3章

 しばらくすると夜警たちがぞろぞろとホームに戻り、いつも通り、仕事終わりの朝食を食べ始めた。いつものスープよりも具材が小さめに切られていることなど誰も気付くことなく、かためのパンと一緒に食べていた。ただ唯一、ローレンだけは何かに気付いたようで、ホームが静かになってから何かあったのかとフルダに聞いた。
「アイヴィンは机に伏せって寝てるし。ははあ、酒を飲んだな? 君たち、早く帰ってたみたいだし、何もないことはないだろう?」
 未だに机に伏せて眠っているアイヴィンから酒のにおいを感じたローレンは、少しだけ目を細めてフルダに聞いた。
「アイヴィンのことは知らないわ。警吏と喧嘩して飲み比べでもしてたんじゃないかしら。私たちは行き倒れてた人を見つけたから、ホームに運んだの。大人の女の人。もうすぐ起きると思うわ」
「その女の人というのは、どの部屋にいるんだい?」
 聞かれて、フルダは自分の隣の部屋にローレンを案内した。
 少しだけドアを開けて中の様子を見るが、女は未だにぐっすりと眠っていた。ローレンはその様子を見て、そっとドアを閉めた。
「かなり衰弱してるようだね。ああ、だからスープの具がいつもより柔らかくて小さかったんだ。納得いったよ。起きたら食べさせてあげて。それから、元気になるまではしばらくうちにいていいよ」
「ありがとうございます」
 ローレンは頷いて、カンテラを持って自分の寝室へと戻っていった。カンテラにこびりついたロウを落としてから寝るのだろう。
 クラウスも一度睡眠をとるためにベッドに入りはしたが、なんだか落ち着かない。足もとで丸くなって眠っていたマーオを胸に寄せて、抱きしめても、落ち着かない。
(どんな話が聞けるんだろ。何か、知ってるのかな)
 アイヴィンが期待をこめて牢から出した人物だ。何かしら手がかりは得られるだろう、という期待はあった。一刻でも早く聞きたい。だから眠れないんだとクラウスは思った。クラウスがようやく眠れたのは、時を告げる鐘を二度聞いたあとだった。
 はっとして目を覚ました時には、日は西に傾きかけていた。慌ててベッドから抜け出し、リビングへと向かった。女はもう食事を取ったのだろうか。暖炉の前に座って、体を温めていた。
「おはよう、クラウス。もう起きてるわ」
「起こしてくれればよかったのに」
「起こそうと思ったけれど、よく眠ってたから……。アイヴィンもそろそろ起こそうかしら。ローレン団長が空いてるベッドに運んでくれてたのよね」
 一室のドアをノックし、フルダはアイヴィンを起こしに部屋へと入って行った。
「少年、歌を歌ったね」
 女の人が、暖炉の火を見ながら、呟いた。クラウスは一瞬、何のことかと思ったが、あ、と気付く。
「知ってるの?」
「知ってるとも。あれはまじないだ。夜と昼をつなげる。夜と昼が会うための歌さ。君の歌声はとても響くいい声だね。地下でも聞こえたよ。歌ってしまったからには、仕方ない。まあ、その前にはもう小さな道は通じていた。すべてが少年のせいではないだろう」
 椅子から立ち上がった女は、クラウスに手を差し伸べた。
「私はゲルダ。しがないまじない師だ。魔女ではなく、魔法は使えないが、この世のまじないには詳しい。助けてくれて感謝する。君が知りたいこと、教えてあげよう。手助けくらいはできるだろう」
 クラウスはその手を握り返したが、その手が、わずかに汗ばんでいることに気付いて、すぐに手をひっこめた。
 そんなクラウスの様子を見て、ゲルダは笑った。地下で見たような、げっそりとした顔はもうそこにはなかった。目になんだか強い光があるような気がして、クラウスはゆっくりを視線をそらした。それに、大きな輪の耳飾りが揺れるのも、なんだかまぶしかった。
「少年。名は?」
「クラウス……、クラウス・リー……」
「おや、リーというのかい。だから森に道が通じたわけだ。まあ、話はそろってからにしよう。君たちも私を助けてくれてありがとう。名前を聞こうか」
 いつの間にかリビングに来ていたフルダとアイヴィンが、それぞれゲルダに名前を告げた。ゲルダもそれぞれに自己紹介をし、握手を求めた。
「マダム・ゲルダ、あなたがティルに来たというのはいつ頃ですか」
 アイヴィンがさっそく尋ねると、ゲルダは椅子に背を預けて、まったりとしながら話を始めた。
「少し前だよ。本当に少し前さ。そうだなあ、クラウスくんと同じくらいかな?」
「なんで? ぼくがここに来た時期を知ってるの?」
 うっすらと笑みを浮かべるゲルダは、耳飾りを揺らしながら笑った。
「私はこの街に来てすぐにまじないを張ったのさ。来訪者が分かるようにね。クラウスくんがこの街に来たのはそのあとすぐ。そして、夜の国から小人が来たのもそのあとすぐだった。しかし私が怪しいことをしているから警吏に取っ捕まってしまってね。まったく、この街の警吏ってのは、最悪な組織だね」
「ごもっともです、マダム。腐った組織です、あれは。まじない師は民衆に人気がありますから、噂はすぐに聞きました。あなたなら夜の国のこと、すべて知っているだろうと信じて、助けたのです。教えてください。俺が見たものと、クラウスが見たものが本当にあったものなのかどうか」
 埃に汚れた亜麻色の髪を肩からはらい、ゲルダは前のめりになって、クラウスの目を見た。
「夜の国はある。この世界を裏返しにしたような国さ。だから、本来、夜の国はどこからでも行けるはずだ。ただ、お互い、住む住民が違うからね、会わないようになっているはずなんだよ」
 フルダが、頷きながら、ゲルダの話を聞いている。そこまでは、フルダは何度も親から聞いたし、絵本でも読んだし、定番の話の筋だ。
「ただ、細い道があってね。そこからたまに、昼が夜に行ったり、夜が昼に行ったりするんだよ。君たち夜警の本来の仕事は、夜の住民を帰してやることだろう?」
「その通りよ。でも、私の家やホームを燃やしたのは」
「意図があってこちらに来たということだろうねえ。まあ、その理由は私には分からない。もともと細い道がティルには通じていたが、クラウスくんが、まじない歌を歌ってしまったせいで、こちらからも夜に行けてしまうようになったんだよ。逆に言えば、向こうからも昼に来やすくなってしまった。ああ、君のせいというわけではないよ。まじない歌はそうなるように君に”与えた”歌なのだから」
 まじない歌、という言葉も、クラウスたちは知っていた。おとぎ話にあったはずだ。それは「神から与えられた歌」であると。
 でもおかしな話だった。おとぎ話では昼と夜が出会ってしまった時に歌うものだと言っていたはずだった。なのに、逆に、昼と夜が出会ってしまったではないか。おかしい、と三人が感じているのは、ゲルダにはすぐに分かった。
「あはは、まじない歌など、この世にいくらでもあるし、いくらでも作れるんだよ。私だって歌えるさ。でも確実にクラウスくんのは夜の国のものだね……、よく響く、いいまじないだった。誰に教えてもらったんだい?」
「覚えてないんです。誰に教えてもらったか。誰に聞いたのか。歌だけじゃない。ぼく、故郷のなにもかもを忘れてる。夜の暗さと、枯れた土地以外は」
 不安そうな顔をするクラウスの肩を、ゲルダは優しく撫でた。
「不安がらなくていい。君のは、愛のある優しいまじないだった。悪いものではなかったよ。言っただろ。まじないはいくらでもある。君たちに必要なまじないは、教えてあげよう。捕まえたいんだろう? わざわざこちらに来て、火を放つ小人を」
 ゲルダの言葉に、三人は間を置かずに頷いた。
「魔法が使えない我らができる、唯一の術だ。まじないは。そして、信じることができれば、誰にでも使える便利なものだ。疑ってはいけない。疑った瞬間に、まじないはただの”ままごと”にしかならん。でも、ああ、その前に……」
 ゲルダは、べとっとした髪を掴んでこう言った。
「先に風呂に入りたい。この厄介な髪を流したいよ」


 久しぶりに銭湯なんかに来た。
 大きな湯舟に体を入れて、ゲルダが髪をすすぐのをフルダは待っていた。
(なんか、私のママに似てる……、なんでかしら)
 記憶にある母の姿をたどると、ちょうどゲルダのふんわりとしたウェーブのかかった髪にたどり着いた。両親はどちらとも金髪だったから、色こそ違うが。
 まだ昼下がりという時間で、他に客はいなかった。ゲルダの鼻歌が聞こえてくる。あれも、何かのまじないなのだろうか。
「ああ、いい湯だね」
「ここが、いちばん、大きいところですから……」
 お金もかかってしまったが。でも、たまにはいいかも、と思ってしまった。贅沢を我慢してきたからだろうか。
 隣で鼻歌を歌いながらご機嫌に湯に浸かっているゲルダを見上げる。眼鏡をかけてないと、ぼんやりとしか見えないが、その面影がやはり母に似ていた。
(大人の女の人と関わりがないからかしら)
 なぜ、と思っていると、ゲルダがフルダの視線に気付き、首をかしげた。
「まだ石鹸が残ってるかい?」
「いいえ、なんだか、あなたがママに似てて……。ごめんなさい、じろじろ見ちゃって」
「ああ」
 銭湯に来る前に、アイヴィンから一通りゲルダは話を聞いていた。どれも、フルダにそっくりな少女だったという話を。そのフルダにそっくりな少女に親を殺されたという話は、聞いていて、酷だった。
「恋しいね」
 返事はなかったが、フルダはこくりと頷いた。
「フルダにいいまじないを教えてあげよう」
 湯を手ですくって、フルダの顔を流した。
「湯は悲しみを流して、さらに心を落ち着かせるんだ。涙に乗った悲しみは、このあと、どこか遠くに流れていく。私が小さい頃はいつだって、湯の中で泣いた。布じゃだめさ。布だと、溜め込んでしまうからね。今まで、布に溜めてきただろう。帰ったら、全部洗い流すんだよ。水じゃだめだ、湯のほうが効き目があるからね」
「ごめ、ん、なさい。私、あなたに、会えて、嬉しい」
 クラウスにはもう泣かないと言ったけれど、ゲルダがそのように言ってくれるのなら、それを信じて、すべて流してしまおうとフルダは誰もいない湯舟の中で大声をあげた。
 顔を赤くして泣きじゃくる少女の肩を、ゲルダは抱き寄せた。
「私を信じてくれて嬉しいよ。フルダは賢そうな目をする子だから、信じてくれないかと思ってた」
「いい、え、いいえ、信じるって、決めたの。私、みんなを、信じるって。だから、あなたの、まじないも、信じるわ。夜の国も、小人も、全部、信じる」
 ゲルダが一番最初に教えてくれたまじないは、本当にフルダの今まであった寂しさと悲しさを流してくれたような気がした。
 のぼせる前に湯から上がり、髪を乾かすと、ゲルダの髪がふんわりと広がって、輝いていた。やっぱりそれが母親のものととてもそっくりで、フルダは懐かしい気持ちになる。でも、その中に、もう寂しさはなかった。
「ゲルダさん、あなたの布団、埃まみれだから、私のと一緒に……、いいえ、ホームにある布団全部洗いましょう」
「大仕事じゃないか。私も手伝うよ。家事は得意だから」
 帰ろう、と、ゲルダはフルダに言った。
 裾の長い、ドレスのような服を着て、ヒールを鳴らしながら歩くゲルダは、いかにもまじない師という感じだったが、堂々と歩くその姿が眩しかった。
(こういう大人の女の人に、なりたい……)
 あの時、自分も死ねばよかった。そんな思いは、胸の中からすっかり消えていた。
 帰ったら、すぐにクラウスに言おうと思った。ゲルダのまじないは、本物だと。
 

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