスのカンテラを手にとったが、手遅れだった。
「起き上がれ、夜、ぼくを守る夜、ぼくを包んで」
無意識のうちにクラウスがまじない歌を紡ぐと、暖炉の火によって作られたクラウスの影が、むくりと起き上がり、部屋を包んでしまった。
静寂が訪れる。ホームのリビングが、ティルから切り離されたかのような静寂だった。
「う、うう……」
胃から込み上げてくる気持ち悪さがクラウスを襲う。吐いてしまいそうだ。角笛を吹かれたら、夜の国の住民はこうなってしまうのか。クラウスは頭を抱えながら、闇の中で蹲った。
このまま、いつまでも、ここにいたい。そう思えた。
「クラウス、大丈夫……?」
フルダがカンテラを持ってクラウスの背中に手をそえると、クラウスはぴくりと震えた。
「フルダ、カンテラを、ともさないで……」
光を見たくなかった。
角笛の振動で、節々が痛い。体の中が痛い感じがした。動きたくなかった。
(クラウス、自分で、夜を作っちゃったんだわ……、いいえ、クラウスはもともと、夜を持ってたんだわ……)
ゲルダの約束を、守れなかった。夜の国ではないから大丈夫だと無意識に思ってしまっていたのだ。
もし、無理にでもクラウスにカンテラを持たせて街へ出かけさせていたら、こうはならなかったのだろうか。
クラウスを守りたかったのに。フルダは酷い後悔で涙が出そうだった。
「ごめんなさい、ごめんなさいクラウス、私……あなたを、夜から守れなかった」
痛みに震えているクラウスに、それ以上、かける言葉がなかった。
クラウスを抱きしめて、フルダは、何度もごめんなさい、と謝る。クラウスはフルダに、何も言わなかった。ただ痛みに震え、じっと耐えていた。
「これがクラウスの夜なの……?」
「ぼくの、夜……? でも、ここは本当の夜じゃないよ……、帰りたい、体が、痛いんだ」
「どこへ?」
フルダが聞くと、クラウスは震えながら、ぽつりと言葉を紡いだ。
「いつか帰る、本当の夜……、ぼくの故郷、夜の国……。帰ろう、お母さんの場所へ……」
クラウスが言葉を紡ぎ終わると、闇の中に星がきらめく道が開いた。クラウスのまじない歌で、夜の国に繋がる、新しい道が開いたのだ。
「ごめん、フルダ。ぼく、行きたい」
クラウスは痛みに耐えながら立ち上がり、道の中へと足を入れた。
その時、闇の帳にマーオが飛び込んでくる。
「マーオ!」
フルダがマーオの名を呼んだが、マーオは振り向きもせず、クラウスを追って、マーオも闇の中へと入っていってしまった。
どうしよう、フルダは考えた。
闇の中で考え、そしてフルダも立ち上がった。
「カンテラを、持って行かなきゃ……」
スカートのポケットの中には、携帯用の火打石を入れた巾着袋が入っている。今のクラウスは光を拒んだが、しかし、昼に帰るには必要な気がしたのだ。
怖いと思った。カンテラの明かりのない暗闇の中を歩くのは、フルダには恐ろしかった。
しかし、行かなければ、また失ってしまう。それは嫌だった。
「クラウス、待って、行くわ、私も行く!」
フルダが夜へ続く道へ入ると、リビングを覆っていた闇もクラウスの元へ戻ろうと道の中へと入った。
暖炉の明かりを取り戻したホームのリビングには、そして、誰もいなくなった。
「静かだな。誰もいないのか?」
静かなのに、なぜか窓からは明かりが見える。アイヴィンは不思議に思った。
今日はてっきり夜の国で夜のフルダと夜のクラウスでも探すのかと思って森で待っていたのだが、二人がいつまでたっても門に来ないので、アイヴィンはしびれを切らしてホームへと来たのだ。
玄関のドアを開けようとした時、アイヴィンの肩を何者かが叩いた。
「アイヴィン・バルグ。警吏だ。市庁舎まで同行願おう」
振り向くと、そこには、にたりと笑ったオーウェンが立っていたのだった。
隣には、まだぐっすりと眠っているクラウスがいる。マーオも自分たちに挟まれてすやすやと寝息と立てていた。相変わらず、猫のような犬である。そこが、犬きらいなフルダがマーオを許せる理由の一つなのだが。
「クラウス、クラウス、起きて」
揺さぶってみるが、クラウスは深い眠りにまだいるようで、ひとつも身動きをしなかった。マーオがフルダに気付いて目をさまし、クラウスの頬を舐めるが、それでも目覚めなかった。
「マーオ、私、お昼作るから、もう少しクラウスを見ててくれる?」
人の言葉を解しているのだろうか。マーオの背中を撫でてやると、マーオはクラウスの顔に乗って頬を前足で踏み始めた。それが少しだけ面白くて、フルダはふふ、と笑いながら着替え、部屋へと出る。
ローレンが既にスープの具材を切っていたので、沸いた湯の中にそれを入れて、味付けをする。小さなウインナーをいくつか焼き、プレートに盛る。野菜を添えて、三人分の昼食を用意する。
クラウスは食事が大好きだから、きっと匂いに気付いて起きてくれるだろう。フルダの考えは、的中した。自分の部屋へと戻り、部屋の中にスープとソーセージの香りを漂わせ、マーオに踏まれ続けていたクラウスを呼ぶと、ぱちりと目を覚ました。
「あ、おはよう、フルダ……、よかった、起きれた……」
安心したのか、クラウスは、胸の中に溜まった息を深く吐いた。マーオを抱き上げ、クラウスはのそりと体を起こす。夢を見ないほど熟睡していたはずなのに、体にはまだだるさが残っていた。
「本当にぐっすりだったのね」
「ぼく、フルダのベッドで寝ちゃったの……? ごめん、フルダ、どこで寝たの?」
申し訳ないようにクラウスはベッドからおりて、フルダに聞いた。
「え、一緒に寝たわ」
「よかったの!?」
「そんなに驚くことなの? 私は、べつに……、ほら、お昼できたから、あったかいうちに食べましょ!」
クラウスが顔を真っ赤にしているのを見て、急に恥ずかしくなったフルダはせかせかとリビングに戻った。マーオも喉が渇いたのか、フルダの後を追っていく。
(心配、してくれてるんだよな、フルダ……)
部屋にひとり残され、ベッドに残った二人と一匹のぬくもりを感じながら、クラウスはそう思った。
フルダは優しい。優しい以上に、何かあるような気がするのだが、クラウスにはそれを言い表すことができなかった。
もやもやとしながらリビングに向かうと、既にローレンとフルダは食事をはじめていた。
「おはようございます、ローレンさん」
挨拶をして、クラウスも席について、フォークを持った。食欲は大いにあるのに、なんだか手が重たい。フォークも重たく感じて、クラウスは自分の手を見つめた。
「ん? 少年、どこか体調が悪いのかい?」
「いえ……、なんでも……。いただきます」
重たい手を動かし、クラウスはウインナーを口に運んだ。むしょうにお腹がすいて、よく噛まずに、飲むようにして食べる。その様子を見て、ローレンは「そうか」と言った。
もともとクラウスはよく食べるほうだった。ホームで出せる量はいつも決まっているのだが、もし余りが出ればそれはクラウスが全て食べてしまっていた。
しかし、今のクラウスの食べ方は、いつもの様子とは違った。ローレンは疑問に感じていないようだが、少なくともフルダにはそう感じたのだ。
鍋に残ったスープを飲み干し、クラウスは再び自室に戻ってしまった。
フルダが部屋を覗けば、クラウスは再び布団の中に戻っていた。
「クラウス、体調悪いの? やっぱり」
「眠い……、すごく、眠い……。それに、だるい……。ねえ、フルダ。また起こしてくれる?」
「分かった。また、夜に……。でもクラウス、今日は休んだほうがいいわ。休みましょうよ。私も一緒にいてあげるから」
「うん」
マーオを抱きしめ、クラウスはまた、眠りに入る。
やはり、夢は見なかった。
しかし、クラウスは闇をずっと見ていた。いや、夢は見ているのかもしれない。自分は、どこかにいた。
(これ、ぼくが知ってる、本当の夜だ――)
そして、響く、あの歌。
いつか帰る。
また会いましょう。
言葉が、闇の中に響く。クラウスは、じっと、その歌を聴いていた。
(夜の国へ、帰るんだ、ぼく――、ぼく、ぼくのお母さんに――)
そこで、クラウスははっと目を覚ます。
気持ち悪い汗をかいていて、クラウスはべっとりとした額を手で拭いた。
マーオがぺろりと頬を舐める。
「ありがとう、マーオ……。ねえ、マーオ。ぼく、夜の夢を見たよ。なんでか分からないけど、あれは、あの歌は、ぼくのお母さんの歌だと思ったんだ……」
自覚する。自分が夜の住民であることを。自分の中にある”夜”を感じる。確かに、自分の中には”本当の夜”があった。それはまだ、眠りの時にしか感じることができないが。
しかし、クラウスは苦しかった。
「なんで、ぼく、ここにいるんだろう。ぼく、なんでここにきたんだろう。マーオ、あのね、なんとなくだけど、ぼくは、取り替えられたんじゃないと思うんだよ。なんでだろうね」
マーオはクラウスの頬を舐め終え、ベッドから下りる。がりがりとドアを爪でひっかくと、ドアが開いた。
「クラウス。自分で起きたの?」
フルダが顔を見せ、クラウスに声をかけた。
「うん。フルダ、ありがとう。たぶん、もう大丈夫。なんかすっきりしたよ」
窓の外を見ると、もう日が暮れかけていた。リビングから、夜に向けて準備している夜警たちの声が聞こえる。今日の巡回の打ち合わせをしているのだろう。
ベッドから出て、リビングに向かおうとすると、ドアのところでフルダに遮られてしまった。
「でも、今日は休みましょう。お願い、私が、心配なの」
「大丈夫だよ? 一日寝てたし」
「お願い」
フルダはクラウスに懇願した。これ以上、クラウスのしんどそうな姿は見たくなかったのだ。夜の国へ行った帰りは、いつもだるそうで、いつも眠そうで、それが不安だった。
フルダがこのように言うのなら、休んだほうがいいのだろうか。クラウスはそう思って「分かった」と頷いた。
久しぶりの休日だった。夜に街へ出ないと、クラウスはそわそわとする。
夜警たちがいなくなったリビングで、暖炉の火をゆっくりとみる。ゲルダがいれば話し相手にもなったが、そのゲルダはもうホームにはいない。
(ゲルダさんのあの感じ、なんか、ぼく、知ってるんだよなあ。故郷に似た人がいたのかなあ)
抱きしめた時に感じたなつかしさ。夢に出てきそうな感じがする。
フルダの事務作業が大変そうだったので、クラウスも手伝うことにした。仕事を待つ昼の間、フルダに仕込まれたので、書類の仕分けくらいはできるようにはなっていた。
「何もないといいね」
角笛が鳴れば、ホームにも聞こえてくるだろう。そうなったら、クラウスはすぐにでも出て行くつもりだった。
「そうね。でもティルって、なんでもあるから、何かはあるのよね……」
クラウスが仕分けた書類をとんとんとフルダがまとめた時だった。
どこかから角笛の音が響き、ホームまで届く。近いようだ。びりびりとした振動をクラウスは感じた。
「あ、痛い……!」
クラウスは、咄嗟に耳をふさいで、机に伏せてしまった。フルダは驚いて、クラウスを呼んだ。
「クラウス? どうしたの?」
「音が、痛い……! 耳が……!」
耳だけではない。
振動に当たる全身が痛い。頭の奥まで音が響き、頭を割るような痛みを感じ、クラウスはバランスを崩して床に倒れてしまった。
「クラウス!?」
今まで角笛の音を聞いてもなんともなかったのに、なぜ。フルダははっとして、壁に立てかけてあるカンテラを見た。クラウスのカンテラには、火がついていない。
いけない、とフルダは急いでクラウスのカンテラを手にとったが、手遅れだった。
「起き上がれ、夜、ぼくを守る夜、ぼくを包んで」
無意識のうちにクラウスがまじない歌を紡ぐと、暖炉の火によって作られたクラウスの影が、むくりと起き上がり、部屋を包んでしまった。
静寂が訪れる。ホームのリビングが、ティルから切り離されたかのような静寂だった。
「う、うう……」
胃から込み上げてくる気持ち悪さがクラウスを襲う。吐いてしまいそうだ。角笛を吹かれたら、夜の国の住民はこうなってしまうのか。クラウスは頭を抱えながら、闇の中で蹲った。
このまま、いつまでも、ここにいたい。そう思えた。
「クラウス、大丈夫……?」
フルダがカンテラを持ってクラウスの背中に手をそえると、クラウスはぴくりと震えた。
「フルダ、カンテラを、ともさないで……」
光を見たくなかった。
角笛の振動で、節々が痛い。体の中が痛い感じがした。動きたくなかった。
(クラウス、自分で、夜を作っちゃったんだわ……、いいえ、クラウスはもともと、夜を持ってたんだわ……)
ゲルダの約束を、守れなかった。夜の国ではないから大丈夫だと無意識に思ってしまっていたのだ。
もし、無理にでもクラウスにカンテラを持たせて街へ出かけさせていたら、こうはならなかったのだろうか。
クラウスを守りたかったのに。フルダは酷い後悔で涙が出そうだった。
「ごめんなさい、ごめんなさいクラウス、私……あなたを、夜から守れなかった」
痛みに震えているクラウスに、それ以上、かける言葉がなかった。
クラウスを抱きしめて、フルダは、何度もごめんなさい、と謝る。クラウスはフルダに、何も言わなかった。ただ痛みに震え、じっと耐えていた。
「これがクラウスの夜なの……?」
「ぼくの、夜……? でも、ここは本当の夜じゃないよ……、帰りたい、体が、痛いんだ」
「どこへ?」
フルダが聞くと、クラウスは震えながら、ぽつりと言葉を紡いだ。
「いつか帰る、本当の夜……、ぼくの故郷、夜の国……。帰ろう、お母さんの場所へ……」
クラウスが言葉を紡ぎ終わると、闇の中に星がきらめく道が開いた。クラウスのまじない歌で、夜の国に繋がる、新しい道が開いたのだ。
「ごめん、フルダ。ぼく、行きたい」
クラウスは痛みに耐えながら立ち上がり、道の中へと足を入れた。
その時、闇の帳にマーオが飛び込んでくる。
「マーオ!」
フルダがマーオの名を呼んだが、マーオは振り向きもせず、クラウスを追って、マーオも闇の中へと入っていってしまった。
どうしよう、フルダは考えた。
闇の中で考え、そしてフルダも立ち上がった。
「カンテラを、持って行かなきゃ……」
スカートのポケットの中には、携帯用の火打石を入れた巾着袋が入っている。今のクラウスは光を拒んだが、しかし、昼に帰るには必要な気がしたのだ。
怖いと思った。カンテラの明かりのない暗闇の中を歩くのは、フルダには恐ろしかった。
しかし、行かなければ、また失ってしまう。それは嫌だった。
「クラウス、待って、行くわ、私も行く!」
フルダが夜へ続く道へ入ると、リビングを覆っていた闇もクラウスの元へ戻ろうと道の中へと入った。
暖炉の明かりを取り戻したホームのリビングには、そして、誰もいなくなった。
「静かだな。誰もいないのか?」
静かなのに、なぜか窓からは明かりが見える。アイヴィンは不思議に思った。
今日はてっきり夜の国で夜のフルダと夜のクラウスでも探すのかと思って森で待っていたのだが、二人がいつまでたっても門に来ないので、アイヴィンはしびれを切らしてホームへと来たのだ。
玄関のドアを開けようとした時、アイヴィンの肩を何者かが叩いた。
「アイヴィン・バルグ。警吏だ。市庁舎まで同行願おう」
振り向くと、そこには、にたりと笑ったオーウェンが立っていたのだった。