1章
ローレンが案内したのは、夜警の拠点ともいえる二階建ての小さな家だった。一階は誰もいないようで、明かりがまったくついていない。暗い中カンテラを頼りに二階へ上がると、リビングが広がっていた。大きなダイニングテーブルと、たくさんの椅子がある。
「そこの椅子にでもかけていてくれ。今、手当てができる者を呼んでくるから。あーあ、こりゃ酷いな、痣になってる」
言われるまま、クラウスは椅子に腰かけた。マーオは静かにクラウスの足もとに座る。
ローレンはクラウスの顔の傷を確認すると、寝室と思われる部屋へと声をかけた。
「おい、フルダはいるか? 寝てしまったかな」
「いいえ、起きてます、団長。何か」
部屋から出てきたのは、眼鏡をかけた小柄な少女だった。クラウスの黒髪とは違い、輝く金の色をした髪が目立つ。肩で綺麗に切りそろえられた金髪が幼げに揺れた。ローレンと同じカーマイン色をしたベストを着ている。ただ違うのは、はいているのはスカートだということだけだった。彼女もまた、夜警の一人なのだろうか。
「新しい市民だ。ひどい怪我をしているから、手当てをしてやってほしい」
ローレンに“新しい市民”と言われ、クラウスはぺこりと頭を下げた。
フルダはクラウスを一瞥すると、すぐに暖炉の脇に置いてある薬箱を持ってきた。
「じゃ、よろしくな。俺はまだ番をするから。朝になったら戻る」
「はい、いってらっしゃい」
フルダがそう声をかけると、ローレンは再び夜の街へと出ていった。
フルダはそれ以上何も言わず、てきぱきと薬箱の中から薬草を出し、それを揉んで出てきた汁をクラウスの頬の傷にこすりつけた。
「いだっ……」
「当たり前でしょ、切り傷なんだから……、見たところ、あなたは、今晩この街に来てすぐに、乱暴な者に何度も殴られた。そこで隊長があなたを助けて、ここまで連れてきた――と私は判断したんだけど、それで合ってるかしら」
「そうだけど」
クラウスもローレンも何も言っていないのにずばり言い当てられ、クラウスは驚いてしまった。
「どうして分かるの」
「――左頬に殴られたような青い痣、右頬にはなにかで擦ったような傷、あなたは左頬を殴られたあと、その勢いで倒れた。あなたの服は農夫がよく着るようなチュニック。よれよれで皺も多いことから、あなたは自分のことすら世話ができない貧しい身分だということも分かるわ。つまり、あなたは貧しいところからここへ来て、そして何者かに強く殴られた。そういうことでしょ。はい、終わり。おやすみなさい」
ぶすりとしながら、フルダは薬箱を元あった場所に戻し、寝室に戻ろうとした。
「ちょ、ちょっと待って、ぼくはどこで寝たらいい?」
「そこ」
フルダが指をさしたのは、クラウスの座っている椅子だった。
ここで一晩過ごせ、ということらしい。
「えっと」
「だって、犬がいるじゃない。私、それ、だめなの。私の部屋に入ったら杖で一刺しだからね」
フルダはそう言って、寝室へと戻っていってしまった。
この家には、どうやら今はフルダしかいないらしい。他に人がいるような気配はしなかった。フルダにそう言われたのなら、今はそうするしかないと思って、クラウスは椅子を暖炉の前の持っていき、一息ついた。
(ローレンさんって、団長だったんだ……)
ぐう、と鳴るお腹を押さえながらクラウスは瞼を落とす。
彼が団長なのはすぐに納得できた。
(かっこよかったし、優しいし。ここに来ればなんでもあるって、言っていたし……、この街にちょっと期待していいのかな……)
痩せこけた農地で恵みは何ひとつ取れず、けれど領主にないものを出せと言われ続け、人々が逃げ始めた村。クラウスもまた、そのうちの一人だった。朝になれば、自分は何か食べることはできるのだろうか。
食べていくには、働かなければいけない。ここには、自分が働ける場所はあるのだろうか。
これからのことは不安だが、しかし暖炉の火の温かさに安心し、クラウスはすぐに夢の中へと入っていった。
「おいおい、ここで寝てたのか、起きろ、少年」
肩を揺すられ、クラウスは飛び起きた。
椅子に座っていたはずなのに、床に落ちて寝てしまっていたらしい。落ちたのに起きなかった自分にまず驚いた。ちゅんちゅんっと外から鳥のさえずりが聞こえてくる。あっという間に朝になっていたことにも驚く。
「あ、ローレンさん、あの、一晩ありがとうございました。」
どうやらローレンは勤務を終えて帰ってきたらしい。クラウスは床に正座をして、ぺこりと頭を下げた。
もうこれ以上お世話になるのも申し訳ないなと思い、クラウスはすぐに立ち上がったが、ローレンはクラウスの肩に手を置いた。
「まあ、朝飯だけでも。君、金ないんだろう?」
答えたのは、ぐうっと鳴る腹だった。
「腹は正直でいいな。ははは、もうすぐ今日の勤務を終えた者たちが帰ってくるから、一緒に食べればいい。フルダの飯はうまいぞ」
「へんなことを言わないでください。今日もパンとスープだけですよ」
机にたくさん並べられた木皿にフルダはてきぱきとパンを置いていき、器にスープを盛っていく。皿の数を見ると、ざっと十人分はあるだろうか。
「もう、人数分しか用意してないのに……。先に言っておいてください。うちもあまりお金ないんですから……」
「はは、すまんな。まあ、いいじゃないか。パンと水だけでもいいから」
フルダはため息をついて、キッチンへと戻っていってしまった。
「い、いいんですか? ぼく、こんなにお世話になって」
「夜警の仕事は、罪人を捕らえることが目的ではなく、市民に安心を与えることだ。君はまず、食から安心を得る必要がある。そうだろう? そうなら、そこまで俺はしてやりたいと思う」
にっとローレンは笑い、帽子を壁のフックにかけ、椅子に座る。クラウスも招かれるまま机の隅に座った
ぞろぞろと仕事を終えた夜警たちが帰ってくる。どれも男たちばかりだった。疲れ切った顔をしている。
「お勤めご苦労だった。しっかり食べて、昼の仕事に備えてほしい」
食卓を囲み、食事の祈祷をする。クラウスも共に神に祈りを捧げた。フルダがクラウスの分の皿を持ってきて、隣に座った。
「あなたはパンだけよ」
小声で言われ、クラウスは黙って頷いた。フルダはクラウスの足元に座っているマーオを見てぎょっとしたが、それ以上何も言わず、スープをすすった。
男たちは昨晩の出来事を語らいながら、パンをかじっている。フルダもその話に耳を傾けていた。
クラウスはそんな中、パンを小さくちぎって、床に落とした。マーオが静かにパン屑を舐めた。小さな盃に入った水も、少しだけわけてやった。マーオはそれで満足したのか、大きなあくびをして食事を終えた。
そして朝食を終え、夜警たちは外套と帽子を壁のフックにかけ、家から出ていってしまった。この家に残ったのは、結局、ローレンとフルダ、そしてクラウスとなってしまった。
「みんなここに住んでるんじゃないの?」
「そうよ。だって、私たち、自警団だもの。私と団長はここに住んでいるけれ、他のみんなは、それぞれ家を持っているし、本来の仕事は別にあるわ。仕事がない人がとりあえずここで働いて食いつないでることもあるけれどね。自分を自分で守るためにやっているのよ。自分のことは自分で守らなきゃ、生きていけない街でもあるの、ここは」
食器の片付けに入ったフルダは、手を止めることなくそう説明した。
「そっか」
机の上を布巾で吹いているフルダの手が、ぱたりと止まった。
「ここを“ホーム”と団長は呼んでいて、そして団長は困っている人に食事と寝る場所を与えていて、たまたまあなたはそれを利用できた。それ以上、何か説明はいる?」
「う、ううん。ありがとう、親切に」
「いいえ」
机を拭き終えて、フルダは黙ってキッチンへと戻っていった。
「すまないな、フルダはああいう子なんだ、許してくれ」
綺麗になった机の上にカンテラを置き、残ったロウを削りはじめたローレンが笑いながら言った。
「さて、少年はこれからどうするつもりだい? この街に来たばかりなんだよね」
「……、あの、ぼくは、ここで働くことはできますか?」
「できるよ。誰だって、何かを守りたいと思うならば、ここで働くことはできる。それに見合った報酬ももちろん出す。けれど、君は、何を守るんだい?」
ロウを削りだす手を止めないまま、ローレンは静かに言った。
「ある者は、自分たちのギルドを守りたいという。ある者は自分の家を守りたいという。ここに来たばかりの君は、夜警になって何を守るつもりだい?」
クラウスは、しばらく、黙った。
そして、言った。
「自分の生きる場所を見つけるためにここに来ました。ティルハーヴェンにはなんでもあると聞いて、ここに来ました。もしここで生きていられるのなら、自分が生きる場所を自分で守りたいと、思ったんです。もう、ぼくは、生きる場所を失いたくないんです。守れないまま、逃げるのは、ぼくは、もう嫌なんです」
瞼の裏にあるのは、枯れた土地。
そして、そこから、逃げ出す自分の背中。
枯れた場所に置いてきてしまったもの。
クラウスは、ローレンの持つカンテラを見た。
「この街がぼくの生きていられる場所なら、この街を守ります」
言いながら、なんて大きなことを言っているのだろうとクラウスは思った。でも、これ以上、後悔はしたくないと思った。
「分かった。生きるために君は夜警を選ぶんだね。そういうことなら、俺は君を歓迎しよう、クラウス君。何も持たない君が、ここで得るべきものを得られるように、協力しよう」
カンテラからすべてのロウを出し終えたローレンは、綺麗になったばかりのカンテラをクラウスに手渡した。そして、そのカンテラを下げる杖も渡した。
「おいで、食の次は、住だ。君の部屋は、そうだなあ、ここを使うといい。フルダの隣の部屋だ」
殺風景な部屋だった。小さなベッドと、窓側に備え付けられた机しかなかった。
「好きに使うといい。ここはもう、君の“ホーム”なのだから。掃除は自分でするように」
革靴を鳴らしながら、ローレンはホームの説明に歩く。
一階はどうやら事務室のようで、たくさんの書類や物品で溢れていた。壁にはこの街の地図が貼られていた。そして、一角には毎晩使う蝋燭の入った箱が大量に積まれている。一晩もつように、ろうそくは大きめに作られていた。
「職人から警備を頼まれることが多くてね、その謝礼として様々なものをもらってるんだよ」
「信頼されてるんですね」
クラウスがそう言うと、ローレンはにかっと笑った。
部屋を一周して、リビングへとまた戻ってくると、机の上に畳まれた服がちょこんと置いてあった。
「おや、フルダ、話を聞いていたようだね」
白いシャツに、カーマイン色のベストだった。それをローレンはクラウスに手渡した。
「さ、住の次は衣だ。俺たち夜警の制服。外套と帽子はその壁にかかっているやつを一つ取ってくれ」
「ありがとうございます、ローレンさん」
新しい服に腕を通すと、気持ちがすっと変わった。
(ぼく、これから、ここで働いて、ここで生きるんだ)
ろうそくに火をともし、街を歩く。
ローレンのように、この街を守れる人になりたい。そういう気持ちが膨らむ。
「マーオにも、犬用の制服を用意しないといけないね。ようやくうちに番犬がきてくれたよ」
ローレンがそう言うと、マーオはのんびりと鳴いた。
「さて、この街のことを何も知らないと思うんだけど、今晩から見回りをしてもらうよ。もし何かあれば、これを吹くように」
渡されたのは、大きな角笛だった。どこまでも音が届きそうだ。肩から下げられるように、紐がつけられていた。
「夜まではここでゆっくりと休んで、その痛んだ体を早く回復させてくれ。それじゃ、俺も眠りにつくよ」
おやすみ、と、ローレンは寝室へと戻っていき、クラウスとマーオがリビングに残された。
(……、これ、どうやって吹くんだろう……)
試しに吹いてみようかと思ったが、一晩中起きていたらしいフルダや、これから眠りにつくローレンを起こしてはいけないと思い、控えた。
「ま、音、出るよね」
夜警のみんなが吹けるなら、自分だって吹けるはず。そう思うことにした。
夜まで時間はある。
椅子から落ちて床で寝ていたせいか、体の節々が痛い。ローレンに言われた通り、今は休んでおこうと与えられたばかりのベッドにクラウスは潜り込み、夜を待つことにしたのだった。
「そこの椅子にでもかけていてくれ。今、手当てができる者を呼んでくるから。あーあ、こりゃ酷いな、痣になってる」
言われるまま、クラウスは椅子に腰かけた。マーオは静かにクラウスの足もとに座る。
ローレンはクラウスの顔の傷を確認すると、寝室と思われる部屋へと声をかけた。
「おい、フルダはいるか? 寝てしまったかな」
「いいえ、起きてます、団長。何か」
部屋から出てきたのは、眼鏡をかけた小柄な少女だった。クラウスの黒髪とは違い、輝く金の色をした髪が目立つ。肩で綺麗に切りそろえられた金髪が幼げに揺れた。ローレンと同じカーマイン色をしたベストを着ている。ただ違うのは、はいているのはスカートだということだけだった。彼女もまた、夜警の一人なのだろうか。
「新しい市民だ。ひどい怪我をしているから、手当てをしてやってほしい」
ローレンに“新しい市民”と言われ、クラウスはぺこりと頭を下げた。
フルダはクラウスを一瞥すると、すぐに暖炉の脇に置いてある薬箱を持ってきた。
「じゃ、よろしくな。俺はまだ番をするから。朝になったら戻る」
「はい、いってらっしゃい」
フルダがそう声をかけると、ローレンは再び夜の街へと出ていった。
フルダはそれ以上何も言わず、てきぱきと薬箱の中から薬草を出し、それを揉んで出てきた汁をクラウスの頬の傷にこすりつけた。
「いだっ……」
「当たり前でしょ、切り傷なんだから……、見たところ、あなたは、今晩この街に来てすぐに、乱暴な者に何度も殴られた。そこで隊長があなたを助けて、ここまで連れてきた――と私は判断したんだけど、それで合ってるかしら」
「そうだけど」
クラウスもローレンも何も言っていないのにずばり言い当てられ、クラウスは驚いてしまった。
「どうして分かるの」
「――左頬に殴られたような青い痣、右頬にはなにかで擦ったような傷、あなたは左頬を殴られたあと、その勢いで倒れた。あなたの服は農夫がよく着るようなチュニック。よれよれで皺も多いことから、あなたは自分のことすら世話ができない貧しい身分だということも分かるわ。つまり、あなたは貧しいところからここへ来て、そして何者かに強く殴られた。そういうことでしょ。はい、終わり。おやすみなさい」
ぶすりとしながら、フルダは薬箱を元あった場所に戻し、寝室に戻ろうとした。
「ちょ、ちょっと待って、ぼくはどこで寝たらいい?」
「そこ」
フルダが指をさしたのは、クラウスの座っている椅子だった。
ここで一晩過ごせ、ということらしい。
「えっと」
「だって、犬がいるじゃない。私、それ、だめなの。私の部屋に入ったら杖で一刺しだからね」
フルダはそう言って、寝室へと戻っていってしまった。
この家には、どうやら今はフルダしかいないらしい。他に人がいるような気配はしなかった。フルダにそう言われたのなら、今はそうするしかないと思って、クラウスは椅子を暖炉の前の持っていき、一息ついた。
(ローレンさんって、団長だったんだ……)
ぐう、と鳴るお腹を押さえながらクラウスは瞼を落とす。
彼が団長なのはすぐに納得できた。
(かっこよかったし、優しいし。ここに来ればなんでもあるって、言っていたし……、この街にちょっと期待していいのかな……)
痩せこけた農地で恵みは何ひとつ取れず、けれど領主にないものを出せと言われ続け、人々が逃げ始めた村。クラウスもまた、そのうちの一人だった。朝になれば、自分は何か食べることはできるのだろうか。
食べていくには、働かなければいけない。ここには、自分が働ける場所はあるのだろうか。
これからのことは不安だが、しかし暖炉の火の温かさに安心し、クラウスはすぐに夢の中へと入っていった。
「おいおい、ここで寝てたのか、起きろ、少年」
肩を揺すられ、クラウスは飛び起きた。
椅子に座っていたはずなのに、床に落ちて寝てしまっていたらしい。落ちたのに起きなかった自分にまず驚いた。ちゅんちゅんっと外から鳥のさえずりが聞こえてくる。あっという間に朝になっていたことにも驚く。
「あ、ローレンさん、あの、一晩ありがとうございました。」
どうやらローレンは勤務を終えて帰ってきたらしい。クラウスは床に正座をして、ぺこりと頭を下げた。
もうこれ以上お世話になるのも申し訳ないなと思い、クラウスはすぐに立ち上がったが、ローレンはクラウスの肩に手を置いた。
「まあ、朝飯だけでも。君、金ないんだろう?」
答えたのは、ぐうっと鳴る腹だった。
「腹は正直でいいな。ははは、もうすぐ今日の勤務を終えた者たちが帰ってくるから、一緒に食べればいい。フルダの飯はうまいぞ」
「へんなことを言わないでください。今日もパンとスープだけですよ」
机にたくさん並べられた木皿にフルダはてきぱきとパンを置いていき、器にスープを盛っていく。皿の数を見ると、ざっと十人分はあるだろうか。
「もう、人数分しか用意してないのに……。先に言っておいてください。うちもあまりお金ないんですから……」
「はは、すまんな。まあ、いいじゃないか。パンと水だけでもいいから」
フルダはため息をついて、キッチンへと戻っていってしまった。
「い、いいんですか? ぼく、こんなにお世話になって」
「夜警の仕事は、罪人を捕らえることが目的ではなく、市民に安心を与えることだ。君はまず、食から安心を得る必要がある。そうだろう? そうなら、そこまで俺はしてやりたいと思う」
にっとローレンは笑い、帽子を壁のフックにかけ、椅子に座る。クラウスも招かれるまま机の隅に座った
ぞろぞろと仕事を終えた夜警たちが帰ってくる。どれも男たちばかりだった。疲れ切った顔をしている。
「お勤めご苦労だった。しっかり食べて、昼の仕事に備えてほしい」
食卓を囲み、食事の祈祷をする。クラウスも共に神に祈りを捧げた。フルダがクラウスの分の皿を持ってきて、隣に座った。
「あなたはパンだけよ」
小声で言われ、クラウスは黙って頷いた。フルダはクラウスの足元に座っているマーオを見てぎょっとしたが、それ以上何も言わず、スープをすすった。
男たちは昨晩の出来事を語らいながら、パンをかじっている。フルダもその話に耳を傾けていた。
クラウスはそんな中、パンを小さくちぎって、床に落とした。マーオが静かにパン屑を舐めた。小さな盃に入った水も、少しだけわけてやった。マーオはそれで満足したのか、大きなあくびをして食事を終えた。
そして朝食を終え、夜警たちは外套と帽子を壁のフックにかけ、家から出ていってしまった。この家に残ったのは、結局、ローレンとフルダ、そしてクラウスとなってしまった。
「みんなここに住んでるんじゃないの?」
「そうよ。だって、私たち、自警団だもの。私と団長はここに住んでいるけれ、他のみんなは、それぞれ家を持っているし、本来の仕事は別にあるわ。仕事がない人がとりあえずここで働いて食いつないでることもあるけれどね。自分を自分で守るためにやっているのよ。自分のことは自分で守らなきゃ、生きていけない街でもあるの、ここは」
食器の片付けに入ったフルダは、手を止めることなくそう説明した。
「そっか」
机の上を布巾で吹いているフルダの手が、ぱたりと止まった。
「ここを“ホーム”と団長は呼んでいて、そして団長は困っている人に食事と寝る場所を与えていて、たまたまあなたはそれを利用できた。それ以上、何か説明はいる?」
「う、ううん。ありがとう、親切に」
「いいえ」
机を拭き終えて、フルダは黙ってキッチンへと戻っていった。
「すまないな、フルダはああいう子なんだ、許してくれ」
綺麗になった机の上にカンテラを置き、残ったロウを削りはじめたローレンが笑いながら言った。
「さて、少年はこれからどうするつもりだい? この街に来たばかりなんだよね」
「……、あの、ぼくは、ここで働くことはできますか?」
「できるよ。誰だって、何かを守りたいと思うならば、ここで働くことはできる。それに見合った報酬ももちろん出す。けれど、君は、何を守るんだい?」
ロウを削りだす手を止めないまま、ローレンは静かに言った。
「ある者は、自分たちのギルドを守りたいという。ある者は自分の家を守りたいという。ここに来たばかりの君は、夜警になって何を守るつもりだい?」
クラウスは、しばらく、黙った。
そして、言った。
「自分の生きる場所を見つけるためにここに来ました。ティルハーヴェンにはなんでもあると聞いて、ここに来ました。もしここで生きていられるのなら、自分が生きる場所を自分で守りたいと、思ったんです。もう、ぼくは、生きる場所を失いたくないんです。守れないまま、逃げるのは、ぼくは、もう嫌なんです」
瞼の裏にあるのは、枯れた土地。
そして、そこから、逃げ出す自分の背中。
枯れた場所に置いてきてしまったもの。
クラウスは、ローレンの持つカンテラを見た。
「この街がぼくの生きていられる場所なら、この街を守ります」
言いながら、なんて大きなことを言っているのだろうとクラウスは思った。でも、これ以上、後悔はしたくないと思った。
「分かった。生きるために君は夜警を選ぶんだね。そういうことなら、俺は君を歓迎しよう、クラウス君。何も持たない君が、ここで得るべきものを得られるように、協力しよう」
カンテラからすべてのロウを出し終えたローレンは、綺麗になったばかりのカンテラをクラウスに手渡した。そして、そのカンテラを下げる杖も渡した。
「おいで、食の次は、住だ。君の部屋は、そうだなあ、ここを使うといい。フルダの隣の部屋だ」
殺風景な部屋だった。小さなベッドと、窓側に備え付けられた机しかなかった。
「好きに使うといい。ここはもう、君の“ホーム”なのだから。掃除は自分でするように」
革靴を鳴らしながら、ローレンはホームの説明に歩く。
一階はどうやら事務室のようで、たくさんの書類や物品で溢れていた。壁にはこの街の地図が貼られていた。そして、一角には毎晩使う蝋燭の入った箱が大量に積まれている。一晩もつように、ろうそくは大きめに作られていた。
「職人から警備を頼まれることが多くてね、その謝礼として様々なものをもらってるんだよ」
「信頼されてるんですね」
クラウスがそう言うと、ローレンはにかっと笑った。
部屋を一周して、リビングへとまた戻ってくると、机の上に畳まれた服がちょこんと置いてあった。
「おや、フルダ、話を聞いていたようだね」
白いシャツに、カーマイン色のベストだった。それをローレンはクラウスに手渡した。
「さ、住の次は衣だ。俺たち夜警の制服。外套と帽子はその壁にかかっているやつを一つ取ってくれ」
「ありがとうございます、ローレンさん」
新しい服に腕を通すと、気持ちがすっと変わった。
(ぼく、これから、ここで働いて、ここで生きるんだ)
ろうそくに火をともし、街を歩く。
ローレンのように、この街を守れる人になりたい。そういう気持ちが膨らむ。
「マーオにも、犬用の制服を用意しないといけないね。ようやくうちに番犬がきてくれたよ」
ローレンがそう言うと、マーオはのんびりと鳴いた。
「さて、この街のことを何も知らないと思うんだけど、今晩から見回りをしてもらうよ。もし何かあれば、これを吹くように」
渡されたのは、大きな角笛だった。どこまでも音が届きそうだ。肩から下げられるように、紐がつけられていた。
「夜まではここでゆっくりと休んで、その痛んだ体を早く回復させてくれ。それじゃ、俺も眠りにつくよ」
おやすみ、と、ローレンは寝室へと戻っていき、クラウスとマーオがリビングに残された。
(……、これ、どうやって吹くんだろう……)
試しに吹いてみようかと思ったが、一晩中起きていたらしいフルダや、これから眠りにつくローレンを起こしてはいけないと思い、控えた。
「ま、音、出るよね」
夜警のみんなが吹けるなら、自分だって吹けるはず。そう思うことにした。
夜まで時間はある。
椅子から落ちて床で寝ていたせいか、体の節々が痛い。ローレンに言われた通り、今は休んでおこうと与えられたばかりのベッドにクラウスは潜り込み、夜を待つことにしたのだった。