2章

 飛び込んだ先は、煙で満たされたロビーだった。閉館後のため明かりは一切なく、闇が広がっていた。
 クラウスは背をかがめてできるだけ煙を吸わないように煙が流れてくる方へと足を勧めた。マーオが近くにいることだけは感覚で掴めたが、それ以外は何も分からない。持っているカンテラの明かりも煙の中では役に立たなかった。
やっとの思いで火の明かりを見つけ出し、駆け寄った。どの部屋にいるのかはさっぱり分からないが、本がたくさんあるということは閲覧室なのだろう。
 まだ火が放たれて時間が経っていないのか、天井まで届きそうなほど高さがある棚から乱雑に落ちている本が無残にも燃えているだけで、消火も間に合いそうだった。ただ、あの煙のなかたくさんの水を運ぶのは難しかった。
(窓から入れてもらわないと……)
 マーオが付近のにおいから何か探っているあいだ、杖を持つ手を壁に這わせてどうにか窓を見つけ、手探りで取っ手を掴まえて勢いに任せて押し開けた。
空気の流れが変わり、煙が窓の外へ出ようとする中、クラウスはせき込みながら叫んだ。
「この中が燃えてる! まだ間に合いそう! ここからお願い!」
「よくやったクラウス、任せろ!」
 火のゆらめきを頼りに外から入れる場所を探していたのだろうか。クラウスに応えたのはアイヴィンだった。消火のために集まった人たちもバケツを持って集まってくる。
 それを見たクラウスは、マーオを先に外へ出し、自分も窓から飛び出して、アイヴィンに声をかけた。
「ごめん、ぼく、まだ近くに犯人いないか探してくる!」
「分かった、行ってこい」
 アイヴィンの声に押され、クラウスはマーオと共に走った。
「マーオ、分かる?」
 鼻をさかんに動かして、マーオは迷うことなく足を進めた。
 その道は、ホームが燃えた時と同じものだった。
(同じ道……やっぱり、同じ人だ!)
 森に逃げる前に掴まえなければ。
(門番さん、起きてて……!)
 クラウスが追いつくことができなくとも、門番が足を止めてさえくれれば、捕まえることができるかもしれない。しかし、その肝心の門番もつい先ほど、どういうわけかぐっすりと眠っていたことをクラウスは思い出した。そして門には扉などついておらず、門番さえいなければすぐに森に駆け込める状態だった。
 何が何でも追いつかなければいけない。その思いで必死に走る。
 目前に門が見えてくる。
「あっ、いた!」
 小さな人影が見えた。
 まだ森に逃げ切っていないようで、何を考えているのか、門に寄りかかってまだ眠っている門番を見下ろしているようだった。焦っている様子もなく、悠長に門番の顔を覗き込んでいる。
(もしかして、門番さんは、あの人に眠らされた?)
 気づかれないようにクラウスはカンテラの火を消して建物の影に隠れながら、そろりそろりと怪しい人影に近づく。
 そして、その姿がはっきり見えるようになって、クラウスはあっと叫びそうになった。
(小さい、女の子!?)
 たくさんのレースがついたバラ色のドレス、大きな帽子をかぶる少女だった。庶民が滅多に着れるようなものではないことくらい、何も知らないクラウスでも分かった。後ろ姿を覗く形になってしまい、顔がよく見えない。しかし、座り込んだ門番と頭の高さが同じだということは分かった。まだ十歳にも満たない幼い少女のようだ。
(本当に、あの子が、やったの?)
 細い指を門番の額に当てて、少女は「うふふ」と笑った。
「帰りましょ」
 ぴょんっと跳ねて、少女は門の外へと体の向きを変えた。
(森へ帰る? どういうこと!?)
 このままでは、森のあの深い闇の中へ逃してしまう。
 クラウスは慌てて影から飛び出した。
「ちょっと待って! ねえ、きみ」
「あら?」
 クラウスの声に、少女は振り向いた。
「あ、え、フルダ?」
 その少女の顔を見た瞬間、クラウスは自分の見たものを疑った。
 フルダにとてもよく似ている。
 というよりも、フルダだった。
 小さな丸眼鏡、眉の上で切りそろえられた金髪に輝く髪、ぱっちりな目。少女の姿をしたフルダそのものだった。
 うろたえるクラウスを見て、少女は「うふふ」と無邪気に笑った。
 そして、何も言わずに門をくぐりぬけ、闇の中へと消えていく。
「あ、だめ、待って!」
 このまま、何も知らないまま見失ってはいけない。森に入ってはいけないというアイヴィンの言葉はクラウスの足を止めることはなかった。
 一瞬ためらったが、門の外へと駆けだしたクラウスを追い、マーオも森の中へと潜って行った。


 足元が冷たい。
 闇の中で最初に感じたものは、ひんやりとした空気だった。
(追ってきたのはいいけど、本当に何も見えない……)
 あの、フルダに似た少女はどこに行ってしまったのだろう。この闇の中を迷いなく歩いているのだろうか。
 気づかれないようにといってカンテラの明かりを消してしまったのは間違いだった。そして、カンテラに火を入れないまま森に入ったのも間違いだった。
「そうだ、火」
 万が一、火が消えてもいいようにと、渡されていたマッチ箱を胸のポケットから出し、火をつける。
 ぽっとついた明かりに安心感を覚えながらカンテラに再び火を入れた。
 しかし、視界は晴れることはなかった。
 濃い霧が、森を覆っている。細かい粒に光が反射し、あたりがぼうっと明るくなるが、見えるのは滞留する霧の流れだけだった。
 一歩でも動いてしまうと、途端に帰り道が分からなくなりそうな気がして、クラウスは一歩を踏み出すことができなかった。相棒のマーオもどこにいるかさっぱり分からないし、感じることもできない。
(どうしよう、朝まで待つのも怖い……)
 霧の向こうから何が出てくるかも分からない。それに、頼りになるマーオもどこへ行ってしまったのだろう。ここでむやみに動いてしまうと、本当に森から出ることができなくなりそうで、クラウスはぞっとして肩を震わせた。
(ここで角笛でも吹けたらなあ……)
 試しに息を通してみたが、すうっと空気が筒の中を抜けていくだけで、楽器が震えることはなかった。
 諦めて角笛をおろした時だった。
「迷子?」
「!?」
 腰のあたりを何者かに叩かれ、クラウスはびっくりして振り返った。
 振り返ったが、そこには何もいない。おかしく思ったクラウスは首をかしげた。
「下、下。ここ」
 外套をひっぱられ、クラウスは慌てて目線を下にさげた。
 すると、さきほど見た少女と同じように、たっぷりのフリルがついたドレスに身を包んだ少女がいた。ティルハーヴェンの星空のような、明るい夜の空の色をしている。霧のせいか、ドレスに星のきらめきが見えたような気がした。
「で、迷子なの?」
「あ、迷子というか……、何も見えないから、困ってた。さっき、きみに似た女の子を追ってたんだけど」
「私に似た?」
 クラウスはそう言って、やっと少女の顔立ちを確認した。さっき追っていた少女とは別人のようだ。金髪ではなく、クラウスと同じく黒の髪を持つ少女だった。
「うーん、顔はぼくの友達にそっくりで、背丈がきみくらいって言ったほうが正しいかな。あと、ぼくの犬とはぐれちゃって」
「犬? あ、さっき見たわ。何か探してるのかと思ったけれど、あなただったのね」
「よかったら、案内してくれない?」
「分かったわ。はぐれないようにね。このへんはよく霧が出るの。もうちょっとしたら風が晴らしてくれると思うのだけれど……、ほら」
 耳をすますように言われ、クラウスは息を殺して耳に手を添えた。
 くすくす、という笑い声が聞こえる。そして、何か、さくさんの視線を感じる。
 とたんに、強い風が吹いて、クラウスの帽子を飛ばそうとした。慌てて帽子を押さえて、飛ばないようにする。それはとても強い風だった。
 さあっと霧が動き、少女は「いい風!」と声を上げた。
「ありがとう、風の精たち!」
 手を振って何者かに呼びかける少女の姿に、クラウスはまたもや首をかしげる。何を言っているのだろう。
「ねえ、誰とお話してるの? 何かいるの?」
「え? 風の精たちよ。知らないの?」
「かぜのせい?」
「あら、知らないの。まあそうよね。知らなくていいわ。さ、行きましょ」
 スキップしながら進んでいく少女を追いかけながら、クラウスはあたりを見る。
 霧が晴れて、周りに何があるかがよく見えた。
(おかしいな、ぼく、森に入ったはずなのに)
 森に入ったはずなのに、ティルハーヴェンに戻ってきたような気がする。あたりには、木造の家が立ち並んでいた。
 そして、空を見ると、クラウスはわっと声をあげた。
 カンテラがいらないほど明るい空。星がまばゆい。月はないのに、星のきらめきだけで空が明るかった。
「ねえ、ここ、どこなの?」
 ティルハーヴェンのようで、ティルハーヴェンではないところにいる。クラウスは直感でそう思った。ここはどこだろう。知っている場所ではなかった。
「ここ? ここはね」
 ドレスをふわりと広げて、少女は踵を返し、クラウスを見上げた。
「“夜の国”、小人の街よ」
「え……?」
 にこにことする少女の言っている内容を、クラウスはすぐには理解できなかった。
「さ、あなたのわんちゃんも見つかったわ」
 マーオも迷っていたのだろうか。クラウスを見つけたマーオは、全力疾走でクラウスに駆け寄ってきた。
「マーオ」
 マーオがいるだけで、ひどく安心する。クラウスはマーオの毛をくしゃくしゃにしながら撫でてやった。
「さ、もう夜が終わるわ。早く帰らなければ。じゃあね。さようなら」
「あ、ちょっと待って、きみ、名前は?」
「名前? 教えない、どうせもう会わないもの」
 少女はそれから何も言わず、走り去っていった。
 途端に、風で飛ばされていたはずの霧がクラウスたちを包んだ。今度ははぐれてしまわないようにマーオをぎゅっと抱きしめる。
 視界がぼんやりとしてきて、急に眠気も襲ってくる。不思議な感覚だった。
「マー……」
 マーオ、と呼ぼうとしたところで、眠気に負けてしまい、クラウスはその場に倒れこむようにして眠ってしまった。


「クラウス! クラウスったら!」
「いっ……!」
 ばしんと頬を叩かれて、クラウスは飛び起きた。
「なんでこんなところで寝てるのよ! もう、探したじゃない。角笛も吹けないくせに!」
 頬を叩いたのはどうやらフルダのようだった。
 その後ろにはアイヴィンもいる。
「ええ……? ぼく、寝てたの?」
「そうよ! ぐっすりね! 門番さんも一緒にすやすや寝てたわ! こんなところで寝て襲われたらどうするのよ、馬鹿!」
「あいて、ごめん、フルダ」
 クラウスはフルダにばしばし帽子の上から頭を叩かれながら、ぼんやりする頭で考えた。
(おかしいなあ、ぼく、森に入ったはずなのに……)
 どうやら、門に寄りかかって眠っていたようだった。
「本当にぼく、最初からここにいたの? ぼく、森まで追っかけたと思うんだけど」
「はあ? 寝ぼけてるの? あなたはここでぐうすか寝てたのよ。夢でも見てたんじゃない? ねえ、マーオ」
「マーオ、そうなの?」
 聞いても、マーオは知らんぷりをするだけで、何も分からなかった。
「まあまあ、とにかくクラウスは無事だったし、何があったのかはクラウスに後で聞けばいいじゃないか。火をつけたやつを追いかけてたんだろう? とりあえずホームに帰ろう」
「ええ……立てる?」
「う、うん。ありがとう」
 朝の光が目に刺さる。
 クラウスはぼんやりとした頭で、二人を追いかける。
(夢だったのかなあ)
 そうだとしても、クラウスは自分が見たものを忘れてはならないような気がしたのだった。

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